聖書箇所 ピレモンへの手紙17



 



1:17 ですから、もしあなたが私を親しい友と思うなら、私を迎えるように彼を迎えてやってください。



 



「キリストのパートナーとなる」というテーマで、御言葉に沿ってみていきたいと思います。



 



この言葉はパウロとテモテが、神の働きの同労者であるピレモンに言われた言葉です。「彼」とは、その前の節を読むと分かるのですが、オネシモのことです。前の節によると、オネシモは、以前はピレモンにとって役に立たない者だったとのことですが、今は、ピレモンやパウロたちにとって役に立つ者となったのです。そのオネシモを、ピレモンのもとに送ることを手紙の中でパウロとテモテは言われているのです。そのような流れの中で、冒頭の御言葉が書かれています。



 



今回、「キリストのパートナーとなる」というテーマを付けてしまいましたが、「親しい友」のところを、KJV訳でみると“partner”と書かれています。“partner”の意味合いは「仲間、共同者、協力者、配偶者」です。ちなみに「協力」とか「協力者」いう言葉は、聖書の所々で使われています。



 



参照 Ⅰコリント3:9、Ⅱコリント1:11,24、ピリピ4:3



3:9 私たちは神の協力者であり、あなたがたは神の畑、神の建物です。



1:11 あなたがたも祈りによって、私たちを助けて協力してくださるでしょう。それは、多くの人々の祈りにより私たちに与えられた恵みについて、多くの人々が感謝をささげるようになるためです。



1:24 私たちは、あなたがたの信仰を支配しようとする者ではなく、あなたがたの喜びのために働く協力者です。あなたがたは、信仰に堅く立っているからです。



4:3 ほんとうに、真の協力者よ。あなたにも頼みます。彼女たちを助けてやってください。この人たちは、いのちの書に名のしるされているクレメンスや、そのほかの私の同労者たちとともに、福音を広めることで私に協力して戦ったのです。



 



神の働きにおいて、「協力」ということは、とても大事なキーになるのです。また、私たちが神の働きの協力者とか同労者になっていくときに、神の働きはスムーズに進み、栄光や御わざが次々と反映されていくのです。そのためには私たちが神様の協力者、つまりキリストのパートナーになることです。また、ピリピ人書43節に、「いのちの書に名のしるされている」と書かれているように、キリストのパートナーになっていくときに、「いのちの書」に名前が記されていく可能性が大いにあるのです。もちろん一度記されたからといって、安心できるわけではありません。もし、キリストのパートナーを辞退するなら、消されてしまう可能性もありますので・・・



 



ところで、以前、同じピリピ書4章で「働き人を助ける」というテーマにおいて同じようなことを語りましたが、この度、パウロやテモテがピレモンにお願いしたことも、それに準じます。はじめに書きましたように、ピレモンもすでに神の同労者なのですが、パウロやテモテのような働き人を助けることに大いに御心があるのです。そして、そう、今までも何度も繰り返して語っていますように、「聖書はイエス・キリストについて証する書」です。そのような視点で読んでいくと、ここに記載されているパウロやテモテというのは、ある意味、「キリストの型」という風に理解できます。この文章を読んでいるあなたの目の前に、もし、イエス様がいるとして、イエス様から、「○○と××をお願いしたいのだけれど」と、そんな風に言われたら、どう対応しますか?紛れもなく、「はい、分かりました」と、答えて、すぐに実行に移すのではないでしょうか?「もしあなたが私を親しい友(パートナー)と思うなら~」とは、そういうことを言われているのです。たしかに神様、イエス様は私たちの目には見えません。でも、神様の働き人というのは、たとえ人であっても、ある意味、イエス様をあらわす型でもあるのです。なので、働き人がお願いした奉仕に関しては、快く引き受けていきたいと思います。神様は働き人を通して、ご自身の働きを依頼されるお方だからです。特にメッセージをする人、群れの監督、つまり牧師や指導者から依頼されたことは、神様の前に忠実に行っていきたいと思います。恐らくピレモンは、パウロやテモテがお願いしたことを引き受けたと思いますが、それはイエス様が依頼したことに応じたという風に、神様の前には見なされるのです。



 



また、働きに限らず、私たちは人に対して接していくときに、「主に対するように」していくことに、絶えず着目していく必要があります。なぜか?このことも前に話したことですが、人に対してしているのですが、しかし、それは神様に対して行っていることと同じだからです。ゆえに、もし、本当にキリストのパートナーになるのでしたら、そのあたりのことは正しく理解されておいたほうが良いと思います。単に働きだけのことを言っているのではなく、人に対してどんな風に接していったか?と、いうことも、後の世における裁きに大いに反映されていく可能性があるからです。たとえばかつての旧約の神の民は荒野において、やれ飲む水がない、肉やたまねぎやすいかが食べたいなどと、モーセに対してつぶやきました。そのことでモーセは、民に対してこう言いました。「いったい私たちは何なのだろうか。あなたがたのつぶやきは、この私たちに対してではなく、主に対してなのです。」と。そして、モーセに対してつぶやいた民の結末はどうなったか?と、言うと、主から疫病をもって打たれてしまったのです。もし、私たちがキリストのパートナーになるつもりがあるのなら、つぶやいてはいけません。人に言っているのだから・・・と、ついつい弁解したくなるかも知れませんが、神様に対してつぶやいていることとまったく等しくなってしまいますので、はたまた滅んでしまう可能性があるので気をつけていきたいと思います。そう、キリストのパートナーとなって歩んでいくときに、「主に対するようにしていく」ことを、ぜひ、心がけていきたいと思います。



 



本日の要点をまとめます。



 



①今の時代も、キリストは、ご自身のパートナーとなって、働きや歩みをしていく人を求めておられます。その際、求められることは、神の同労者となって働きを担っていくことです。具体的には牧師や教師や指導者、メッセンジャーのように、奉仕を指定する立場の人から依頼されたこと(奉仕&弟子の訓練など)を、神様の前に忠実に行っていくことです。また、祈り&聖書通読を日々の日課としてください。パートナーとなるには、常に聖霊の力や御言葉に触れていくことが大切だからです。



 



②イエス・キリストは人格者です。人としての御性質を持っておられる方です。そしてイエス様は、このようにおっしゃいました。「何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。」と。どうでしょう?先のモーセの話ではありませんが、もし、あなたが誰かにつぶやかれたらどうでしょうか?そういうことはされたくありませんよね。あるいは、誰かに優しくされたり、親切にされたりしたらどうでしょうか?とても嬉しいですよね。ただ、いずれも、その人があなたに対してしたことは、すべてイエス様に対してしたことなのです。そのように考えていくなら、良いことだけをおこなっていくことが出来るように祈り求めていきたいですよね。もし、真剣に祈り求めていくなら・・・あらゆる失敗を繰り返しながらも、神様に喜ばれること、具体的には、人に助けの手を差しのべたり、優しく親切に接していったりということが、自然にできるようになります。結果として、特別な努力をしなくても、おのずとイエス様のパートナーになっていきます。



 



以上です。



 





ここ、数ヶ月の間、なんとなく、主から示されたことがあります。御言葉にも書かれていることなのですが、「あなたの敵を愛しなさい。あなたを憎む者に善を行いなさい。」ということです。それに続いて「そうすれば、あなたがたはいと高き方の子どもになれます」と書かれています。弟子の歩みをしてから4年以上が経ち、その中で数々のことを通して、主から様々なことを教えられていますが、神様の子どもとなるためには、こういったことも、視野に入れていかなければいけないんだなぁと思いました。神様の子ども=キリストの花嫁=パートナーと、そんな公式が頭に思い浮かぶのですが、現実はとても厳しいと、正直思います。でも、聖書にハッキリと、書かれているので、そのことを守っていけるように祈り求めていきたいと思います。もし、神様の子どもになれない場合に、悪魔(サタン)の子どもになってしまうわけです。と、いうことは、御国に入れなくなってしまうので、気をつけていきたいと思います。



 



以前、少し話をしたかも知れませんが、弟子の訓練や働きに関して、多少なりとも大変だなぁと思う部分はありますが、そのことはある程度の期間、積み重ねていく中で徐々にクリアできるようになっていきます。むろん、日々の聖霊さまの助けあってのことですけどね。でも、それとは別に、御言葉を実践して、神様からはじめて弟子として扱っていただける、認めていただけるわけであって・・・弟子として歩むようになってから気付いたことですが、御言葉を実際に実践することは、思いのほかエネルギーを使うことが分かりました。訓練や奉仕の何倍、いえいえ何十倍、場合によっては、何百倍以上のエネルギーを要します。当然、忍耐も必要です。特に、「敵を愛する」なんてことに関しては、厳しいです。なぜかと言うと、神様の試みの大半は、このことだからです。具体的には、人を通して不当なことをされたり、言われたり、つまり理不尽なことを通して試されるのです。そして、そんな解決法はたったひとつです。「忍耐を持って祈る!」このことに尽きます。そのことを決断するまでの労力、決断してから祈るための時間とエネルギー、そして実際に神様がわざを成してくださるまでの時間についての忍耐が求められます。特に弟子として歩みだすと、このあたりをきちんとクリアできるか?が、定期的に試されます。でも、このことをちゃんとクリアとしないと次へのステップには踏み出せませんし、それだけで済むならともかく、神様の子どもとして見なされなくなってしまうので、なんとかクリアできるように、祈り求めるようにしています。すると、そのときどきに応じた神様からの不思議な助けや力や導きが与えられ、解決へと導いていただけます。きっとこれからも、そんなことの繰り返しなのでは?と、思います。そして艱難時代は、さらにそういったことが許されると思いますので、今からきちんと訓練していきたいと思います。



 



本日の聖書箇所を通して、まだまだイエス様のパートナーとは、ほど遠い者だなぁという風に感じましたが、ぜひ、そのようになれるように、祈りの中で目指していきたいと思います。本日も大事なポイントについて語ってくださった神様に栄光と誉れがありますように。