聖書箇所 創世記41:56

 

41:56 ききんが全世界に及んだ。ききんがエジプトの国でひどくなったとき、ヨセフはすべての穀物倉をあけて、エジプトに売った。

 

「終末はききんが送られる時」というテーマで、みことばに沿ってみていきたいと思います。

 

この節において、「ききん」のことが言われています。「ききん」と聞いて、「私は家に色々と食料をストックしているから大丈夫」とか「ちゃんと働いて給料を貰っているから今のところは僕には関係のないことだ」と言われる方もおられるかもしれません。たしかに日本で生活していると、あまり「ききん」ということは普段は考えないことかもしれません。けれども聖書において、「ききん」は「全世界」に及ぶ、ということが言われています。そんな風に聞くと、「じゃあ、これから買出しに行かなきゃ~。」なんて思うかもしれませんが・・・そして、もし仮にですよ、仮に・・・「日本では来週から食料の販売をしばらくストップしますので、ぜひ皆さまそれに備えてください」なんてニュースが流れたら、それこそあっちのスーパー、こっちのスーパーへと足を運ばせて食品を買いに行くと思います。万が一にもそういう事態になった場合には、それはたしかに必要だと思います。けれども・・・よく話をしていますように、聖書のことばには多くのたとえも含まれていますので、そのことをも見ていきたいと思います。ですので、「ききん」について、もう少し詳しく見ていきたいと思います。そして「全世界に及ぶききん」とは、いったい何のことを言われているのか?を参照箇所から見ていきましょう。

 

参照 アモス書8:11

8:11 見よ。その日が来る。――神である主の御告げ。――その日、わたしは、この地にききんを送る。パンのききんではない。水に渇くのでもない。実に、主のことばを聞くことのききんである。

 

ここでも、「ききん」ということばが何度か繰り返されています。主の御告げで、「その日、わたしは、この地にききんを送る」とありますが、これは冒頭のことば「ききんが全世界(KJV:地球、この世)に及んだ」と同じことを言われていることが分かります。さらに「ききん」の内容が言われています。「パンのききんではない。水に渇くのでもない。」とありますように、食料や飲料のことではありません。もちろん世界には飢餓や貧困のために苦しんでいる人々が沢山おられます。何か機会があれば、そういう人たちのために私たちはできるかぎりのことをすべきなのではありますが、しかしそれはそうとして・・・そういった食料のききんは神さまからは送られません。「パンのききんではない。水に渇くのでもない」とハッキリ言われているからです。とするならば、食料のききんを起こすのはサタンの可能性があると理解できます。そして神さまは、さいごのことば、「主のことばを聞くことのききんである」とありますように、主のことば、すなわちみことばのメッセージを聞くことのききんを送る、と言っているのです。

 

「嘘だぁ・・・そんなはずないだろう?聖書もあるし、教会ではメッセージが語られているではないか?!」と言われるでしょう。たしかに見えるところはそうかもしれません。大半のクリスチャンは聖書を持っているでしょうし、礼拝でメッセージを聞いていることでしょう。しかし、「ききんが全世界に及んだ」とか「その日、わたしは、この地にききんを送る」と神さまが言われている以上、そういう日が来るのでしょう。さらにこのことは、ヨセフやアモスの時もそうだったかもしれませんが、今のまさに終末の時に起きてくる事柄ではないか?と思われるのです。

 

話は創世記に戻ります。全世界にききんが及び、そしてききんがエジプトの国でひどくなったときに、ヨセフはすべての穀物倉をあけて、エジプトに売りました。この時、実際に穀物が無くなったので、それを売ったのでしょう。しかしそれと同時に、このことにもたとえの意味合いがあるのではないかと思います。ちなみに「穀物」は、パンとか米のことですが、聖書の中で「パン」はみことばを指すたとえとしてよく使われていますよね?つまり、ヨセフの時において、みことばのききんが起こったと、そのように理解できるのでは?と思います。さらにこのことは先ほどのアモス書で言われていた「主のことばを聞くことのききんである」のことばに通じるのでは?と思います。そしてそのことが、「全世界」に及ぶ、ということを言われているのです。そうなんです、主のことばを聞くことのききんが訪れるのです。これはつまり、真理のメッセージを聞くことが難しくなる、もっと言うなら、永遠の命に至るメッセージを聞くことが困難な時代が来る、ということを言われているのです。そしてまた、「ききんがエジプトの国でひどくなったとき」とあります。創世記39章でチラッと話をしたかもしれませんが、「エジプト」は、「この世」のことを指します。また、「国」は、キリスト教会全体のこととか、各教団や教派のたとえでもあります。ゆえに「エジプトの国」とは、この世化した教会とか教団や教派のことを言われているのでは?と思います。書かれていますように、たしかに全世界にみことばを聞くためのききんは訪れるのでしょうが、しかし「エジプトの国でひどく・・・」とありますように、特にこの世化した教会においてそれは顕著となるのでしょう。もっとハッキリ言うなら、背教化した教会において「ききん」が起きてくるのでしょう。その一例を挙げるなら、「進化論はあまりにも科学的なので否定できない。」とか「創世記は神話だ」とか「地獄は無い」なんていうことを語る教会は、まさしくそうだと思います。アモス書で言われているように、そういう教会にはいずれ「ききん」が送られてしまうのでしょう。

 

また、「クリスチャンは艱難には会いません。艱難の前に天に挙げられます」とか「クリスチャンと名が付けばさばかれることはありません。さばかれるのはこの世の神さまを知らない未信者だけです」とメッセージする教会にも、いずれ「ききん」の時が訪れてしまうのでしょう。また、同性愛を迎合したりする教会もそうなのでしょう。このように真理ではないことをメッセージで語っていたり、受け入れたりしている教会は神さまの前に「エジプトの国」という風に見なされてしまい、主のことばを聞くためのききんが送られてしまうのでしょう。すなわち永遠の命に直結するメッセージが無くなっていくのでしょう。神さまからききんが送られることによって、逆に人々を滅びへと向かわせるメッセージしか語られなくなってしまうのでしょう。先ほども話しましたように、終末においてもこのことは徐々に起きつつあるのでは?と思います。けれどもいくら全世界に「ききん」が及ぶと言っても、しかし例外的に「ききん」から免れる教会もありますので、よろしければそのことも見てみたいと思います。

 

参照 Ⅰ列王記17:1016

17:10 彼はツァレファテへ出て行った。その町の門に着くと、ちょうどそこに、たきぎを拾い集めているひとりのやもめがいた。そこで、彼は彼女に声をかけて言った。「水差しにほんの少しの水を持って来て、私に飲ませてください。」

17:11 彼女が取りに行こうとすると、彼は彼女を呼んで言った。「一口のパンも持って来てください。」

17:12 彼女は答えた。「あなたの神、主は生きておられます。私は焼いたパンを持っておりません。ただ、かめの中に一握りの粉と、つぼにほんの少しの油があるだけです。ご覧のとおり、二、三本のたきぎを集め、帰って行って、私と私の息子のためにそれを調理し、それを食べて、死のうとしているのです。」

17:13 エリヤは彼女に言った。「恐れてはいけません。行って、あなたが言ったようにしなさい。しかし、まず、私のためにそれで小さなパン菓子を作り、私のところに持って来なさい。それから後に、あなたとあなたの子どものために作りなさい。

17:14 イスラエルの神、主が、こう仰せられるからです。『主が地の上に雨を降らせる日までは、そのかめの粉は尽きず、そのつぼの油はなくならない。』」

17:15 彼女は行って、エリヤのことばのとおりにした。彼女と彼、および彼女の家族も、長い間それを食べた。

17:16 エリヤを通して言われた主のことばのとおり、かめの粉は尽きず、つぼの油はなくならなかった。

 

この箇所はつい最近土曜日の集会の中で「ツァレファテのやもめ」と題して教えていただいたところなのですが、ここに神さまから「ききん」が送られないヒントがありますので、よろしければ見てみましょう。

 

17:10 彼はツァレファテへ出て行った。その町の門に着くと、ちょうどそこに、たきぎを拾い集めているひとりのやもめがいた。そこで、彼は彼女に声をかけて言った。「水差しにほんの少しの水を持って来て、私に飲ませてください。」

17:11 彼女が取りに行こうとすると、彼は彼女を呼んで言った。「一口のパンも持って来てください。」

17:12 彼女は答えた。「あなたの神、主は生きておられます。私は焼いたパンを持っておりません。ただ、かめの中に一握りの粉と、つぼにほんの少しの油があるだけです。ご覧のとおり、二、三本のたきぎを集め、帰って行って、私と私の息子のためにそれを調理し、それを食べて、死のうとしているのです。」

17:13 エリヤは彼女に言った。「恐れてはいけません。行って、あなたが言ったようにしなさい。しかし、まず、私のためにそれで小さなパン菓子を作り、私のところに持って来なさい。それから後に、あなたとあなたの子どものために作りなさい。

17:14 イスラエルの神、主が、こう仰せられるからです。『主が地の上に雨を降らせる日までは、そのかめの粉は尽きず、そのつぼの油はなくならない。』」

 

「彼」とは、それ以前を読むと分かるのですが、預言者エリヤのことです。エリヤは神さまからツァレファテに行ってそこに住むように言われました。その時に、「わたしは、そこにひとりのやもめに命じてあなたを養う」とも神さまは言われました。そして実際に行ってみると、10節にありますようにひとりのやもめに会いました。ただし12節にありますように、このやもめは窮乏しています。要するに、この時の状態はまさしくききんだったのです。それにもかかわらず、13節においてエリヤはやもめに「パン菓子を作り、私のところに持って来なさい」と言われています。その理由が14節にあります。もし、そうするなら「粉は尽きず~」ということを言われているのです。そしてこのことはある型を示しています。たった今、やもめの状態はききんだということを言いましたが、パン、すなわちみことばの窮乏、つまり主のみことばを聞くききんのことをここでも言われているのです。そしてはじめのほうから読むと分かるのですが、「ここ二、三年の間は露も雨も降らないであろう」ということが言われていて、このことは、三年半の艱難時代のことを言われていると思います。つまり、ここでも終末のことを言われているのです。また、言い忘れましたが、ヨセフのききんに関して「七年間のききん」という表現がされていまして、これもまた、艱難時代の期間と符号するのでは?と思います。前半の艱難時代と後半の大艱難時代のこと言われていると思います。いずれにしても、終末に「ききん」が来るということが理解できますよね?けれどもそのような時であっても、「パン菓子」をエリヤのために作るなら、「粉は尽きず」と言われているように・・・「粉」はパンと関連するので、みことばのパン、すなわちメッセージのたとえだと思うのですが、ききんに陥ることはない、ということを言われているのです。さらに次節以降に続くのですが・・・

 

17:15 彼女は行って、エリヤのことばのとおりにした。彼女と彼、および彼女の家族も、長い間それを食べた。

17:16 エリヤを通して言われた主のことばのとおり、かめの粉は尽きず、つぼの油はなくならなかった。

 

はじめは死のうとしていたやもめでしたが、しかし15節にありますように、彼女はエリヤのことばのとおりに行いました。そうしたところ、16節のことばのとおり、「粉」、すなわちメッセージは尽きなかったのです。ちなみに「油」は「聖霊の働き」のたとえです。このところに語りかけがあります。「やもめ」はある種の教会やクリスチャンのたとえだと理解できます。「やもめ」とは、夫のいない人のことです。聖書的に言うなら、地上には夫のいない人、つまり天にいるキリストを真の夫として歩みをしている教会やクリスチャンのことを指します。つまりこの世化した教会とは反対の立場です。そしてこのことは、地下教会の歩みや働きに直結します。さらに「エリヤ」は神のしもべであり、預言者であると同時に、「イエス・キリスト」とか「天の父なる神さま」の型ではないかと思います。そのように考えていくときに、やもめがしたことというのは、エリヤ、つまりキリストに向けてメッセージの働きをした、ということになるのでは?と思います。そう、艱難は通らないとか進化論は正しいという風に、みことばに反するものではなく、たとえば終末はクリスチャンがさばかれる時であることや、クリスチャン艱難を通るので備えをしましょうとか、単に聞くだけではなく御心を実践しましょうとか、地獄はあるので決してそこに入ることのないように神さまに恐れをもって歩んでいきましょう、などというメッセージを語ったのでは?と思います。いわゆる永遠の命に直結するメッセージをしたのだと思います。もしやもめのようにしていくのなら、たとえ周囲がききんに陥ったとしても、天からきちんとメッセージが供給されていくのです。しかも再臨までそのことを守っていくなら、パンや油の供給がなされていくのです。

 

ですので、結論を言ってしまうと・・・創世記41章全体は、たしかに終末や艱難時代において全世界に及ぶききんのことを主体に語ってはいるのですが、しかしだからと言ってすべての国々、つまりすべての教会にみことばのききんが訪れるのか?と言うとそうではなくて、進化論や同性愛を迎合するような、いわゆる背教化した教会がそうなる、ということを言われております。反対にそのようなことを断固として拒絶して堅くみことばに着く教会やクリスチャンには及ぶことはなく、エリヤにパン菓子を作って助けを受けたやもめのように艱難時代を経ても、しかしその間ずっと天からのパンが送られてくるのです。ですから、もしききんに会いたくない!と思われているのでしたら、やもめの歩みに倣っていきたいと思います。そうしていくときに、ご自身の命(永遠の命)を救いますし、それだけでなく他のクリスチャンのことをも助けていくようになりますので、ぜひおすすめいたします。反対に背教化した教会に留まり続けていても、パン、つまり永遠の命を得るべくメッセージには有りつけない可能性がありますので・・・そうすると永遠の命が危ないのでは?と思いますので、気を付けていきたいと思います。よろしければこのようなポイントについてもご理解いただけると幸いに思います。

 

メッセージの中でも話しましたように、ツァレファテのやもめを通して学びをする中で終末や艱難時代において地下教会が必須であることと、エリヤのような預言者を助ける働きをすることにポイントがあり、そうしていくときにみことばのききんや聖霊の働きが枯渇することは無い、ということを理解しました。手前味噌に聞こえてしまうかもしれませんが、レムナントキリスト教会では機会があるごとに終末には教会が背教化することや艱難時代の備えのことやクリスチャンのさばきのことについて警告のラッパを吹き鳴らしておりますが、これはまさにツァレファテのやもめがしたことに準じるのでは?と思っています。

 

私も以前はそう思っていたのですが、「教会」という名が付くところにおいて、メッセージや聖霊の働きはあるのが当然だと思っていましたが、しかし今回の箇所や他の箇所を通して、終末はそうとは言えないのでは?ということに恐れを持つようになりました。ご存知のように、レムナントキリスト教会はもう何年も前から地下教会を開催しておりますが、自分自身も数年前に神さまからこの歩みに招待していただいた一人として、これからも益々預言者的な働きに携わっていきたいと思います。今回も大事なポイントについて語ってくださった神さまに栄光と誉れがありますように。