Ⅱヨハネ                     2015.8.16

 

Ⅱヨハネ

1長老から、選ばれた夫人とその子どもたちへ。私はあなたがたをほんとうに愛しています。私だけでなく、真理を知っている人々がみな、そうです。

 

選ばれた夫人と書いてある。

聖書の他の箇所で、「招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない」とある。

選ばれるというのは光栄な事。

そして、クリスチャンの中で、知らなければならない用語の一つは、この「選ばれる」という事。 世の中では平等という言葉が強調されるが、聖書の中では関係はない。

御言葉の中では、「招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない」という言葉が、明らかにあるし、また、「選ばれる」事に大きなポイントがある。

例えば、12弟子は選ばれた者。

イエス・キリストの話を聞いた者はたくさんいた。みんな、その時は、「良い」と思って聞きに行った。しかし、結局、御言葉を行ない、主につき、主に選ばれたのは、12使徒。

12使徒に関しては、はっきりと言われている。最後の晩餐の時に、「場所を用意しに行く」と言われているのは、群集ではない。招かれた者全てに言われているわけではない。最後の晩餐の時に言われているので、「選ばれた」者に言われている。

御国が確定しているのは選ばれた者。

これは、聖書の基本の基本。

 

2このことは、私たちのうちに宿る真理によることです。そして真理はいつまでも私たちとともにあります。

3真理と愛のうちに、御父と御父の御子イエス・キリストから来る恵みとあわれみと平安は、私たちとともにあります。

 

KJVで読んだ方が、言わんとしている事が分かる。

 

2我々の内に宿り、永遠に我々と共にある真理のゆえに、神である、真理の内にあるイエス・キリストから、恵みと、憐れみと、平和があるように。

 

ポイントは、我々に、神やキリストから、恵みと憐れみと平安が来る。

唯一の理由は、我々が、真理の内を歩んでいるがゆえに、恵みや祝福がある。

逆に言うならば、我々が真理の内を歩んでいない、偽りの教えを掴んでしまっている時に、必ずしも、神やキリストから、恵みや憐れみ、平和が来るとは限らない。

逆に偽りを掴んでしまったがために、あらゆる災いに遭ってしまったり、神の怒りを買ってしまうことや、祝福を受けない歩みに入ってしまうという事も往々にしてある。

エレミヤ牧師自身も、はっきりと真理の道に入った事を感じるまでは、やはり、あまり恵みを受けなかったり、神の憐れみが無かったり、平和が無かったり、というようなクリスチャン生活を送って来た。

しかし、ある時を契機に、主の憐れみの中で、真理の中に入って行った時に、そこから神の憐れみ、恵みを大いに感じるようになった。  そして、真理の啓示が開かれて来た。

喩えの理解、主が「大事だ」と言われる事を理解した。

喩えの理解を徹底して来た。  その時属していた教会では色々文句を言われた。

また、終末に関連して、キリストが2回にわたって来るという教えを拒否した。

結果、神学校を追い出された。それでも真理の道を歩んで行った。

そうしたら、神から恵みと憐れみが来るようになった。

憐れみのゆえに、今、角笛のホームページで書いてあるように、終末の真理が明確に見えて来るようになった。

なので、多くの人が勘違いしているように、世の終わりの時に666の獣のしるしをつけられるのは未信者の事ではない。獣の刻印の事柄は、明らかにクリスチャンへの警告。

「右手」「額」は、旧約聖書を読めば、神の民へ、神が契約の時に着けているもの。

その御言葉を「額」につけ、「右手」につけよと書いてある。

なので明らかに、クリスチャンへ来るという災いの事も、啓示として、はっきりと見るようになって来た。   これは憐れみだと思う。

それはなぜかというと、色んな恵みとかね終末に関して大事な事を教えられるようにもなり、それが、他の人には分かっていないようなので、おそらく特別な恵みだと思うのだが、そのポイントは、たった一つの事。偽りを掴まず、真理に留まっているように、恵みが来る。

我々は真理に留まってる故に、憐れみと恵みが来ている。

これはセットになっている。

働きに伴う困難はあるが、神様からの扱いが変わった。

やはり、真理のゆえ。

ヨハネの手紙には「真理」という言葉が多く出て来る。

真理に留まるがゆえの恵みという事に関して正しく見て行きたい。

 

4あなたの子どもたちの中に、御父から私たちが受けた命令のとおりに真理のうちを歩んでいる人たちがあるのを知って、私は非常に喜んでいます。

 

真理の内を歩むことにポイントがある。

「キリスト教に入ったから、教会に行っているから」と、どこでも真理があるというのは間違い。  往々にして、教会を通して変な偽りに入って行くのは、ある。あってはならない事だが。

だから、「真理のうちを歩んでいる人たちがあるのを知って、私は非常に喜んでいます。」と書いてある。

 

5そこで夫人よ。お願いしたいことがあります。それは私が新しい命令を書くのではなく、初めから私たちが持っていたものなのですが、私たちが互いに愛し合うということです。

6愛とは、御父の命令に従って歩むことであり、命令とは、あなたがたが初めから聞いているとおり、愛のうちを歩むことです。

 

互いに愛し合う事が大事。

それに伴って、愛という事と裏腹に、兄弟が兄弟を訴えたり、憎しみあったり、はてには訴えて死に至らしめる、そういう時代が来ることも預言されている。

そういう意味では、あらゆる面が教会の背教。

あらゆる面から御言葉に背いて行くが、「愛」という面においても、全く違う事をやるようになっている。

そして今、日本のキリスト教会でも、それらしい兆しが起きて来る。

少し前から、外人の人が主導して、「教会のカルト化」ということに大騒ぎをしている。

それをもって、「お前の所はカルトだ」など。教会の中で、訴え合い、裁判沙汰となり、非難し合ったりという事が起きている。

これは、兄弟が兄弟を訴え合ったりする時代の走り。

こう言う面でも御言葉とは違う方向に来ている時代だという事をよく覚えておくべき。

クリスチャンに訴えられたり非難されたりしてもびっくりしてしまってはいけない。

 

7なぜお願いするかと言えば、人を惑わす者、すなわち、イエス・キリストが人として来られたことを告白しない者が大ぜい世に出て行ったからです。こういう者は惑わす者であり、反キリストです。

 

惑わす者が大勢世に出て行った、と、あるが、この世の人を惑わすのではない。

なぜなら、反キリストと書いてあるから。 反釈迦とか、反マホメッドとか書いてあれば、これは他宗教の事だと思うが、反キリストはキリスト教会を惑わす。

なので、惑わされるのはクリスチャン。

惑わす者が大勢出て行ったという事は、どこで惑わすかと言えば、教会で惑わす。

教会の中で惑わしに入るという事は、頻繁にある。特に世の終わりの時にあっては、惑わしというのが多いに許される時代だという事をよく覚えておく。

惑わしというのは、必ずしも統一協会や物見の塔の様に、異端と言われる所だけではない。

そうでなくて、キリスト教書店でよく売られている本だとか、ベストセラーになっている本、有名な人だとか、そういう書籍や人を通して、惑わしが大いに入って来る時代だという事を覚えておく。

例えば「ヤベツの祈り」は魔術の原則だと言われている。

ヤベツの祈りは、全く同じ言葉で祈る、一か月も、一年間もずっと同じ言葉で祈る。

神に強制するかのような祈りで、魔術的な祈り。

しかし、その本は、ベストセラーになっていた。

もう一つはパーパスドリブンチャーチ(目的主導型教会)・・・これも一時日本で大いに流行った。  リックウォレンは、「キリスト教もイスラム教も一緒だ」などと言っている。

そういう物に限って、キリスト教書店等で売れて行ったりする。

ピーターワグナーも惑わし者。悪霊のリバイバルを持ち込んでいる。

「聖霊の第三の波」という本は、日本でも結構売れた。

そういう時代であるが、御言葉が正しい。

7節に「人を惑わす者が大勢世に出て来た」 「こういう者は惑わす者で反キリスト」

その事を覚えておく。今は、惑わしの多い時代。

なので、キリスト教書店で売られているからと言って、ベストセラーだからと言って、何でも買ってそのまま鵜呑みにする時代ではない。

御言葉に従うべき。 御言葉に書いてあるのは、「全てのものを吟味せよ」

本当にそれが神から出たものかどうか吟味せよと書いてある。

そういう時でも、やはり御言葉に従って行った人が正しい。

反キリストに関連してこういう事が書いてある。

「人を惑わす者、すなわち、イエス・キリストが人として来られたことを告白しない者が大ぜい世に出て行ったからです。」

こういう者が反キリストの特長。

色々な形でキリストを否定する。     ものみの塔なんかも然り。「イエス・キリストは神ではない」などと言っている。

それと共に、これから起きて来るであろう反キリストによる攻撃、また、キリスト教会への攻撃、そして、イエス・キリストその方に対する攻撃が来る。

その一例がダビンチコード。「イエスキリストは、本当は十字架になどかかっておらず、結婚して妻子持ちだ」などと言っている。「ナザレのイエスではあるけれども、聖書に予言されたキリストではない」

これもやはり、イエス・キリストが人として来られた事を否定している。

まさに反キリストの霊。

この事は、今は、「ダビンチコード」を初めとして、徐々に徐々に起きて来ているけれども、そのうち増々世が悪くなるにつれて、この事(イエスキリストは、本当は十字架になどかかっておらず、結婚して妻子持ちだ)が確定的なものとして言われるようになる。

インチキな「動かぬ証拠」がたくさん出て来る。

科学者がどんどん認めて行く。

「キリストはインチキだ」という学者が集められる。

びっくりしてはいけない。 この世は悪い者が支配している。

この世はどんどん本性を現して来る。

最後は、ペテロの手紙に書いてあるように、天も地も炎によって焼け崩れて滅びるから、今は世が本性を現してきているので、キリストを否定するのは仕方がない事。

我々はそういう所に生きている。

そういう時が来てもびっくりしない事。

しかし、フラフラしているクリスチャンは、その時ひっくり返されてしまう。

本当に御言葉についていない人は、「科学的だ」と言われると、考え直してしまう。

ローマ法王などがそう。

科学者が進化論が正しいと言えば、考え直してしまう。

信仰があるような顔をしているが、全然信仰が無い。

「進化論はあまりに科学的なので否定できない」などと言っている。

進化論ぐらいで騙されるなら、科学者が「イエスキリストは、本当は十字架になどかかっておらず・・・」などというように発表すれば、ローマ法王は真っ先に飛びつくのではないだろうか。

聖書では、ペテロはキリストを3回も否定している。

これは預言。

イエス様は、「あなたは鶏が2度鳴く前に3度私を知らないというだろう」と言われた。

3」という数字は、3つ目のミレニアムの預言。

我々は3つ目のミレニアムにいる。

これから、ローマ法王がキリストを否定する時。

代々のローマ法王は、ペテロの後継者。

だからカトリックがキリストを否定してもびっくりしてはならない。

預言されている事だから。

そういう日が来るという事を覚えておく。

その時に騙されるようでは話にならない。

しかし、揺るがされる人は揺るがされ、倒れる人は倒れて行く。

 

8よく気をつけて、私たちの労苦の実をだいなしにすることなく、豊かな報いを受けるようになりなさい。

 

豊かな報いと書いてあるがKJVでは、「働きの実」

KJVでは、「報酬を満額で受けられるように気をつけなさい」

もし我々が、変なもの(教理)を掴んでしまうと、受けるべき、今まで働いてきた実も受けられなくなってしまう可能性がある。この事は覚えておく。

 

9だれでも行き過ぎをして、キリストの教えのうちにとどまらない者は、神を持っていません。その教えのうちにとどまっている者は、御父をも御子をも持っています。

 

なので、行き過ぎてしまったり、間違った教理を掴んでしまったりする時には、神様から離れたようなクリスチャンになってしまう。

統一協会などは行き過ぎている。文鮮明をキリストなどと言っている。

また、ものみの塔も行き過ぎている。キリストは神ではないなどと言っている。

そういう者は神を持っていない。

我々クリスチャン生活というものは、クリスチャン生活の一つの基本という事は、一つの大事なポイントは、仕事をするという事。働きをするというポイントがあるという事をよく覚えておく。  聖書の中ではこれに類したことが度々語られている。

我々はねクリスチャン生活を通して、主の前に仕事をするという事を覚えておく。

仕事をした者は、後の日に報いを得るという事を覚えておく。

これは我々が、サラリーマンであろうと、主婦であろうと、無職であろうと関係は無い。

 

マタイ

25:14天の御国は、しもべたちを呼んで、自分の財産を預け、旅に出て行く人のようです。

25:15彼は、おのおのその能力に応じて、ひとりには五タラント、ひとりには二タラント、もうひとりには一タラントを渡し、それから旅に出かけた。

25:16五タラント預かった者は、すぐに行って、それで商売をして、さらに五タラントもうけた。

25:17同様に、二タラント預かった者も、さらに二タラントもうけた。

25:18ところが、一タラント預かった者は、出て行くと、地を掘って、その主人の金を隠した。

お金を増やした人は褒められた。

1タラントの者は何も仕事をしなかった。  それで怒られた。

旅に出て戻って来られる方は、再臨のキリスト。

我々は、再臨のキリストに出会った時に、「主にあってハレルヤ」という事もあるが、その後、清算が来るという事も覚えておくべき。

 

25:19さて、よほどたってから、しもべたちの主人が帰って来て、彼らと清算をした。

 

なので我々は、ここに書いてあるように清算をする。

清算とは、「どれだけ仕事をしたのか、その働きぶりを見せよ。」という事。

やはり、その日を見据えてクリスチャン生活をして行った方が良い。

商売は、売ったり買ったり。

売ったり買ったりは、贖いをさすので、人の救いに関する事。

伝道したり、語ったり、喋ったり。

5タラントあずかった者はもう5タラントもうけた。

商売をしないと、お金はもうからない。

1タラントを地を掘って隠していた人は怒られている。

この人の言い分は、

 

25:24ところが、一タラント預かっていた者も来て、言った。『ご主人さま。あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。

25:25私はこわくなり、出て行って、あなたの一タラントを地の中に隠しておきました。さあどうぞ、これがあなたの物です。』

25:26ところが、主人は彼に答えて言った。『悪いなまけ者のしもべだ。私が蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めることを知っていたというのか。

25:27だったら、おまえはその私の金を、銀行に預けておくべきだった。そうすれば私は帰って来たときに、利息がついて返してもらえたのだ。

 

この、怠け者の1タラントの人の問題は何かというと、他の人のまねをしていないこと。

5タラントから5タラントもうけた人は商売をした。

1タラントの人は、商売をしていない。だから儲かるはずがない。

そこで酷い事を言われている。

 

25:30役に立たぬしもべは、外の暗やみに追い出しなさい。そこで泣いて歯ぎしりするのです

 

しもべでもこの様な目に遭う。

なので、働かないというのはとんでもない事になってしまう。

働ないと自慢している人は危ない。

だから、それぞれ、主の配慮がある。

1タラントしかない人に「5タラントもうけよ」とかは言われない。あくまでも能力に応じてなので。1タラントの人は1タラントもうければよい。

1タラントのしもべは、それを土の中にしまっている。なので何も商売をしていない。

商売をしていないので、増える見込みがない。

そして、「役に立たない、怠け者のしもべだ」

我々はやはり、怠けていてはいけない。

全く商売しなければ、クリスチャン生活を50年しようが100年しようが、全くお金は増えない。  これは絶対に怒られるパターン。 なので、我々はレムナントとして、商売をして行くパターンを選ぶ。

レムナントのやっている、月刊バイブルは、まさに商売。

誰かが読んでいる。  心配はいらない。

我々はここも覚えておく。

僅かでも働きの一部に加わることが、一日24時間あるので、5分でも10分でも、働きの一端を担うという事を覚えておく。

そうすれば、働きを担う。

銀行。

「だったら、おまえはその私の金を、銀行に預けておくべきだった。そうすれば私は帰って来たときに、利息がついて返してもらえたのだ。」

銀行とは、教会の喩え。  我々が売ったり買ったりだとか、お金がたくさんあるところとして、

そこに預けておく、というのは、その一部に加わるという事。

加わって、献金している事が、伝道の一部、祈り、働きの一部に加わるという事。

教会に加わらないのは危ない。

明らかに我々は働いて賃金を得る。

なので、我々は働いて多少の実でも得れば、「もっと大きなものを任せよう」と主から言われる。 我々は24時間、伝道に重視する事が出来ない。

しかし、一日の内の5分でも10分でも、1時間でも、携わっていく時に、それが結構な量で、

働きになって来るので、やっていきたい。

バイブルの証を書くのも働きの一部。

 

Ⅱヨハネ

10あなたがたのところに来る人で、この教えを持って来ない者は、家に受け入れてはいけません。その人にあいさつのことばをかけてもいけません。

11そういう人にあいさつすれば、その悪い行ないをともにすることになります。

 

教えを持って来ない。

キリストの教えに留まらないで、それを持って来ない。

そういう人を家に入れるのも、あいさつするのもいけない。

あいさつをすると、その悪い行いを共にすることになる。

あいさつという言葉。  他の箇所では、ともに喜ぶ、という意味合いで使われている。

あいさつをする・・・ともに喜ぶ人。  そういう人は、その悪い行いをともにすることになる。

言わんとしている事は、その様に、キリストの教えに留まらない教えがあった時に、我々の態度を鮮明にする事。

神の御前に正しい態度は、やはり、キリストの教えを逸脱した人に対して、ウェルカムを言ってはいけない。

なので、レムナントとしては、行き過ぎた教え、間違った教えというのは、はっきり言うようにしている。 「角笛ホームページ」「エレミヤの部屋」でもはっきりしている。

「聖霊の第三の波、ベニーヒンは悪霊側」だとか、艱難前携挙は間違った教えだとか、殆ど歯に衣を着せていない。

 

12あなたがたに書くべきことがたくさんありますが、紙と墨でしたくはありません。あなたがたのところに行って、顔を合わせて語りたいと思います。私たちの喜びが全きものとなるためにです。

13選ばれたあなたの姉妹の子どもたちが、あなたによろしくと言っています。