聖書箇所 ヘブル人への手紙6:1012



 



6:10 神は正しい方であって、あなたがたの行ないを忘れず、あなたがたがこれまで聖徒たちに仕え、また今も仕えて神の御名のために示したあの愛をお忘れにならないのです。



6:11 そこで、私たちは、あなたがたひとりひとりが、同じ熱心さを示して、最後まで、私たちの希望について十分な確信を持ち続けてくれるように切望します。



6:12 それは、あなたがたがなまけずに、信仰と忍耐によって約束のものを相続するあの人たちに、ならう者となるためです。



 



「最後まで」というテーマで、御言葉に沿ってみていきたいと思います。



 



順にみます。



 



6:10 神は正しい方であって、あなたがたの行ないを忘れず、あなたがたがこれまで聖徒たちに仕え、また今も仕えて神の御名のために示したあの愛をお忘れにならないのです。



 



ここで、聖徒たちに仕えていた人たちの行いや神の御名のために示した愛について、神様がお忘れになることがない、ということについてパウロは言われています。「神は正しい方」とありますように、神様はお一人一人をちゃんとご覧になっていて正当に報いてくださるお方だということです。人はたしかに見落としがあったり、間違えがあったりしますが、神様には一切、見落しや誤りがなく、なおかつ人をかたより見ることなく、公正に裁いてくださるのです。ですから正しく判断してくださる神様を仰ぎ見て、これからも聖徒の人たちに対して仕えていきたいと思います。しかも神様に対して仕えるようにしてお仕えしていくときに、後の世において神様から良い報いを受けますので、これから先もずっとそのように心がけていきたいと思います。



 



6:11 そこで、私たちは、あなたがたひとりひとりが、同じ熱心さを示して、最後まで、私たちの希望について十分な確信を持ち続けてくれるように切望します。



6:12 それは、あなたがたがなまけずに、信仰と忍耐によって約束のものを相続するあの人たちに、ならう者となるためです。



 



先ほどの御言葉において、「これまで・・・今も仕えて~」ということが書かれていましたが、11節では、「最後まで」と、書かれています。過去も現在も仕えていくことは大事、そしてここでは、未来に関してのことを言われています。こと、「最後まで」ということばに語りかけを感じます。



 



このことに関して、たしかにパウロは当時のヘブルの人々に対して語りました。しかし、それと同時にこのことは新約の時代を生きる私たちクリスチャンに対しての語りかけであるとも思います。パウロがこんな風にわざわざ「最後まで」という表現を使ったことに関してはちゃんとした意味があると思います。また、なぜ、終末にも再現するのか?と言うと、終末、すなわち7日目のミレニアム(2000年以降)には、おかしな教理が蔓延するからです。多くのクリスチャンがおかしなものをつかんでいくので救いが危うくなる、もっと言うなら、永遠の命が危なくなる、ということを言われているのではないか?と思います。そのことに関連して一例を挙げるなら、クリスチャンは裁かれずに皆天国へ行くとか、カトリックで言われているように、死ぬまでキリストを受け入れなくてもいい、ヒンズー教徒でも救われる、煉獄があるから今の時代ではあまりしゃかりきになる必要は無い、はたまた地獄は無い等です。こういう教理に関して何の吟味もなく、恐れ気もなく受け入れていくなら、11「十分な確信」からズレていくのです。「十分な確信」とは、次節に書かれている「約束のものを相続する」のことばから理解できるように、救い、すなわち天の御国に関する確信のことを言われています。要は、救いの確信から大きくずれていく可能性があるので前もって気をつけていきなさい!ということを言われているのです。ですからパウロがここで、「私たちの希望について最後まで十分な確信を持ち続けてくれるよう~」と言っているのです。パウロが今のことを予め理解していたかどうか分かりませんが、しかし、多くの人が脱落することを彼は2000年以上前に語ったのです。そしてこのことは、まさに今の時代に成就しつつあることを私たちは見ています。ゆえに例外的に救われなければいけないし、そのように歩んでいかなければいけないのです。



 



では、具体的にどうしたら良いのか?について、11,12節からヒントを得ます。「熱心さ」「なまけずに」のことばに1つのキーワードがあります。このところは、KJV訳では、「勤勉」と書かれています。日本人は昔から勤勉な国民だとの定評がありますが、いわば働き者なわけです。聖書においても、「勤勉」であること、「なまけない」ことが奨励されています。そして、12「信仰」「忍耐」をそれに加えていくことにポイントがあります。



 



「勤勉」とか「なまけずに」とは、何だか分かりづらいかも知れませんが、私はこのように考えます。たとえば受験勉強が、その一例ではないでしょうか?志望の高校や大学に進学するためには、そこを目指してひたすら熱心に勉強しますよね。睡眠時間を削ったり、あるいはテレビを見ることを我慢して・・・また、時には体調を崩してしまうこともあって思うように勉強がはかどらないこともあるかも知れません、でも、それで休むか?と言うと、そうではなく、何とか体に鞭を打ちながらも勉学に勤しむのではないでしょうか?それで春には晴れて、高校生や大学生になる、そんな流れなのでは?と思います。そこには当然、努力、忍耐があったと思います。でも、それだけの犠牲を払った価値はありますよね。結果として合格できたのですから。



 



そのことと比較するのもなんですが、クリスチャンの最終ゴールである天の御国に関しても同じようなことが言えるのでは?と思います。もし、私たちが世の中の人とほぼ変わらないような生活を送るなら・・・たとえば好きな時にドライブに行く、見たいテレビ番組はすべて制覇、新作の映画と聞けばすかさず映画館へ直行、健康維持やダイエットのために週3回位はジムに通う等。もちろんこれらのことを聖書で全面的に禁じているわけではありませんが、そのために、もし、聖書を読む時間やお祈りする時間や奉仕する時間がほとんど取れないというのなら、問題です。要は、そのようなものに陥り続けていくときに・・・どこまでも野放図に好き放題にしていくときに、それこそ何も努力なんてしなくても、自動的に「確信」からズレていきます。その結果、約束の地である天の御国に入れない可能性があるのです。



 



さっき例に挙げた受験に関しても同様です。頑張らなければいけない時に、やれスキーだの、ディズニーランドだの、海外旅行だの、ショッピングだのと、楽しんでいたらどうでしょうか?よほど才能がある人ならともかく、凡人なら間違い無く、どの学校も不合格ということにならないでしょうか?時間をはじめ、あらゆることを犠牲にした結果、念願の学校に合格できるわけであって、天の御国に関しても同じケースなのではないかと思います。あらゆることに犠牲を払って、場合によってはキリストのために肉体の命をも犠牲にして得ていくものなのでは?と、思います。たしかに進学に関しては万が一失敗したとしても、後々やり直しがききますが、しかし、天の御国に関しては聖書を読む限り、やり直すチャンスは皆無のようですので、くれぐれも気をつけていきたいと思います。



 



ですのでいつも申し上げているように、毎日聖書を読み、祈ることをきちんと身に付けていきたいと思います。聖書の読み込みは1章、2章とか、あるいは祈りに関しては5分とか10分ではなく、このことにある程度の章数や時間を割いていきたいと思います。教理に関しては、聖書から学んでいきたいと思います。多くのクリスチャンが教理から聖書を学んでいますが、そうするとズレていく可能性がありますので、きちんと聖書から教理を学んでいきたいと思います。また、神様から任されている奉仕はちゃんとこなしていきたいと思います。御言葉も、祈りの中で守っていきたいと思います。そのことを最後まで、すなわち主の再臨の時までに行っていくときに、「十分な確信」に留まり続けていくのではないかと思います。はじめに世の終わりに成就していくということについて話をさせていただきましたが、特にこれから迎える艱難時代において、このことは顕著にあらわれていくと思います。何を言っているのかと言うと、艱難時代には多くのクリスチャンが苦難、困難、試練に妥協して、反キリストや獣の国を拝んで永遠の命を失っていくぞ!ということをも暗示していると思います。イエス様がおっしゃっていたことですが、「人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか?」という御言葉があるくらいですから、艱難時代は多くの人が信仰を失う、そんなことを前もって語っているように思います。ですから「信仰」「忍耐」ということばも、大いにキーになっていくと思います。いずれ艱難時代は来ますし、場合によってはその時に居合わせる可能性もありますが、常に主に助けを求めつつ、最後まで御言葉に堅くついて主の訓練や働きにきちんと励み、信仰と忍耐をもって永遠の命を勝ち取っていきたいと思います。



 





今現在の歩みに入ってから、もう少しで5年になります。その間、主からの、いえ、主からだけでなくサタンからの、ありとあらゆる試みが許されました。なお、今現在も許されていますし、これからも、そして最後まで許されていくと思います。試みの時に、「私(神様)のことを優先するのか?それとも、自分の思いや考えを優先するのか?」の、問いかけがその都度あります。世の中の楽しいことをはじめ、自分の好きなこと、やりたいこと等をひとつひとつ聖霊にあって打ち消していくようになり、それはそれで感謝なことですが、正直、人間的には失うことばかりだなぁと、時としてちょっぴり残念に思うこともあります。でも、不思議なことに、捨てるまでの間は、思いや感情に色々な迷いがあるのですが、いざ、失ってみると、神様の訓練や働きに励んでいく志が益々与えられたり、霊的に大いに恵みを受けたりするので犠牲を払って損と思うことは、今まで一度もありませんでした。たしかに神様の訓練や働きをしていると、この世でのことにあまり時間は割けませんし、時として苦労があったりもしますが、ではあっても、聖霊にある喜びや平安で満たしていただけますし、こちらのほうが遥かに上回っているのでこれからも、そして最後までそんなスタンスで歩んでいきたいと思います。人間的には、何の犠牲も払わずに天の御国をゲット!といきたいところですが、聖書を読むと、また、本日の箇所からもそうではないことが理解できましたので、そのことに則していきたいと思います。また、世の諺に、「終わり良ければ、すべて良し」とあるように、途中経過がいくら良くても、最後でコケてしまったら全く意味がないので、最後まで十分な確信を手放さず、油断することのないように気をつけていきたいと思いました。本日も大切なことを語ってくださった神様に栄光と誉れがありますように。