聖書箇所 ユダの手紙16

 

 

 

1:16 彼らはぶつぶつ言う者、不平を鳴らす者で、自分の欲望のままに歩んでいます。その口は大きなことを言い、利益のためにへつらって人をほめるのです。

 

 

 

「つぶやき、不平に勝利する」というテーマで、みことばに沿ってみていきたいと思います。

 

 

 

私も人さまのことをとやかく言える者ではありませんが、この世の中は比較的「不平や不満」で満ちているように思います。ちなみに「ぶつぶつ言う者」は、KJV訳では「つぶやき」と書かれています。そしてまた、「不平を鳴らす者」のことばに続いて、「自分の欲望」とあります。どうやら「つぶやき」とか「不平」は「欲望」と大いに関係があるようです。「こうなったらいいのになぁ」「○○を手に入れることができるといいなぁ」ということは、一見聞くと何ら問題はなさそうです。世の中の人は当たり前のように、「いい大学に入りたい」「大企業に就職したい」「立派なマイホームを持ちたい」なんてことを言っていますよね。こういう願望を持つこと自体は悪いことではないと思うのですが、それが「欲」に発展してしまうと良くないのです。そう、そして問題なのは、神さまを知らないこの世の人はともかく、クリスチャンと呼ばれる人が無意識のうちにも「欲」に引っ張られてしまうことなのです。以前もどこかの箇所で「欲」から解放されていくことについて話をしたことがあったと思いますが、「欲」に陥ってしまうときに、どういうことになってしまうのか?と言うと、同じユダの手紙の19節に書かれているように、「分裂」を引き起こしてしまうのです。さらに同じ節に「御霊を持たず」ともあるように、「欲」があるときに御霊を持たない、つまりイエスさまが共におられないのです。ですから私たちは、あらゆる「欲」に引っ張られることのないように気を付けていきたいと思います。

 

 

 

さて、本題に入りたいと思います。先ほど、「欲」と「不平」が密接な関係にあることを話しましたが、たとえば何か切望することがあって「こうなったらいいのになぁ」と、そこで終わればいいのですが自分の思うように事が進まない、あるいはうまくいかないときに、「どうして?」とか、はたまた「なんでこうなんだ?!」なんて不平や不満が出てしまうことはないでしょうか?自慢するわけではありませんが私は多々ありましたし、今でもそういったことが何かの時にふと出てしまうことがあります。でも、そのことに対しての神さまの取扱いがどんなものかを今まで数々の苦い体験を通して理解しましたので、こういうことは極力慎むように努力しています。むろん主にあってさせていただいているのですけどね()そうなんです、「つぶやき」とか「不平」に対する神さまの取扱いは、私たちが考えている以上に非常に厳しいものがあるのです。そのことに関連して、参考までにいくつかの聖書箇所を見てみましょう。

 

 

 

参照 民数記11:1,2,14:29,Ⅰコリント人への手紙10:10,ヤコブの手紙5:9

 

 

 

11:1 さて、民はひどく不平を鳴らして主につぶやいた主はこれを聞いて怒りを燃やし、主の火が彼らに向かって燃え上がり、宿営の端をなめ尽くした

 

11:2 すると民はモーセに向かってわめいた。それで、モーセが主に祈ると、その火は消えた。

 

 

 

14:29 この荒野であなたがたは死体となって倒れる。わたしにつぶやいた者で、二十歳以上の登録され数えられた者たちはみな倒れて死ぬ

 

 

 

10:10 また、彼らの中のある人たちがつぶやいたのにならってつぶやいてはいけません彼らは滅ぼす者に滅ぼされました

 

 

 

5:9 兄弟たち。互いにつぶやき合ってはいけませんさばかれないためです。見なさい。さばきの主が、戸口のところに立っておられます。

 

 

 

下線の部分を見ていただければ一目瞭然なのですが・・・「不平」や「つぶやき」を発した時に、神さまが怒りを燃やしたり、はたまた民が死んでしまったり、滅んでしまったことが分かります。「民」とか「彼ら」とか「兄弟たち」とは、いずれもイスラエルの神の民のことを指します。新約時代で言うなら、クリスチャンのことです。このことから私たちが不平を言ったりつぶやいたりしてしまうときに、クリスチャンでありながらも滅ぼされてしまうことが理解できますよね。クリスチャンになったとしても・・・案外私たちは不平を言ったり、つぶやいたりしやすいのだと思います。ゆえに何箇所かに分けて、注意書きとしてこんなことが述べられているのでは?と思います。ですので、たとえどんなに小さなことであったとしても、「不平」「つぶやき」が出てしまうことがないように気を付けていきたいと思います。

 

 

 

いつの時だったかあまり定かではありませんし、小耳に聞いたことですが・・・以前行っていた教会で何人かの兄弟姉妹が集まって天気について話していたとのことですが、その時に一人の兄弟が、「天気の悪口を言うな!」と皆に言ったそうです。私はその場に居合わせていなかったので状況は良く分かりませんが、恐らくその日の天候はあまり良くなくて、そのことに関してつぶやいたり不満を言ったりした人がいたのでは?と思います。それに対してそんな風に発したのでは?と思います。要は、天気を備えるのも神さまなのだから、どんな天候であれ、感謝しましょう!と、そんな意味合いでその兄弟は言ったのでは?と思います。その話を聞いた時に、言い方はどうであれ、もっともだと思いました。天気が晴れか雨か、あるいは強風か台風か、なんてことはあまり信仰とは関係ないように思いますし細かい話ではありますが、しかしそれに対して不平やつぶやきが出てしまうときに、神さまから怒りを買ってしまうなんてことが往々にしてあり得るのでは?と思います。そして恐らく、不平や不満やつぶやきを人前であらわにしてしまうときに、周囲の人たちにも霊的に悪い影響を与えてしまうのでは?とも思います。このようなことはほんの一例でありまして、一つ一つ挙げ出したらキリがないのですが、どんなに些細なことであっても、「不平」「つぶやき」のことばを封じていくようにしていきたいと思います。そうでないと、みことばに書かれているように実際に神さまから怒りを買ったり、裁かれてしまったり、滅ぼされてしまいますのでくれぐれもそういうことばが口から出ることがないようにしていきたいと思います。また、世の中の人や、はたまた周囲のクリスチャンがそうだとしても、そういうことに引っ張られてしまうことがないように心がけていきたいと思います。

 

 

 

では、最後に「不平」や「つぶやき」に勝利する方法に関して、私なりに示されたことや実践していることについて話したいと思いますので、興味がありましたら参考にしていただければ・・・と思います。

 

 

 

①「つぶやいたり、不平や不満を言うことがありませんように」と神さまにお願いをする

 

日々のお祈りの中で、気付いたときにこんな風に神さまに祈っておくのです。そうすると、何かそんなことに陥りそうな時に守られたりします。それでも失敗したときには、神さまに謝って赦しをいただいて、次回からは気をつけるようにしています。

 

 

 

②「感謝」のことばを絶えず口ずさむ

 

みことばにも、「いつも喜んでいなさい、絶えず祈りなさい、すべてのことに感謝しなさい」とありますので、もし、不満に思うことがあったりしても、まずは嘘でもいいので、「感謝します!」と神さまに話しかけるのです。「嘘でもいい」なんて不信仰に聞こえるかもしれませんが、自分の思惑と違うようなことに出くわすときに・・・ことにその状況が良くないときに、そのことをなかなかすんなりとは受け入れられませんよね。しかしだからと言って、ぶつぶつ言うのが御心か?と言うと、それはサタンに隙を与えてしまうので、まずは取り急ぎ、納得がいかないことであっても、何度も何度も繰り返して、「感謝します!」と神さまに言ってみるのです。そうすると、どうなるか?と言うと、たとえ気に入らないことがあっても、「神さまに委ねていこう。神さまがいつか祝福や恵みに変えてくださることを信じよう!」という気持ちに少しずつ変えられていきます。多少時間はかかるかもしれませんが、内側にある思いが聖霊さまによって徐々に変えられていくのです。目に見える状況に特別な変化はないかも知れませんが、そのことがほとんど気にならない、なんていう境地に持っていくことも可能となります。

 

 

 

③努力&忍耐を働かせる

 

クリスチャンはたしかに信仰によって、あらゆることに勝利していかなければいけないというのは一面の真理ではありますが、しかし一方では「努力」とか「忍耐」ということも、聖書で言われているもう一面の真理です。どんなことも信仰を持って行っていくことは大事ではありますが、しかしその陰にはやはり「努力」や「忍耐」があることはご理解いただきたいと思います。これらのものを用いてあらゆるトラブルや困難に対応していくことも言われています。「努力」とか「忍耐」と言えば・・・主ご自身がこうおっしゃっていました。努力して狭い門から入りなさい」「あなたがたは忍耐によって自分のいのち(永遠の命)を勝ち取ることができます」と。ですから「不平」や「つぶやき」に関しても、それらが口から出てしまうことのないように努力をし、なおかつ忍耐を働かせていきたいと思います。

 

 

 

以上は私が示されたことではありますが、何はともあれ、人の前にも神さまの前にも「不平」「つぶやき」「不満」をはじめ、悪いことばが口から出てしまうことがないように、また、それをもって神さまから怒りを買ったり、裁かれたり、滅ぼされてしまったりすることがないように気を付けていきたいと思います。ちなみにかつてモーセの前につぶやいた民がいましたが、その人たちに対して、「あなたがたのつぶやきは、私に対してではなく、主に対してつぶやいたのです」と言われていたように、相手が人であっても、それは神さまの前にしたことになってしまいますので、そのこともぜひ心に留めておきたいと思います。反対にどんなことであれ、「感謝」をささげていくときに神さまは喜んでくださり、あらゆることから私たちを守ってくださいますのでぜひ、「感謝」を口ずさむことを習慣としていきたいと思います。たしかに私たちの元々の性質は、こういったもの(不平や不満やつぶやき)が出やすいかもしれませんが、こういうことに関してもきちんと対応して、天の御国にふさわしい者とされていきたいと思います。

 

 

 

 

大分前のことです。某スーパーマーケットに買い物に行った時のことです。ある商品を買いに売り場に足を運んだら値段は安かったのですが、私がイメージしていた商品とは少し違っていました。「ちょっぴり残念」という思いが心にあったのですがそんな中、その近くにいた人が話しかけてきました。その人も私と同じ商品を入手したかったようですがあまり気に入っていなかったのか、「ねぇ、これあまり良くないよね」と話かけてきました。どう答えたら良いか分からなかったのですが、私もその人と同じ思いがあったので思わず、「でも、安いから仕方がないですよね」なんて言ってしまいました。その時はそれで終わったのですが・・・その日の夜、神さまからの処罰がダイレクトにきました。一瞬、「なぜ、こういうことが?」と思ったのですが、お祈りの中で示されたのは、スーパーでの言動でした。何の気なしに発した私の言動は、神さまからは、「つぶやき」と見なされてしまったようです。すぐに神さまに「ごめんなさい。あの時のことを許してください」とお祈りしたら、ほとんど時を移さずに神罰は止みました。これはほんの一例ですが、つぶやきにかぎらず、神さまが忌み嫌う行動や言動をしてしまった時は、必ずといってよいほど、神さまからの愛の?神罰やムチ打ちが与えられました。きっとこれからもそうなのだと思います。もちろんそのたびに悔い改めるように心がけてはいますが、なるべく神さまを怒らせることがないように、事前に注意を払っていきたいなぁなんて、そんな風に思っています。この世の中のことを考えると、たかが「つぶやき」なんて思う人が多いと思いますが、しかし神さまの目から見ると、とんでもないことのようですので、くれぐれも気を付けていきたいと思います。それでも万が一、神さまを怒らせてしまったときには、すぐに悔い改めて許しをいただいて、同じ失敗を極力繰り返すことがないように祈り求めていきたいと思います。主の憐れみによって可能な限り、「感謝」を口ずさんで、「つぶやき」や「不平」からその都度解放されていく中で、天の御国に近づいていきたいと思います。