聖書箇所 Ⅲヨハネの手紙4

 

 

 

1:4 私の子どもたちが真理に歩んでいることを聞くことほど、私にとって大きな喜びはありません。

 

 

 

「真理のうちを歩み続ける」というテーマで、みことばに沿ってみていきたいと思います。

 

 

 

冒頭の4節のみことばにおいて、子どもたちが真理に歩んでいることをヨハネがとても喜んでいることについて書かれています。ちなみに「子どもたち」とは、たとえの意味合いもあり、霊の子ども、すなわち教会の信徒の人たちを指します。

 

 

 

さて、「真理に歩む」なんてことは、多くのクリスチャンにとって常識であり、よく知っている事柄だと思います。なので、「何を今さら言うのか?!」なんて声も聞こえてきそうですけど、今一度、共におさらいができれば・・・なんていう思いで、筆を走らせています。

 

 

 

ところで、「真理」ということばを聞いたことのないクリスチャンは、ほぼ皆無だと思うのですが、「真理」とは何を言われているのか?について簡単に話したいと思います。国語辞典を引くと、「本当の事」「間違いでない道理」と書かれています。また、KJV訳で「真理」のところはtruthとあり、こちらは「真理」「真実」「事実」と訳されています。日本語も英語もいずれも「本物」というニュアンスがあります。裏返すと、「にせ物ではない」という風にも理解できます。さらに掘り下げて、「本物」とは聖書の中で何を指しているのか?と言うと・・・以下の聖書箇所をご覧ください。

 

 

 

参照 ヨハネの福音書14:6

 

14:6 イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。

 

 

 

上記みことばで分かるように、イエス御自身が「真理」すなわち「本物」なのです。もちろん皆さんも御存知のように、今は肉体を持ったイエスは地上にはいません。しかし、もう一人の助け主「聖霊」がお一人一人のクリスチャンの内側におられます。そして聖霊が私たちに「真理」を示してくださるのです。もし、私たちが聖霊の語る声に耳を傾けて従っていくなら、テーマにも掲げたように、「真理のうちを歩む」ことができます。でも、どこまでも聖霊の声を拒んでいくときに、残念ながらクリスチャンと言えど、「真理のうちを歩む」ことはできません。つまり同じクリスチャンと言われる人であっても、真理のうちを歩む人と、そうではない人とがいる、ということが理解できますよね?言うまでもなく、前者、真理のうちを歩むことが望ましいのではありますが、しかし後者、すなわち真理のうちを歩まない時にどうなってしまうのでしょうか?上記みことばで「わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません」と言われているように、父のみもとに行くことができなくなるのです。「父」とは、「天の父」のことです。「天の父」なのですから、「父」は当然「天国」にいるわけなのですが・・・「父のみもとに行けない」とは、天の御国に入らないということを言っているのです。昨今キリスト教会において、「天の御国は楽勝」とか「クリスチャンは裁かれない」とか「クリスチャンになったら皆天国」なんてことが言われているようですけれど、このみことばをきちんと理解するなら、それは違うのでは?と思います。真理、すなわち本物に沿って歩んでいないときに・・・もっと言うならキリストを掴んでいないときに何を掴んでいるのか?と言うと、にせ物を手にしているわけです。具体的に「にせ物」とは何か?と言うと、悪魔(サタン)由来のおかしな教理や霊のことです。自覚するか否かは別として、「真理のうちに歩んでいない」というときに、こういう理論が成り立ってしまうのです。参考までに・・・おかしな教理とは一例を挙げるなら、「地獄は無い」「神はあまりにも愛だから人を地獄へは行かせない」「セカンドチャンスがある」「イスカリオテのユダも天国へ行ける」「クリスチャンは艱難を通らずに携挙される」等です。そしてこういった教理を吟味も無しに受け入れるなら、「おかしな霊」にやられてしまうのです。また、「おかしな霊」に関しての一例は、某リバイバル集会で下されているものです。あろうことか、神の器と言われている働き人が悪霊を呼び寄せて人々に下しているのです。そうすると、どうなるのか?と言うと、ある人は笑いのとりこになったり、ある人は獣のようになったりと、どう見ても聖霊ではなく、悪霊にやられてしまっているのです。また、「おかしな霊」について、もう1つ例を挙げるなら、これは聖書のみことばに書かれていることですが、「怒り」「憤り」「妬み」「嫉み」「党派心(KJV:野心)」「敵対心」「そしり」等の類いです。ちなみにこういうものを持ち合わせているときに、「こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません」のみことばが成就してしまいますので、重々肝に銘じておきたいと思います。そう、もし、そういう霊やおかしな教理を受け入れ続けるなら、「真理のうちを歩む」ことはできなくなるのです。「真理」の反対語、「にせ物」の中を歩むことになってしまうので・・・そしていつまでもそこにいるなら滅んでしまいますので、はっきり言うなら、永遠の命を失う可能性が大いにあり得ますので、くれぐれも気を付けなければいけません。もし、このようなことにお心当たりがありましたら、お祈りによって直ちに方向転換(悔い改め)をしましょう!!また、「真理の道」に入ったのなら・・・そこから出ることがないように、とどまり続けていきたいと思います。ひたすら真理のうちを歩み続けていきたいと思います。

 

 

 

最後に、「真理のうちを歩み続ける」ポイントについて話したいと思います。その前に、繰り返しますが・・・いくら「真理の道」に入ったとしても、途中でそこから出てしまっては全く意味がありません。「真理」から外れてしまうと、あっさりと「滅びの道」に入ってしまいますので・・・それこそ聖書には「中間」というものが存在しないので、私たちは自分の意志で常にどちらかを選択して歩んでいかなければなりませんので、そのあたりのことはよくよくとらえておきたいと思います。では、ポイントについて話したいと思いますが、基本はいつも申し上げているように、「祈り」と「みことばの読み込み」です。この二点を欠かさずに毎日コンスタントに行っていきたいと思います。このことはまさに「弟子の歩み」に通じることですが・・・かつてエレミヤ牧師が弟子の歩みの成否は、「祈り」だということをおっしゃっていましたが、まったくその通りでありまして・・・祈りを通して、聖霊の力に触れていく中で聖霊の声を聞いていき、なおかつ聖書を読んで神さまの御心を知り、そしてまたまた祈りによって聖霊から力を得て実践していく、そんなパターンを繰り返していく中で、自ずと「真理のうちを歩み続ける」という歩みにつながっていきます。それこそ祈りをしていく中で、聖霊が個々のクリスチャンに何をすべきか、どんな風に歩んだら良いかについてアドバイスをしてくださることも多々ありますので、そんな時はすかさずその声に従っていきたいと思います。また、補足までに「霊」に関して正常な状態を保ちたいのでしたら、日々、「御霊の実」(愛、寛容、柔和、自制、忍耐、親切、善意、喜び、平安、誠実、慈愛、謙遜等)を祈り求めていくことをおすすめします。「御霊」の実を結ばせていくのなら、よほどなことがないかぎり、霊的におかしくなることは、まず、ありえませんので、こういうポイントについてもとらえていただけたらと思います。以上が「真理のうちを歩み続ける」ためのポイントですが、あまりにも単純なことなので拍子抜けする方おられるのでは?と思います。ではあっても、御国に入るための大事なポイントだと思われますので、御心を感じましたら、ぜひ実践してみてください。

 

 

 

 

かつての私は、「真理」からは、ほど遠い歩みをしていた者でした。祈りはあまりしない、聖書もろくに読まない、読むとしても自分の好きな箇所に限定して読むなんていうクリスチャン生活を送っていましたので、「真理」からかけ離れていて当然と言えばそれまでなのですが・・・もちろん今でも途上の身ですので、日々祈りやみことばの中で真理を追い求めているわけですが・・・でも、先ほどのメッセージでも語りましたように、祈りやみことばの読み込み(聖書通読)を日課にするようになってから、だんだんと「真理」について目覚めるようになり、何が正しいこと、もしくはそうでないのか?神さまが何を喜ばれるか?御心は何か?についての判断が少しずつできるようになっていきました。以前は艱難前携挙説を受け入れていましたし、クリスチャンと名が付けば皆裁かれずに天国へ行けるなんてことを能天気にも信じていましたので、「真理」に関して覆いがかけられていましたが、そういうことから離れて、そして「真理」だけに焦点を当てていく中で、霊的に徐々に正しいことが見えるようになりました。その渦中においては、まさか自分が偽りを掴んでいるなんていうことは夢にも思っていなかったのですが、「真理」を知ってから、とんでもない教理を信じていたことに改めて気付くことができました。もちろん気付いたことは、神さまの一方的な憐れみと愛によるものなのですが・・・なので、そのことに恐れを持って、日々感謝して、ただただ「真理」のうちを歩んでいけるように、これからも祈り求めていきたいと思います。本日も大切なことを語ってくださった神さまに感謝します。