ピレモンへの手紙      2014.3.30

 

 

 

1:キリスト・イエスの囚人であるパウロ、および兄弟テモテから、私たちの愛する同労者ピレモンへ。また、

 

 

 

パウロは、自分をキリスト・イエスの囚人だと言っている。

 

囚人とは、ギリシャ語では、つながれた者とか縛られたものなどのニュアンスがある。

 

この書にはオネシモという人が出てくる。彼はこの書に出てくるピレモンという人の奴隷であった。しかし、逃げ出してしまった。

 

奴隷だったオネシモだが、後にパウロによってクリスチャンになった。

 

そして、パウロはオネシモを元の主人であったピレモンの所へ帰した。

 

この書簡はその時の手紙。

 

奴隷とは、当時、お金で買われた者なので、一生懸命主人に尽くしていかなければならない。

 

パウロは、自分の事をキリスト・イエスの僕パウロと呼んでいるが、この場合も原語の意味合いでは奴隷。

 

「あなた方は代価を払って買い取られた者」と書いてあるがこれは奴隷に関しての事。

 

我々も、主イエスの御血潮で買い取られた者。なので、我々もキリスト・イエスの奴隷。

 

パウロはそんな認識で、主イエスに仕えていった。

 

それによってパウロは霊的な自由、霊的に恵みに富んだ歩みをして行った。

 

主に奴隷のように仕えていく時に、罪から解放された自由人になっていく。

 

強い罪の束縛からも解放される。また、色々なこの世の思い煩いからも自由になる。

 

死の力を持つサタンの脅かしの武器からも自由になる。

 

 

 

どんなことでも、聖書に書いてあることを実行していく時に恵みがある。

 

 

 

2:姉妹アピヤ、私たちの戦友アルキポ、ならびにあなたの家にある教会へ。

 

 

 

家にある教会。

 

文字通り、この教会は家庭で集会している。会堂などは無い。

 

たとえ、建物が公の建物では無いとしても、個人の家にある集まりであっても、それは教会である。

 

建物や、正統派など、あまりそんなことを言っていたりすると本質を見失う恐れがある。

 

主の言われた「教会」という言葉に目をとめていきたい。

 

的外れという言葉がある。我々の歩みの中にしても、教会に関連しても的外れな歩みに入って行かないように、最も本質的な部分に、目を留めていきたい。

 

 

 

3:私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。

 

4:私は、祈りのうちにあなたのことを覚え、いつも私の神に感謝しています。

 

 

 

やはり時間を割いて祈ることが大事。

 

 

 

5:それは、主イエスに対してあなたが抱いている信仰と、すべての聖徒に対するあなたの愛とについて聞いているからです。

 

6:私たちの間でキリストのためになされているすべての良い行ないをよく知ることによって、あなたの信仰の交わりが生きて働くものとなりますように。 

 

7:私はあなたの愛から多くの喜びと慰めとを受けました。それは、聖徒たちの心が、兄弟よ、あなたによって力づけられたからです。

 

8:私は、あなたのなすべきことを、キリストにあって少しもはばからず命じることができるのですが、こういうわけですから、

 

9:むしろ愛によって、あなたにお願いしたいと思います。年老いて、今はまたキリスト・イエスの囚人となっている私パウロが、

 

10:獄中で生んだわが子オネシモのことを、あなたにお願いしたいのです。

 

 

 

8節において、命じることが出来る。命令する事が出来る。

 

パウロにはその権限があったがそれを行使せず「お願いした」。

 

 

 

11:彼は、前にはあなたにとって役に立たない者でしたが、今は、あなたにとっても私にとっても、役に立つ者となっています。

 

12:そのオネシモを、あなたのもとに送り返します。彼は私の心そのものです。

 

13:私は、彼を私のところにとどめておき、福音のために獄中にいる間、あなたに代わって私のために仕えてもらいたいとも考えましたが、

 

14:あなたの同意なしには何一つすまいと思いました。それは、あなたがしてくれる親切は強制されてではなく、自発的でなければいけないからです。

 

 

 

我々は善い行いをすべき。

 

教会においては強制は方法ではない。自発的なものが求められる。

 

主は我々の自発的な歩みを待って下さる方。

 

イエス・キリストの一つの特長というのは、強制はしないということ。その人の自発性という者をずっと待っておられる。

 

しかし、待っておられるのをいいことに何もしなければ、恵みは無い。

 

示されたことは行っていく。

 

 

 

15:彼がしばらくの間あなたから離されたのは、たぶん、あなたが彼を永久に取り戻すためであったのでしょう。

 

 

 

しばらく人がいなくなったとしても、それはその人が永久に取り戻されるため。

 

 

 

16:もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、すなわち、愛する兄弟としてです。特に私にとってそうですが、あなたにとってはなおさらのこと、肉においても主にあっても、そうではありませんか。

 

 

 

主に対し、我々は、奴隷だったり僕だったりするけれども、しかしそれ以上のものとして、主はまた、我々に対してしたいと思っているのも事実。

 

 

 

ヨハネ

 

15:14わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友です。

 

15:15わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。

 

 

 

友の一つの特長は、その人が何をして、何を行いたいか、きちんと理解している。

 

主は我々を友として扱いたいのも事実。

 

主が友と認められる人に関しては、主がこれからなさろうとする事を色々教えられるという一面がある。

 

レムナントも色々示される。   例: これから起きる事。仮庵の祭、新しい革袋、アメリカが獣の国になる、荒らす憎むべきもの、など。

 

 

 

ピレモン

 

 17:ですから、もしあなたが私を親しい友と思うなら、私を迎えるように彼を迎えてやってください。

 

18:もし彼があなたに対して損害をかけたか、負債を負っているのでしたら、その請求は私にしてください。

 

19:この手紙は私の自筆です。私がそれを支払います。――あなたが今のようになれたのもまた、私によるのですが、そのことについては何も言いません。――

 

20:そうです。兄弟よ。私は、主にあって、あなたから益を受けたいのです。私の心をキリストにあって、元気づけてください。

 

21:私はあなたの従順を確信して、あなたにこの手紙を書きました。私の言う以上のことをしてくださるあなたであると、知っているからです。

 

22:それにまた、私の宿の用意もしておいてください。あなたがたの祈りによって、私もあなたがたのところに行けることと思っています。

 

23:キリスト・イエスにあって私とともに囚人となっているエパフラスが、あなたによろしくと言っています。

 

24:私の同労者たちであるマルコ、アリスタルコ、デマス、ルカからもよろしくと言っています。

 

25:主イエスキリストの恵みが、あなたがたの霊とともにありますように。