ヨハネの黙示録1章1~6          2015.9.13

 

1:1イエス・キリストの黙示。これは、すぐに起こるはずの事をそのしもべたちに示すため、神がキリストにお与えになったものである。そしてキリストは、その御使いを遣わして、これをしもべヨハネにお告げになった。

 

黙示録の意味合いは、原語の意味合いを見ると、「ベールをはがす」

宣言の世界でも除幕式というものがある。

幕をはがすというのは、幕の下に何があるかわからない。

黙示録は、英語で、レボリューションという意味。

「ベールを剥がす」= 「幕を剥がす」

主旨は、黙示録に限らないが、終末のみ言葉というのは、幕が張ってあるように隠されており、

見えないようになっており、分からないようになっている。

そして、普通では見えない。   見えないものを特別に、主が、啓示を開いた人とか、封印を開いた人に見えるという、その様な意味合いがある。

黙示録は、明らかに制限のかかった書である事は、理解しなければならない。

百回読んだからと言って、分かるとは限らない。

500回読んだからと言って、その人に啓示が開かれなければ、結局は何を書いてあるかわからないという非常にシビアな面がある。

啓示は、神から来るのであり、神が開いてくれなければ分からないという特別な書。

黙示録は、そういう意味合いがある。   他の書とは明らかに違う。

言葉の通り、ベールを神が開かない限り読めない特別な書。

残念ながら、キリスト教書店に売っている黙示録の解説書でも、明らかにベールが開かれていない、カバーが外されていない、全く中身が見えていない物がたくさんある。

そういう意味で、お金を払えば見えるというものではない。

神様がその人に対して、ベールを開かない限り見えないというニュアンスがある。

こういう根本的な事が分かっていないために、解説書を読んでいても分からない。

逆に迷路に入って行く。残念ながらそういったバターンが多い。

もう一つの事も1節にある。

「すぐに起こるはずの事をそのしもべたちに示すため」

すぐに、速やかに起こって来る。

それと共に、1節の真ん中で、『すぐに起こるはずの事を「そのしもべたちに示すため」』とあるのをよく覚えておくべき。「しもべ」という言葉に注目すべき。

1節の後半では、『そしてキリストは、その御使いを遣わして、これを「しもべヨハネ」にお告げになった。』

「しもべ」という言葉に着目すべき。

黙示録に関して、主は、その「しもべ」に示す。

なので、別の言い方をするなら、たとえクリスチャンであるとしても、「自分は、自由に生きて行きたいから、キリストのしもべになるつもりはない。」ということならば、黙示録の内容が、何の関係もなくなったり、示しが与えられない可能性がある。

黙示録を読む人の資格は書いてある。

キリストのしもべの道を歩むなら、「しもべ」の中に入って行くので、啓示され、封印が解かれて行く可能性が大いにある。

しかし、「しもべ」とは全く関係ない歩みをしていく時には、逆に見えなくなってしまう。

「しもべ」という事を理解しなければならない。

我々も、クリスチャンとして、いろんな理想、考え方とか、自由な歩み方はあるかも知れないが、しもべとしての歩み方というのは、はっきりわかる事は、主がどのように、我々に語っておられるかという事を優先することが、しもべの歩みだという事は是非是非捉えておく。

自分の気のそぐわない事であっても、「しもべ」は行なっていく。 それがまさに「しもべ」の歩みだという事は、正しく理解しておきたい。

かつて、エレミヤ牧師は、前にいた教会では「たとえの解釈、霊的な解釈はダメだ」と言われた、しかし、自分のメッセージの回が回ってくるたびに、主から喩えの解釈を迫られたが、牧師(当時は神学生)は教団ではなく、主の声に従った。  自分の意思とは関係が無かった。

そこで、しもべとして歩むのかが問われた。しかし、それを行なって行った時に、「すぐに起こるはずの事をそのしもべたちに示す」と書いてあるが、しもべとして歩んで行った時に、啓示が与えられてきた。  これは確かな事。

主が言われた事を優先して行ったら、啓示が来た。

啓示が来ない場合は、頭の良し悪しの問題ではなく、感が鋭いか否の問題でもない。

 

1:2ヨハネは、神のことばとイエス・キリストのあかし、すなわち、彼の見たすべての事をあかしした。

1:3この預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを心に留める人々は幸いである。時が近づいているからである。

 

「この預言のことばを朗読」と、日本語で書いてあるけれども、KJVでは、「読め」とだけ書いてある。

あらゆる黙示録のみ言葉は、旧約聖書の引用。「読む」「聞く」とか、そういう言葉さえも旧約聖書の引用。   旧約聖書をこまめに引いて行くつもりが無ければ黙示録は分からない。

手間を抜いている人はダメ。

一語一語、どんな言葉も、「封印」という言葉であろうと、「十本の角を持つ獣」とか、また、「手や額に印を付ける」 手とか額も、申命記から引用されている。

引用して行かなければ、ペテロの手紙にあるように、私的解釈になってしまう。

「私的解釈」とは、日本語でかなりずれた訳語だけれど、言わんとしている言語の意味合いは、

「その箇所から」「そのテキストのみ」から解釈をせずに、要は他の旧約聖書から引用して読むようにという事。

「読む」「聞く」

 

イザヤ

29:9のろくなれ。驚け。

目を堅くつぶって見えなくなれ。

彼らは酔うが、ぶどう酒によるのではない。

ふらつくが、強い酒によるのではない。

29:10主があなた方の上に深い眠りの霊を注ぎ、あなたがたの目、預言者たちを閉じ、あなたがたの頭、先見者たちを覆われたから。

29:11そこで、あなたがたにとっては、すべての幻が、封じられた書物のことばのようになった。これを、読み書きのできる人に渡して、「どうぞ、これを読んでください」と言っても、「これは、封じられているから読めない」と言い、

29:12また、その書物を、読み書きのできない人に渡して、「どうぞ、これを読んでください」と言っても、「私は、読み書きができない」と答えよう。

 

ここでまさに、「読む」という言葉が出て来る。

「どうぞ、これを読んでください」と11節に書いてあるけれども、「読み書きのできない人に渡して、「どうぞ、これを読んでください」と言っても「これは、封じられているから読めない」と言い、」という風に答える。

黙示録は、七つの封印で封じられている。封じられているものを朗読、つまり「読む」という事。  読む人は幸い。

封じられているので、難しい事。

普通に読めるようになっていない。

鍵のかかった金庫の中に入っている手紙を、出して「読め」といった具合に、うまくいかない。

だから読む者は幸いであり、聞いて行なう者は幸いだという事が語られている。

黙示録に関しては、「読む」人が幸い。 「朗読」と書いてあるけれども、封印された書を読むこと自体が幸いだと書いてある。

今は読めない時代。

「主があなた方の上に深い眠りの霊を注ぎ、あなたがたの目、預言者たちを閉じ、あなたがたの頭、先見者たちを覆われたから。」

「そこで、あなたがたにとっては、すべての幻が、封じられた書物のことばのようになった。」

今はまさにこの時代。

どの様な賢い者、難しい神学校を出た、とか、外国の神学校を出たとか、ギリシャ語、ヘブル語も全部わかっている・・・そういった人であっても、先見者の目が閉じられた時代、なので、

どれもこれも、彼らにとってはすべての幻が封じられた書物の様になった。

だから、封じられている書物の様になっているので、殆ど言っている事が的外れ。

「第三神殿がエルサレムに建つ」とか「獣の国はヨーロッパ」だとか、何故その様になるかというように的外れになっている。

「艱難の前に挙げられるからその備えをしましょう」「いつ挙げられるかわからないからその日のために備えをしましょう」だとか、真面目にそういう事が言われているという事は、「封じられている」から。   この言葉がまさに成就している。

「すべての幻が、封じられた書物のことばのようになった。」

そういう時代に我々は生きている。

終末に関してあらゆる幻、我々にとっては基本の基本であることも分かっていない。

「仮庵の祭」と言っても何のことやらさっぱり分からない。

なので、その様な時代に本当の意味で読めるならそれは幸いだと書かれている。

「読めたつもり」であってはダメ。

本当に読めているというのが大事な事柄。

それは、主から来た事。

イザヤ書の29:10で「主があなた方の上に深い眠りの霊を注ぎ、」と書いてあるように、神から来ている眠りの霊。

だから寝ぼけた事を言っている。「艱難の前に挙げられて、艱難時代が終わったらそっと下ろしてくれる優しい方だ」「どこまでの愛」などと言っているのは、眠りの霊を注がれているから。   褒められた事でも、我々が見習うべき事でもない。

 

「主があなた方の上に深い眠りの霊を注ぎ、あなたがたの目、預言者たちを閉じ、」

預言者・・教会の預言者たちを

「あなたがたの頭、先見者たちを覆われたから。」

だから、今のキリスト教会で言えば、有名な神学者だとか、有名なメッセンジャーだとか、有名な牧師だとか、偉大な教師だとかを当てはめることが出来る。

終末に関しての啓示は、明らかに開かれていない。

我々はそういう時代にいるという事を理解しなければならない。

そうでないと、あまりにもレムナントの言っている事と、キリスト教界の常識が違うので、ジレンマを感じてしまう。

しかし、そういう前提を見て行くなら、違っていても仕方がないのだと、逆に見えない人達の方が圧倒的だというように理解出来る。

 

29:18その日、耳の聞こえない者が書物のことばを聞き、目の見えない者の目が暗黒とやみから物を見る。

 

こちらでは「見る」「読む」という事に関して書かれている。

だから、全部封じられて誰も読めないというのはあまりに悲観的だが、見る人もいる。

これは、イエス様の時も、多くのパリサイ人、律法学者は見ていくべきものを、見ていかなかったが、イエス様は弟子たちに、「あなたがたの目は、見るゆえに幸いだ。 耳は聞こえるが故に幸いだ。」と言われた。

そういう意味合いで、「耳の聞こえない者が書物のことばを聞き、目の見えない者の目が暗黒とやみから物を見る。」という事が成就する。

なので我々は、キリスト教界では全く期待されないかもしれないが、そんなことはあまり気にしなくてもいい。

見ているというのは強い事であり、聞いているというのは強い事。

見た人が働きをなす。

レムナントは、啓示を見たなら、また、預言の言葉を聞いたなら、これは働きをなす。

 

黙示録

1:3この預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを心に留める人々は幸いである。時が近づいているからである。

 

この預言の言葉を読むことと、それを聞いて、そこに書かれている事を行なう、守る。

御言葉を守るのは、行なう事。   それが幸いという事。

なので、我々は、一つは、非常に感謝な事だが、「読んだ」

これは、レムナントにおいては普通の事。

封印が開かれるとか、預言を読んだり、理解するのは、普通の事だが、高ぶることは出来ないが、主の憐れみによって、「読む」事は出来た。

この事は、我々にとっては普通の事だが、幸いだという事を覚えておく。

「読む、理解する」というのは大変な事。

黙示録を改めて読むと、「読む」とは幸い。

「そこに書かれていることを心に留める」とは、この言葉を守る者、行なう者、実行する者は幸いだという事。   ただ聞いて聞き流している者は、幸いとは言えない。

御言葉は行なって何ぼ。

レムナントは、極力、警告の言葉を行なうようにしている。

警告の角笛を吹き鳴らせと言われたら、吹き鳴らしている。

時が近づいているから。

 

1:4ヨハネから、アジヤにある七つの教会へ。今いまし、昔いまし、後に来られる方から、また、その御座の前におられる七つの御霊から、

 

七つの教会がある。

ゆえに教会時代は七つで終わる。

その後、キリストの再臨がある。

七つ目の教会時代が来ている場合は、終わりが近い事を知る。

教会時代には限度がある。  期間が決まっている。

教会時代は、預言されているように変わって行く。

未来に起きて来る事、教会の変質というのは、ある意味では、神様の目の前には、見えている。

未来は、我々がこれから行なう事だけれども、未来は預言されているのも事実。

「今いまし、昔いまし、後に来られる方から」と書いてある。

この様な表現がよくある。

イエス様に関して、「今いまし、昔いまし、後に来られる方」

すなわち、過去、現在、未来の方だという事。

同じ事が8節でも書いてある。

「神である主、常にいまし、昔いまし、後に来られる方」

「わたしはアルファでありオメガである。」

英語で言うなら「AからZ

ここで、何度も繰り返し書いてある事は、主ご自身が「初めであり、終わりである方」だという事。

言わんとしている事は、我々と異なる事が、明らかに一つある。

また、御使いとも異なる事がある。

我々人間にとって未来の事は分からない。

主は「後に来られる方」であり、また、「わたしはアルファでありオメガである。」

オメガは「最後」の方。

人間が書いた未来のものは、大抵外れる。

人間は未来の事は分からない。 想像力、予測は殆ど当たらない。

人間には限界がある。

しかし、神であり、イエス・キリストは、「初めであり、終わりである」から、未来のことが見える。 我々人間は、ただ今あるというだけの存在。

キリストは、「初めであり、終わりである」方。

終わりの時もおられるお方なので、唯一、終わり、未来の事を知っておられるのは、神である、キリストご自身しかおられない。

世界中には万という書物があるが、本当に未来の事が分かった本は、聖書しかない。

未来の事を本当に知るつもりなら、聖書以外、頼りになる物は無い。

その方が書かれたことなので、ここに書かれた事はすべて真実。

タイムマシンで未来へ行き帰って来たようなもの、そういう特別な本が聖書。

実際に未来におられる、終わりである方が、実際に終わりの時を見て、そして、終わりの時を書いた本が、「黙示録」

なので、黙示録は、ちゃんと読めれば、全て、手に取るように、終わりの時が分かるようになる。しかし、神の知恵によって、これは封印されている。

黙示・・・ベールの中に隠されている。

なので、主が啓示を開いて下さったとき、初めて「見える」

啓示さえ開かれれば、全ての真実が書かれているのが「黙示録」

そういう書であるという事は覚えておく。

聖書以外の書物をいくら読んでも、インチキしか書いていない。

聖書だけは唯一、未来の事を知る方が書かれたので、本当に我々が、この書を読むことが出来るなら、啓示を主によって開いていただくならば、本当に未来が見える書。

だから、研究するに値する書であり、主に、啓示を求めるに値する書。

残念ながら大きな失敗の一つは、「信じていない」という事。

正しく開かれるならば、この書を読むことによって、真理が見えて来る。

こう言うパターンは見なければいけない。

 

1:5また、忠実な証人、死者の中から最初によみがえられた方、地上の王たちの支配者であるイエス・キリストから、恵みと平安が、あなたがたにあるように。イエス・キリストは私たちを愛して、その血によって私たちを罪から解き放ち、

1:6また、私たちを王国とし、ご自分の父である神のために祭司としてくださった方である。キリストに栄光と力とが、とこしえにあるように。アーメン。

 

「地上の王たちの支配者であるイエス・キリストから」 とある。

我々は、 教会というのは、聖書的に言うなら、「神の国」

英語で「神の国」というのは、「神の王国」・・・それが教会。

その教会を、人間の王がたくさん支配している。なので、地上の王たちの支配者と書いてある。教会で、最も高き王は、イエス・キリスト。

「地上の王たちの支配者であるイエス・キリストから」 と書いてある通り。

「王」は、国を支配して、正しい人には正しい恵みを施す。

行ないの正しくない人には、罰を下す方。

そういう意味で、黙示録の一つの特長というのは、「王」、特に「地上の王」

なぜ「地上の」という言葉がついているのか、それは、この世についたという意味合い。

あらゆる意味で、神に逆らい、王に逆らった歩みをしているために、災いが下って来る、それを書いた書が、「黙示録」

黙示録の中には、それを暗示する言葉がたくさん出て来る。

例えば、ハルマゲドンの箇所の中では、「地上の王たちが集まった」と書いてある。

「全世界の王たちのところへ出て行く」とか、「万物の支配者である神の大いなる戦いに備えて彼らを集める」とか。

だから、黙示録の一つの大きな特長は、真に、地上の王たちを含め、キリスト教会の王は、イエス・キリストであるが、黙示録の時代に、この世についたキリスト教会の人達が、反逆に反逆、冒涜に冒涜を重ねて、真の支配者である王であるキリストから、災いを受けるという事が書いてあるのが黙示録の一面。

この事は見て行かなければならない。