聖書箇所 Ⅱヨハネの手紙5,6

 

 

 

1:5 そこで夫人よ。お願いしたいことがあります。それは私が新しい命令を書くのではなく、初めから私たちが持っていたものなのですが、私たちが互いに愛し合うということです。

 

1:6 愛とは、御父の命令に従って歩むことであり、命令とは、あなたがたが初めから聞いているとおり、愛のうちを歩むことです。

 

 

 

「神の命令に従って歩んでいく中で、愛を全うする」というテーマで、みことばに沿ってみていきたいと思います。

 

 

 

以前、第一ヨハネの手紙3章で「隣人を愛する」というテーマに沿って話をしたことがありますが、本日のみことばも同じようなことを言われています。そして、上記5節のみことばで「互いに愛し合う」ということをヨハネは再度強調しています。また、なぜヨハネが同じことを繰り返しお願いしているのか?と言うと、それに関しては冒頭のみことばに続いて、「人を惑わす者、すなわち、イエス・キリストが人として来られたことを告白しない者が大ぜい世に出て行ったからです。こういう者は惑わす者であり、反キリスト」とあり、さらに「だれでも行き過ぎをして、キリストの教えのうちにとどまらない者は、神を持っていません」ということが書かれています。これは何を言っているのか?と言うと、クリスチャンと称しながらも、「イエス・キリストを告白しない」とか「キリストの教えのうちにとどまらない者」がいるということを言っているのです。でも、そういう人たちは、「反キリスト」とか「神を持っていない者」なのです。そしてもし、イエス・キリストを告白しなかったり、キリストの教えにとどまらないときにどうなってしまうのか?と言うと、「互いに愛し合う」ことができなくなるのです。反対に私たちがイエス・キリストのことをきちんと告白してキリストの教えにとどまるなら、「互いに愛し合う」ということを全うできるのです。

 

 

 

証というほどのことではありませんが少し話をさせてください。じつは私自身も、この箇所を真面目に読むまでは、「互いに愛し合う」ということについてぼんやりしていて今ひとつよく分かっていませんでした。もちろん今も100%理解したわけではありませんし、当たっているかどうかは分かりませんが、しかし本日のみことばを通して、「ああー、なるほど!」と思いました。また、「互いに愛し合う」ということに関して、以前は少し難しく考えていたり、あるいは知性においてしかとらえられなかったのですが、でも実際にはとても単純明快で要は、「キリストの教えにとどまる」だけで良いのだということを自分なりに理解することができて、少し気持ちが楽になりました。考えてみたら、イエスさまがそうだったなぁと思います。主はこの地上にいたときに何をしていたか?と言うと、神さまの御心を行うことに、ただただ一直線でしたよね。それこそ愛する弟子たちはそばにいたものの、彼らに対して「愛しているよ」なんて優しいことばをかけて愛を表現していたかと言うとそうではなく、神さまの御心を行うことを通して弟子たちに「愛」をお示しになっていたと思います。3年半の公生涯の主の歩みと言えば、そのことに徹していたと思います。

 

 

 

ですから私たちも、イエスさまと全く同じとまではいかなくとも、しかしキリストの教えにとどまり続けていく歩みをひたすら目指していきたいと思います。たしかに聖書において、「互いに愛する」ことや「隣人を愛する」ことに関して様々な角度から語ってはいますが、でも常々キリストの教えにとどまり続けていこうと、あるいは神さまの御心を行うことに専念していこうという風に志していくときに、たとえ完璧ではなくても、自ずと人を愛することにつながっていくのでは?と思います。以前少し話しましたが、生まれつきの人間の性質には「人を愛する」というものが、ゼロとは言わないまでも、ほとんどないかもしれませんが、でも神の命令、すなわちみことばにとどまり続けていこうと祈り求めていく中で、特別努力はしなくても、人を愛していくことが自然にできるようになっていくのでは?と思います。また、ヨハネが愛をもって何度も繰り返して語っているということは、私たちは互いに愛し合うことが難しかったり、それに関してすぐに違反者になりやすいので、くれぐれも気を付けていきなさいということを言われているのではないかと思います。そうであるがゆえに、このことを絶えず意識して祈り求めていくことが大事なのでは?と思います。特に世の終わりはあらゆる不法がはびこるために多くの人の愛が冷えていく時でもありますので、あえてそういった流れに逆らって歩んでいきたいと思います。残念ながら今は多くのクリスチャンがみことばを行わない時代かもしれません。しかし「キリストの教えのうちにとどまらない者は、神を持っていません」とあるように、もしキリストを持たないときに、いわば教えに逆らってばかりいる時に永遠の命が危ないものとなりますので、くれぐれも気を付けていきたいと思います。ぜひキリストの教えに益々堅くとどまって、永遠の命を得ていきたいと思います。