ヨブ記1章 2012.6.17

 

1:1 ウツの地にヨブという名の人がいた。この人は潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた。

1:2 彼には七人の息子と三人の娘が生まれた。

1:3 彼は羊七千頭、らくだ三千頭、牛五百くびき、雌ろば五百頭、それに非常に多くのしもべを持っていた。それでこの人は東の人々の中で一番の富豪であった。

1:4 彼の息子たちは互いに行き来し、それぞれ自分の日に、その家で祝宴を開き、人をやって彼らの三人の姉妹も招き、彼らといっしょに飲み食いするのを常としていた。

ヨブ記は艱難時代のこと、艱難時代の教え

 

参照 ヤコブ5:8,10,11

5:8 あなたがたも耐え忍びなさい。心を強くしなさい。主の来られるのが近いからです。

5:10 苦難と忍耐については、兄弟たち、主の御名によって語った預言者たちを模範にしなさい。

5:11 見なさい。耐え忍んだ人たちは幸いであると、私たちは考えます。あなたがたは、ヨブの忍耐のことを聞いています。また、主が彼になさったことの結末を見たのです。主は慈愛に富み、あわれみに満ちておられる方だということです。

 

終末の時、忍耐のときが来る

私たちにとって艱難時代は無縁では無い

ヨブが恵まれた、神から多くの祝福を受けた

どんなに神の祝福を受けても、失う時がある、このことは神の試し

あれもこれも失うことを理解する、それを理解するとき、神様が教えてくださるので、敬意を払って見ていきたい

 

1:5 こうして祝宴の日が一巡すると、ヨブは彼らを呼び寄せ、聖別することにしていた。彼は翌朝早く、彼らひとりひとりのために、それぞれの全焼のいけにえをささげた。ヨブは、「私の息子たちが、あるいは罪を犯し、心の中で神をのろったかもしれない。」と思ったからである。ヨブはいつもこのようにしていた。

1:6 ある日、神の子らが主の前に来て立ったとき、サタンも来てその中にいた。

1:7 主はサタンに仰せられた。「おまえはどこから来たのか。」サタンは主に答えて言った。「地を行き巡り、そこを歩き回って来ました。」

1:8 主はサタンに仰せられた。「おまえはわたしのしもべヨブに心を留めたか。彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりも地上にはいないのだが。」

1:9 サタンは主に答えて言った。「ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。

1:10 あなたは彼と、その家とそのすべての持ち物との回りに、垣を巡らしたではありませんか。あなたが彼の手のわざを祝福されたので、彼の家畜は地にふえ広がっています。

1:11 しかし、あなたの手を伸べ、彼のすべての持ち物を打ってください。彼はきっと、あなたに向かってのろうに違いありません。」

1:12 主はサタンに仰せられた。「では、彼のすべての持ち物をおまえの手に任せよう。ただ彼の身に手を伸ばしてはならない。」そこで、サタンは主の前から出て行った。

神とサタンとの会話が交わされた

ヨブは知らない

それは艱難時代の備え

ちなみに艱難時代は特殊な時代→正しいクリスチャンに対してサタンが求める

どんなに正しくても、祈りに答えられたり恵みを受けたりしても、艱難・苦難を通る

そしてサタンの申し出に神はOKする

なぜ、そういうことをゆるすのか?

12節「では、彼のすべての持ち物をおまえの手に任せよう。ただ彼の身に手を伸ばしてはならない。」と、あるように、これから、ヨブの身に試練が覆ってくる

神の前に正しくても、試練は避けられない

正しく歩むときに、試練がゆるされてくるという聖書の原則がある

 

参照 黙示録3:10

3:10 あなたが、わたしの忍耐について言ったことばを守ったから、わたしも、地上に住む者たちを試みるために、全世界に来ようとしている試練の時には、あなたを守ろう。

 

試練の時は来る、このことは、ヨブ記の再現

たしかに守りはある、しかし、試練は来る

それを経て、残ることにポイントがある

 

参照 イザヤ28:16

28:16 だから、神である主は、こう仰せられる。「見よ。わたしはシオンに一つの石を礎として据える。これは、試みを経た石、堅く据えられた礎の、尊いかしら石。これを信じる者は、あわてることがない。

 

「試みを経た石」とは、色々な艱難を経て、なおかつ、残る石

試みを経た石として歩みたい、それが、神の御心

このことに関して、イエス・キリストが模範

 

1:13 ある日、彼の息子、娘たちが、一番上の兄の家で食事をしたり、ぶどう酒を飲んだりしていたとき、

1:14 使いがヨブのところに来て言った。「牛が耕し、そのそばで、ろばが草を食べていましたが、

1:15 シェバ人が襲いかかり、これを奪い、若い者たちを剣の刃で打ち殺しました。私ひとりだけがのがれて、お知らせするのです。」

皆、殺されて奪われた

 

1:16 この者がまだ話している間に、他のひとりが来て言った。「神の火が天から下り、羊と若い者たちを焼き尽くしました。私ひとりだけがのがれて、お知らせするのです。」

羊も奪われた

 

1:17 この者がまだ話している間に、また他のひとりが来て言った。「カルデヤ人が三組になって、らくだを襲い、これを奪い、若い者たちを剣の刃で打ち殺しました。私ひとりだけがのがれて、お知らせするのです。」

らくだが取られた

 

1:18 この者がまだ話している間に、また他のひとりが来て言った。「あなたのご子息や娘さんたちは一番上のお兄さんの家で、食事をしたりぶどう酒を飲んだりしておられました。

1:19 そこへ荒野のほうから大風が吹いて来て、家の四隅を打ち、それがお若い方々の上に倒れたので、みなさまは死なれました。私ひとりだけがのがれて、あなたにお知らせするのです。」

息子や娘が皆、死んでしまった

財産や子どもを失った

このことは、持ち物に関しての試しと言える

艱難時代の試みや試しにおいて、持ち物を失っても正しく神の前に立ち続けるのか?が、問われる

ろば・羊はたとえ→教会の信者が去っても従っていくのか?

息子・娘についても同様

教会内で分裂や訴えや反逆があっても正しく神の前に立つのか?

イエス・キリストが、それに準ずる

最後、名声もすべて失った

それでも、キリストの言うことは一貫していた

それを模範にしていきたい

信者が増えようと減ろうと同じことを語っていく

持ち物を失うという可能性がある

しかし、とどまり続けていきたい

今のキリスト教会は数を見ている、それで、神の言葉を変える、しかし、それは危ない

揺るがしや試練が来たときにどうするのか?について、この箇所は語っている

 

1:20 このとき、ヨブは立ち上がり、その上着を引き裂き、頭をそり、地にひれ伏して礼拝し、

1:21 そして言った。「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」

何も持たずに来たから、何も持たずに去る

この世のものはこの世のものに過ぎない、失っても神の前に正しく歩んでいきたい

ヨブもイエス・キリストの型

裸で帰る:何も持って帰らない、人間関係、誇りとかも、すべて失った

良い評判もあった、しかし、それも取り払われた、カルトとして、この世を去った

名声は持って帰らなかった

私たちも同じようなもの→カルトと呼ばれる

それでも主に堅く着く

プライド、名声を剥ぎ取られても従っていく

地上の評判を失っても御言葉にとどまるのか?

地上の評判にとどまるなら、神の働きは消える

どっちを取るのか?について問われる

 

1:22 ヨブはこのようになっても罪を犯さず、神に愚痴をこぼさなかった。

ヨブは試みを経た、しかし、幸いにも御心の中で終わらせることが出来た

試みを経ても、消えたりしたらダメ!!

神様は残る人とやっていきたいと思っている

そのように見ていくと永遠の命を得るのは狭い門

正しく神の立場に立つ人とやっていきたい

苦難を経ても正しくとどまるか?