聖書箇所 ヨハネの黙示録3:1

 

 

 

3:1 また、サルデスにある教会の御使いに書き送れ。『神の七つの御霊、および七つの星を持つ方がこう言われる。「わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる。

 

 

 

「サルデスの教会(プロテスタントの教会)への警告」というテーマで、みことばに沿ってみていきたいと思います。

 

 

 

前回は黙示録2章から、「テアテラの教会(カトリック教会)への警告」と題してメッセージをしましたが、神さまはカトリックのみならず、私たちプロテスタントに対しても警告を語っていますので、本日はそれについてみていきたいと思います。

 

 

 

御存知かどうかは別として、「サルデスにある教会」とは、プロテスタントの教会を指します。以前礼拝のメッセージで学んだことですが、「サルデス」とは、「赤いもの」という意味だそうです。ちなみに「赤い」ということばで、何か連想するみことばはありませんでしょうか?これも度々レムナントの礼拝のメッセージでエレミヤ牧師が語られていることですが、「エサウ」とか「エドム」ということばがまさにそうだと言えます。エサウはヤコブの兄で、ある日、ヤコブが煮物を煮ているとき、エサウが飢え疲れて町から帰ってきました。そのときに「どうか、その赤いのを、そこの赤いものを私に食べされてくれ。」と言いました。その時弟ヤコブは「今すぐ、あなたの長子の権利を売りなさい」と言いました。そしてエサウは「見てくれ。死にそうなのだ。長子の権利など、今の私に何になろう。」と言ってそのことを了承しました。それゆえ、彼の名前は「エドム」と呼ばれたのです。そして聖書人名地名小辞典によれば、「エドム」とは、「赤い」「赤土」とあります。

 

 

 

今話をしたように、エサウ、すなわちヤコブの兄は長子の権利を放棄しました。人間の場合でもそうですが、男兄弟が何人かいたとして、もし、一家の家長(父親)が死んだ場合に普通は長男があと取りになったり、家を継いだりしますよね。でも、長男が「俺は後継ぎなんかにならない!」と言った場合に、その権利は次男にいきますよね。そして次男が財産を受け継ぐという風になりますよね。本来なら長男が受けるべきなのですが、この場合拒否したので、そのまま次男に権利が移るということになります。これはこの世のことではありますが・・・聖書でも、同じことなのです。エサウとヤコブは、両方共クリスチャンです。「長子の権利」とは、「財産」を受け継ぐ権利です。しかもこれは「後の世における財産」すなわち「天の御国を受け継ぐ」ことに通じます。そしてあろうことか長男エサウは、その「権利」を自らの意思で放棄したのです。この世で財産を受け継がない場合でも、かなりな損失だと思うのですが、だからと言って「死活問題」にはなりませんよね。たしかに金銭的には若干乏しくなるかも知れませんが、「生死」にはさほど関係が無いですよね。でも、後の世における「権利」に関しては、話が変わってきます。この世において「天の御国」の相続の権利を失うなら、天の御国を受け継ぐことができなくなってしまうからです。そして「長子の権利」を放棄したエサウ、すなわちエドム(赤いもの)はなぜ、権利を放棄することになったのか?と言うと、「天の御国」に入る歩みよりも、この世的なもの、いわば「俗悪」な生活を選んだからです。それこそ「飢え疲れた」ときに、本来ならキリストの力を求めて満たすべきところを「赤いもの」、いわゆるキリストとは関係が無いこの世のもので満たすことを彼は選んだのです。分かりやすく言うなら、神さまの御心を行うことよりも、この世についた歩みをするクリスチャンのパターンが「エドム」なのです。

 

 

 

そしてエサウのように俗悪になっていくときに、「あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる」という風に神さまに見なされてしますのです。冒頭のみことばはそのことを言っているのです。さらに分かりやすく言うなら・・サルデスの教会、今で言うプロテスタントの教会は、「生きているとされている」と言うように、たしかに礼拝をしているし奉仕をしている、しかし信仰の実態は「死んでいる」と言われているのです。「悪い冗談を言うな!」と怒る人もいるかもしれませんが、聖書に書かれていることなので、もしかしたらそういう可能性もあるかもな?と思ったほうがよいと思います。

 

 

 

もちろん同章の4節「しかし、サルデスには、その衣を汚さなかった幾人かいる」とあるように、すべてのプロテスタント教会や信者さんがそうだとは言いませんが、でも、「幾人か」ということばから、神さまの前に「義」とされているクリスチャンはとても少ないのでは?と思います。ですからもし、「自分は絶対に違う!」と思われたとしても、多少なりとも神さまが語る警告のことばに耳を傾けていただけたらと思います。

 

 

 

では、いったいプロテスタントのどこに問題があるのか?について話したいと思います。絶対にそうだ!とは申しませんがそれに関して、「わたしは、あなたの行ないを知っている」のみことばに語りかけを感じます。また、それに続く同章の3節のみことば「あなたがどのように受け、また聞いたのかを思い出しなさい。それを堅く守り、また悔い改めなさい」がそうです。恐らく言わんとしていることは、プロテスタントがみことばを守らなくなっている、あるいはこれからみことばを守らなくなるぞ!ということではないかと思います。「それを堅く守り、悔い改めなさい」ということばが語っているのは、そういうことではないのでしょうか?一例を挙げるなら、日本の某教団では、「同性愛」を受け入れつつあるということを聞きました。聖書には同性愛はダメだということがハッキリと書かれているのですが、しかしアメリカではあろうことか、同性愛に反対するクリスチャンが逮捕されたり投獄されたりということを聞いています。また、アメリカではイエス・キリストの名によって祈らない教会は税の優遇を受けているそうです。反対に聖書のみことばに則して主の名によって祈る教会は税を課せられているとのことです。同性愛を容認したり、イエス・キリストの名によって祈らないというのは、聞いたことを堅く守らない教会やクリスチャンのことを言われているのではないでしょうか?また、聖書には「人を赦しなさい」とか「人を裁いてはいけません」ということが書かれていますが、いつまでも人を赦さなかったり、裁いてしまうなら、それもやはりみことばを守っていないという風に見なされないでしょうか?以上挙げたことはほんの一例に過ぎませんし、残念ながらこれからみことばを守らないというような風潮が法律等をもとに、プロテスタントに広がっていくのでは?と思います。ですから本日のみことばは、世の終わりにプロテスタントがどんどん俗悪になっていくことや、それによって永遠の命を失うクリスチャンが続出していくということを語っているのでは?と思います。

 

 

 

先ほどアメリカの話をしましたが、レムナントキリスト教会では「獣の国」はアメリカだと理解しているのですが・・・すでに日本のキリスト教会もアメリカのありとあらゆるおかしな教理や霊に侵食されつつありますが、アメリカを起点に世界規模でみことばに反逆させるようなムーブメントは今後益々広がっていくと思いますし、今まさに広がりつつあると思います。でも、「たとえ天地が滅んでも、神のことばは過ぎ去ることがない」と言われた神のことばがいつでもどんな時でも正しいので、惑わされないように気を付けていきたいと思います。みことばにつかないときに、それこそ「死んでいる」と、いわばこの世の人と大差のない「俗悪な者」と神さまの前に見なされてしまいますので・・・そして悔い改めないなら、自覚するか否かは別として、御国の相続を放棄したという風な扱いを神さまから受けてしまいますので・・・はっきり言うなら、天の御国は危ないものとなりますので万一、「俗的になっているかな?」とお心当たりがありましたら、ただちに悔い改めていきたいと思います。ぜひ、みことばに堅くとどまって、天の御国の相続者になれるように祈り求めていきたいと思います。

 

 

 

 

私もプロテスタントの信仰を持つ者として、本日のみことばに関してはとても語りかけを受けます。今でこそ弟子として歩みをしていますが、かつては群衆の歩みをしていたので、「みことばにとどまる」ということに関しては、ほとんど意識したことがありませんでした。でも、弟子の歩みをするようになってから、「みことばを行う」ことに目を留めるようになりました。そして早5年以上の歳月が流れ、神さまから示されたことは、「互いに愛し合う」ということです。それまでは弟子訓練や奉仕をすることが御心を行うことだと思っていました。たしかに主は愛する弟子を訓練しますし、働きを通して人を救いへと導いたり真理を見ることができるようにされますのでそれも一面の真実ではありますが、でも、それよりも何よりもイエスさまが、「もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです」と言われたように、やはり「隣人を愛する」ことがとても大事な戒めだということについて、遅ればせながら最近気付かせていただきました。それまでも知性においては理解していたのですが、霊においてこのことを理解して祈り求めて実践していくのなら、すべてのことを網羅できるのでは?という結論に至りました。また、「隣人を愛する」ということについて・・・以前Ⅱヨハネの手紙で話しましたように、「隣人を愛する」というのは、裏返せば「神の命令に従って歩んでいく」ことなので、今後もそのこと、つまり神さまの御心や主に喜んでいただけることに焦点を当てて歩んでいきたいと思います。そして神さまの前に「死んでいる者」ではなく、「生きている者」としての歩みをし続けていく中で、永遠の命を得ていきたいと思います。本日のみことばを通して、そのような志が与えられて感謝でした。いつも大切なことを語ってくださる神さまに栄光と誉れがありますように。