聖書箇所 ピリピ人への手紙4:1419

 

4:14 それにしても、あなたがたは、よく私と困難を分け合ってくれました。

4:15 ピリピの人たち。あなたがたも知っているとおり、私が福音を宣べ伝え始めたころ、マケドニヤを離れて行ったときには、私の働きのために、物をやり取りしてくれた教会は、あなたがたのほかには一つもありませんでした。

4:16 テサロニケにいたときでさえ、あなたがたは一度ならず二度までも物を送って、私の乏しさを補ってくれました。

4:17 私は贈り物を求めているのではありません。私のほしいのは、あなたがたの収支を償わせて余りある霊的祝福なのです。

4:18 私は、すべての物を受けて、満ちあふれています。エパフロデトからあなたがたの贈り物を受けたので、満ち足りています。それは香ばしいかおりであって、神が喜んで受けてくださる供え物です。

4:19 また、私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。

 

「働き人を助ける」というテーマで、御言葉に沿ってみていきたいとおもいます。

 

 パウロの書簡を読んで分かるように、彼は福音を宣べ伝える働きのために、ありとあらゆることで労した働き人でした。そんな中、15,16節に書かれているようにピリピの教会の人たちは、パウロに対して助けの手を差しのべました。今でこそパウロは大伝道者と言われていますが、その当時、彼は周囲のクリスチャンから使徒と認められていませんでした。このことは信じられないかもしれませんが、ピリピ人への手紙以前の書簡を読んでみてもわかるように、「パウロって本当に使徒なの?」という風な目で周りのクリスチャンからは見られていました。ですから意外かもしれませんが、積極的にパウロを助けてくれる教会やクリスチャンはほとんどいなかったのではないかと思います。でも、ピリピの教会の人たちは例外的にパウロを助けました。そのようなことを念頭に置きながら、順にみていきたいと思います。

 

4:14 それにしても、あなたがたは、よく私と困難を分け合ってくれました。

4:15 ピリピの人たち。あなたがたも知っているとおり、私が福音を宣べ伝え始めたころ、マケドニヤを離れて行ったときには、私の働きのために、物をやり取りしてくれた教会は、あなたがたのほかには一つもありませんでした。

4:16 テサロニケにいたときでさえ、あなたがたは一度ならず二度までも物を送って、私の乏しさを補ってくれました。

 

 「あなたがたは、よく私と困難を分け合ってくれました」の部分をKJV訳でみると「あなた方は私の苦悩と共に伝達をしてくれました」とあります。

「伝達」とはおそらく「伝道」のことを言われているのではないかと思います。ここで「困難」とか「苦悩」という言葉が使われているのですが、パウロはクリスチャンに向けて神さまからの啓示を正しく伝えていたのですが、残念ながらパウロの時代も曲がっていたために、大多数の神の民からは正しい教理に対して反発をされたりして受け入れてもらえませんでした。ゆえに、そういう言葉が使われていたのだと思います。

しかしそういった状況の中で、ピリピの人たちは例外的にパウロの働きや啓示について理解をして、パウロと共に福音を伝える苦難をしてくれたり協力したりしてくれた、そんなことを言われているのではないかと思います。パウロの時代も多くの教会があり、沢山のクリスチャンがいたとは思うのですが、そんな風にパウロを助けてくれたり支えてくれたり人たちというのは、当時においてはとても珍しいことであったと、そのような状況がこちらの箇所からは想像できます。

 

次をみます。

 

4:17 私は贈り物を求めているのではありません。私のほしいのは、あなたがたの収支を償わせて余りある霊的祝福なのです。

4:18 私は、すべての物を受けて、満ちあふれています。エパフロデトからあなたがたの贈り物を受けたので、満ち足りています。それは香ばしいかおりであって、神が喜んで受けてくださる供え物です。

 

 さっき見ましたように、たしかにピリピの教会の人たちは、パウロの必要のすべてを補ったのは事実です。が、しかし、ここでパウロが言っているのは、「物質的なことも大いに助かります。でも、あなたがたの霊的な祝福が一番の助けになります」ということ言われているのではないかと思います。ちなみに17節に書かれている「霊的祝福」の部分は、新改訳聖書の注釈やKJV訳では「果実」という風に書かれています。

このことは何を言われているのかというと18節の「香ばしいかおり」のことではないかと思います。「かおり」の部分は英語では、odor of a sweet smellとあり、そのまま訳すと「甘い香り」という風に訳せます。これはさきほど話した「果物」に通じるのではないかと思います。みかんにしてもりんごにしてもそうですが、「果物」って基本的に甘いですよね、そのように考えていくと違和感なくそのことを理解できるのでは?と、思います。そして「甘い香り」とは「祈り」のことを指します。旧約聖書の中で「かおりの高い香」なんて言葉が度々出てきますけど、ここでもそれと同じことを言われています。また、「祈り」はまさしく聖霊の働きに通じます。ゆえに18節で「それは香ばしいかおりであって、神が喜んで受けてくださる供え物」と言われているのです。

 要は、ここで言われているのは物質的な必要も助かるけれど、祈りを通して霊的に支えてくれることは、もっと助かる、ということを言われているのではないかと思います。と、言うのは今までのメッセージでも何度も申し上げていますように、働きの基本は「祈り」だからです。基本的に、祈らないと聖霊の働きはありえないからです。たしかにパウロには神さまからのすばらしい啓示が開かれて、そのことを宣べ伝えたのは事実です。でも、その背後には、そのことをサポートするべく聖霊の働きがあったのではないか?と思います。いくらパウロにすばらしい弁舌があり、ありとあらゆる能力に長けていたとしても、しかし、聖霊の働き無しにパウロの召しは全うされなかったと思います。でも、祈りによって支えてくれた人々を通して、パウロは自分の召し、すなわち奥義を大胆に語るという召命を彼は神さまの前に全うすることができたのではないかと思います。たかが祈り・・・と、思うかもしれませんが、祈りのもたらす効力というのは、とてもすばらしいのだということをここでは語られているのではないかと思います。それによって新約聖書のほとんどの書簡がパウロによって書かれたのだと思います。そして今でもそれは残っていて、そのことを通して私たちは祝福や恵みに大いにあずっているのです。

 そう、ピリピの教会の人たちのように祈りによって働き人をサポートする、そのような働きは、神さま前にとても重宝するという点に関して、ぜひ、正しくとらえておいていただけたらと思います。

 そして、最後の御言葉19節をみてみます。

 

4:19 また、私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。

 

 ここで言われているのは、もしそんな風に・・・当時のピリピの教会の人々のように、今の時代においてもパウロのような働き人に対して金銭的あるいは物質的な面や霊的な面において助けの手を差しのべていくときに、私たちも同じような恵みや祝福に入っていくということを言われています。そう、ここに書かれているように、そうしていくときに働き人の同労者いう風に神さまの前に見なされ、私たちにおいても必要のすべてが満たされていくのです。それは経済が守られるということも一面あるかも知れませんが、霊的な祝福に、なお一層あずかっていくことも言われているのではないかと思います。また、このことは神さまが立てられた権威におのずと服従することにも通じます。そして聖書では、これから御言葉がききんの時代がくることについて言われているのですが、もし、ききんがおとずれたとしても常に満ち足りるようになるのではないかとも思います。御言葉のききんに関しては、列王記の17章でエリヤを助けたやもめの話に通じることです。エリヤがひとりのやもめに声をかけて、「水差しにほんの少しの水を持って来て、私に飲ませてください、そして一口のパンも持ってきてください」とお願いしたときに、彼女はほんの少しの油と一握りの粉で、エリヤのために小さなパン菓子を作りました。ちなみに当時、その地方には雨が降りませんでした。まさに、このことは御言葉のききんであり、聖霊の働きが無いことを言われているのですが、なんと、エリヤを助けたひとりのやもめに関しては、その間、かめの粉とつぼの油は尽きることがなかったのです。すなわち御言葉を聞くことのききんから免れたり聖霊の働きが注がれたりしたのです。

 もし、私たちもエリヤを助けたやもめのようにしていくのなら・・・ちなみにエリヤはイエス・キリストの型ではありますが、神さまが遣わした働き人を助けていくときに、御言葉のききんが訪れようとも、聖霊の働きが枯渇しようとも、例外的にそれらから免れていくという点についても見ておいていただきたいと思います。

 今の時代、働き人を助けるということはあまり言われないことかもしれませんが、このことに関してもパウロが・・・と、言うよりも神さまが私たちに語っていることですので、素直に耳を傾けておこなっていきたいと思います。

もし、神さまが遣わされた働き人に対して助けの手を拒んだり、妨害したりと、そのように非協力的な対応をするときに、最悪、神さまを敵に回すことになり、結果として霊的に枯渇したり、はたまた魂が荒廃して滅びを招いてしまう可能性がありますので気をつけていきたいと思います。ですので、繰り返すようですが・・・そのことを実践していくときに、働き人を助けるだけでなく、当人にとって守りとなったり助けとなったり益になったりしますので・・・そして、その延長線上には永遠の報いが伴いますので、ぜひ、おすすめいたします。

 

 本日、主が語ってくださったことは、「本当にそうだなぁ」と思います。

 以前行っていた教会もそうだったのですが、指導者つまり牧師のために祈るということが奨励されていました。なので、私もそのことを多少なりとも心がけるようにしていました。今はその教会から離れてレムナントキリスト教会で神さまの働きの一端を担わせていただいていますが、やはり、ここでも同じことを同じ聖霊さまが語っておられますので、わずかながらも実践させていただいています。たとえばレムナントキリスト教会は、終末の預言の解き明かすように召されているのですが、そのことに召されている人がきちんと語ることができるようにとか封印が開かれていくことができますようにといったお祈りに導かれています。そして神さまは、とても義理堅く誠実なお方でありまして、そのようなお祈りにこたえてくださっています。具体的には、毎週の礼拝のメッセージを通して啓示が語られたり、黙示録セミナーやニュースレターやインターネットの働き等を通して封印や謎とかも解かれたりしています。自分自身は祈るだけで他には何もしていないのですが、そういうことを通して神さまの栄光や御わざを見たり、祝福や恵みにあずかったりしています。つい最近もエレミヤ牧師を通して、黙示録のある箇所の封印が紐解かれたのですが、教会のみなさまや聖徒の方々のお祈りを通して神さまが働いてくださっているのだなぁと感じました。これからも、そんな風に働き人や働きのために主と共にお祈りしていけたらなぁと思います。本日も大切なことを語ってくださった神様に栄光と誉れがありますように。