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2010年11月7(日) 第13回黙示録セミナー by エレミヤ(前半)  録音時間36分23秒
第13回黙示録セミナー 前半 101107_003.wma
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第13回黙示録セミナー                      (後半)
第13回黙示録セミナー 後半 101107_004.wma
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         第13回黙示録セミナー   テキスト

 

13回黙示録セミナー H22.11.07

 

 

書かれた全てのことが成就する報復の日

 

1. それは、神の怒りの日である。

 

 

”ルカの福音書 2122 これは、書かれているすべてのことが成就する報復の日だからです。

23 その日、悲惨なのは身重の女と乳飲み子を持つ女です。この地に大きな苦難が臨み、この民に御怒りが臨むからです。”

 

 

終末の日とは、どんな日か?  

 

それに関してこの箇所では、それは、「報復の日」であることが書かれている。

神は誰を怒り、誰を報復するのか?それは、上記ことばのように、「この民」、神の民に 怒りが臨み、神の民に苦難が臨む日なのである。  

 

 

黙示録の日、終末の日のもっとも大事なポイント、見のがしてはいけないポイントは何か?

それは、その日が神の怒りの日である、ということである。

 その証拠に黙示録には神の怒り、小羊の怒りということばが

多用されている。以下の通りである。  

 

 

ヨハネの黙示録 616 山や岩に向かってこう言った。「私たちの上に倒れかかって、御座にある方の御顔と小羊の怒りとから、私たちをかくまってくれ。

ヨハネの黙示録 1118 諸国の民は怒りました。しかし、あなたの御怒りの日が来ました。死者のさばかれる時、あなたのしもべである預言者たち、聖徒たち、また小さい者も大きい者もすべてあなたの御名を恐れかしこむ者たちに報いの与えられる時、地を滅ぼす者どもの滅ぼされる時です。」

ヨハネの黙示録 1410 そのような者は、神の怒りの杯に混ぜ物なしに注がれた神の怒りのぶどう酒を飲む。また、聖なる御使いたちと小羊との前で、火と硫黄とで苦しめられる。

ヨハネの黙示録 1419 そこで御使いは地にかまを入れ、地のぶどうを刈り集めて、神の激しい怒りの大きな酒ぶねに投げ入れた。

ヨハネの黙示録 151 また私は、天にもう一つの巨大な驚くべきしるしを見た。七人の御使いが、最後の七つの災害を携えていた。神の激しい怒りはここに窮まるのである。

ヨハネの黙示録 161 また、私は、大きな声が聖所から出て、七人の御使いに言うのを聞いた。「行って、神の激しい怒りの七つの鉢を、地に向けてぶちまけよ。」

ヨハネの黙示録 1619 また、あの大きな都は三つに裂かれ、諸国の民の町々は倒れた。そして、大バビロンは、神の前に覚えられて、神の激しい怒りのぶどう酒の杯を与えられた。

ヨハネの黙示録 1915 この方の口からは諸国の民を打つために、鋭い剣が出ていた。この方は、鉄の杖をもって彼らを牧される。この方はまた、万物の支配者である神の激しい怒りの酒ぶねを踏まれる。

 

 

2. では神は誰を怒り、誰を対象に怒っているのか?その怒りの鉾先は?

 

 

もちろん、この世の人、神を知らないこの世の未信者を対象に怒る、ということもある。

しかし、明らかに黙示録に書かれている神の怒りの対象は、新約の神の民、教会、 背教したクリスチャンへの怒りである。以下の神の怒りの対象の記述はみな、教会と関係のある記述である。

 

 

 

”ヨハネの黙示録 1410 そのような者は、神の怒りの杯に混ぜ物なしに注がれた神の怒りのぶどう酒を飲む。また、聖なる御使いたちと小羊との前で、火と硫黄とで苦しめられる。”

 

 

ぶどう酒は、「私はぶどうの木、あなた方はその枝である」といわれたキリストと関係がある。また、教会の聖餐式で使用される。すなわち、教会への裁きが暗示される。

 

 

”ヨハネの黙示録 1619 また、あの大きな都は三つに裂かれ、諸国の民の町々は倒れた。そして、大バビロンは、神の前に覚えられて、神の激しい怒りのぶどう酒の杯を与えられた。”

 

 

神の怒りをかう、淫婦バビロン、それは、夫であるキリストへ忠誠を尽さず、逆にこの世と姦淫を行う、女性、背教の教会の別名である。

 

 

 

”マタイの福音書 1339 毒麦を蒔いた敵は悪魔であり、収穫とはこの世の終わりのことです。そして、刈り手とは御使いたちのことです。

40 ですから、毒麦が集められて火で焼かれるように、この世の終わりにもそのようになります。

41 人の子はその御使いたちを遣わします。彼らは、つまずきを与える者や不法を行なう者たちをみな、御国から取り集めて、

42 火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。”

 

 

良い麦、正しいクリスチャンは倉、御国に入るが、一方、つまずきを与えるクリスチャンや不法を行なうクリスチャンは終末に火で焼かれることが明言されている。

 

 

 

”マタイの福音書 1347 また、天の御国は、海におろしてあらゆる種類の魚を集める地引き網のようなものです。

48 網がいっぱいになると岸に引き上げ、すわり込んで、良いものは器に入れ、悪いものは捨てるのです。

49 この世の終わりにもそのようになります。御使いたちが来て、正しい者の中から悪い者をえり分け、

50 火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。”

 

 

 

魚は、「人間をとる漁師にしてあげよう」とのペテロへのことばからもわかるようにクリスチャンのたとえである。その魚、クリスチャンの中にも2種類の魚があり、一方は器、天の御国に入り、悪い者は、火で焼かれることが書いてある。

 

 

悪いクリスチャンは終末の日に神の怒りをかい、火に投げ込まれるとは聖書が一貫として語る教えである。

 

 

 

3. 神はあなどられるようなお方でなく、背教の人々、悪を行う人々を裁くため、 終末の日にわなをかけておられる

 

 

”イザヤ書 2913 そこで主は仰せられた。「この民は口先で近づき、くちびるでわたしをあがめるが、その心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを恐れるのは、人間の命令を教え込まれてのことにすぎない。

14 それゆえ、見よ、わたしはこの民に再び不思議なこと、驚き怪しむべきことをする。この民の知恵ある者の知恵は滅び、悟りある者の悟りは隠される。」”

 

 

真に神を拝そうとしない人々は、知恵に溺れ、聖書知識に溺れ、教理が仇となって正しい終末教理を理解せず、滅びに至る。

それは、主の初降臨の日に多くの教理の知識がありながら、神が送られたナザレのイエスを キリストであると理解できなかったパリサイ人、律法学者に通じる。

 

 

 

4.終末の日においては、終末に関する正しい教理は、消え失せ、変質し、偽りや、聖書とかけ離れた教理が大きく広がることがゆるされる:

 

 

その理由は、その日が神の怒りの日だからである。神の許しの中で、多くのクリスチャンが、偽りの終末教理の犠牲となり、滅びに至る。

 

 

”テサロニケ人への手紙第二 210 また、滅びる人たちに対するあらゆる悪の欺きが行なわれます。なぜなら、彼らは救われるために真理への愛を受け入れなかったからです。

11 それゆえ神は、彼らが偽りを信じるように、惑わす力を送り込まれます。

12 それは、真理を信じないで、悪を喜んでいたすべての者が、さばかれるためです。”

 

 

偽りの力、惑わす力は、すでにキリスト教会に送り込まれており、インチキ終末教理を満載した、

レフトビハインドの本は6000万部を超える大ベストセラーとして、クリスチャンの間で受け入れられている。日本でも高木慶太のヨタ本が大売れし、艱難前、二段階携挙説は、大いに受け入れられている。

惑わしは許され、真理より、インチキがうれしい人々はみな、既に引き込まれている。  

 

彼らは終末の日にキリストのために苦難に会うという真理より、「クリスチャンは艱難には決して会わない」という偽りを選んだ愚か者である。

 

 

レフトビハインド関連本が大売れしているその理由は、上記みことば、「あらゆる悪の欺き」が跋扈する日の成就である。

 

 

 

5. 終末の日を通して、救われるもの、残される者は少ない:

 

 

何故なら、神が終末をそのような日として、定めたからである。神は今の時代の背教の教会に 対して怒りを発しており、多くの者がすでに神の怒りの対象となっているからである。

 

 

 

”マタイの福音書 1021 兄弟は兄弟を死に渡し、父は子を死に渡し、子どもたちは両親に立ち逆らって、彼らを死なせます。

22 また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人々に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。”

 

 

最後まで耐え忍ぶ少数の人は救われる。

 

 

 

”ルカの福音書 1726 人の子の日に起こることは、ちょうど、ノアの日に起こったことと同様です。

27 ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、食べたり、飲んだり、めとったり、とついだりしていたが、洪水が来て、すべての人を滅ぼしてしまいました。

28 また、ロトの時代にあったことと同様です。人々は食べたり、飲んだり、売ったり、買ったり、植えたり、建てたりしていたが、

29 ロトがソドムから出て行くと、その日に、火と硫黄が天から降って、すべての人を滅ぼしてしまいました。

30 人の子の現われる日にも、全くそのとおりです。”

 

 

ノアの日の特徴は洪水で多くの人が滅び、ノア達少数の者が残ったこと。

ロトの日も同じ。すなわち、終末の日、滅びる人は多いが残る人は少ない。

 

 

”マタイの福音書 2410 また、そのときは、人々が大ぜいつまずき、互いに裏切り、憎み合います。

11 また、にせ預言者が多く起こって、多くの人々を惑わします。

12 不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。

13 しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。”

 

 

大ぜいの人がつまずき、裏切る、また多くの人が惑わされる。

最後まで耐え忍ぶ少数の人が救われる。

 

 

6. 終末は惑わし、偽りの天才、サタンがその活動を許される時である

 

 

教会時代の間、ずっとサタンの働きには制限が加えられていた。しかし、

神の怒りの時、終末の日にサタンの働きが許される。それゆえ、クリスチャンはひとたまりもなく、

惑わしに入って行く。

 

 

”テサロニケ人への手紙第二 26 あなたがたが知っているとおり、彼がその定められた時に現われるようにと、いま引き止めているものがあるのです。

7 不法の秘密はすでに働いています。しかし今は引き止める者があって、自分が取り除かれる時まで引き止めているのです。

8 その時になると、不法の人が現われます”

 

 

引き止めるもの、聖霊が教会から追い出され、反キリスト、不法の働きが自由に教会に行われる時が来る。それが、終末の時であり、その時は、今までのキリスト教会の常識を超えた偽り、窓わしが起きてくる。

 

 

 

7. 終末のみことばが難解、たやすく理解できないのは、終末における神の裁きと関係がある。

 

 

すなわち、神は終末の日に神の民に区分を行おうと本気で考えておられ、結果、

終末の神の言葉をもといに神の民は2分される;

 

 

正しい民は終末のことばを悟り、災いを免れる。しかし、悪を行う民は、悟らず、滅びに至る。

 

 

 

”ダニエル書 129 彼は言った。「ダニエルよ。行け。このことばは、終わりの時まで、秘められ、封じられているからだ。

10 多くの者は、身を清め、白くし、こうして練られる。悪者どもは悪を行ない、ひとりも悟る者がいない。しかし、思慮深い人々は悟る。”

 

 

 

 

8. たとえにより理解する黙示録:教会に関するたとえ

 

 

1)女は教会のたとえである

 

 

 

”エペソ人への手紙 531 「それゆえ、人はその父と母を離れ、妻と結ばれ、ふたりは一心同体となる。」

32 この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。”

 

 

男はキリスト、女は教会に関するたとえである。

このことがわかると、以下の黙示録の女、花嫁の意味合いもわかる。

 

 

”ヨハネの黙示録 212 私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。

3 そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、

4 彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」”

 

 

花嫁は終末の苦難を経てもキリストに忠実であったクリスチャンの集まり、教会である。  

 

3節以降のことば、「神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。..彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。」とのことばは、この花嫁、教会が終末の日、どのような苦難を経たかを暗示する。

 

 

 

そして、女、教会にもキリストに忠節な教会と、背教する教会とがある。

以下の女はキリストに背教する教会である。

 

 

 

”ヨハネの黙示録 171 また、七つの鉢を持つ七人の御使いのひとりが来て、私に話して、こう言った。「ここに来なさい。大水の上にすわっている大淫婦へのさばきを見せましょう。

2 地の王たちは、この女と不品行を行ない、地に住む人々も、この女の不品行のぶどう酒に酔ったのです。」”

 

 

 

2. 「天地」も教会に関するたとえである

 

 

”創世記 155 そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」”

 

 

神はかつてイスラエルの先祖であるアブラハムに対して、その子孫は天の星、地の砂のようになると

いわれた。イスラエルは新約のイスラエルに通じ、今のクリスチャンである。

そして、星は天にあり、砂は地にある。同じようにクリスチャンのいる教会は、天地をもってたとえられている。

 

このことがわかると以下の天地に関するたとえが理解できる。

 

 

”ルカの福音書 1617 しかし律法の一画が落ちるよりも、天地の滅びる(

過ぎ去る:KJV)ほうがやさしいのです。"

 

 

ここでいわれていることは、神のみことばの一点一画が過ぎ去り、変化するより、 天地すなわち、教会が変質、過ぎ去り、別のものになるほうがたやすく起きる、 そう語られているのである。

 

 

聖書の他の箇所でも、みことばの変質と天地が過ぎ去ることが対照的に

書かれている。

 

 

 

”ルカの福音書 2133 この天地は滅び(過ぎ去る:KJV)ます。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。”

 

 

さて、このことがわかると、以下の黙示録のことばも理解できる。

 

 

”ヨハネの黙示録 211 また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。”

 

 

 

ここで天地が過ぎ去っていくことが書かれている。

この意味合いは上記「神のみことばの一点一画も過ぎ去らない」ことと関係しており、 すなわち、教会が変質して、神のことばからかけ離れて行くことをさすと理解できる。

現在の教会の現状もこのことばの通りであり、聖書のことば自体はかわらないものの、 教会の信仰、信条は大きく変質、逸脱、変節している。

 

 

キリストは復活していない、終末の艱難に会わないなどと、教会はすでに

その信仰を大きく変えているのである。

 

 

 

 

ー以上ー