ヨハネの黙示録14章8~12             2016.6.26

 

 

 

14:8また、第二の、別の御使いが続いてやって来て、言った。「大バビロンは倒れた。倒れた。激しい御怒りを引き起こすその不品行のぶどう酒を、すべての国々の民に飲ませた者。」

 

 

 

この辺りから、黙示録にはバビロンの事が出て来ている。

 

新約聖書の淫婦バビロンは、旧約聖書を読めば、その意味合いが分かって来る。

 

新約聖書の淫婦バビロンは、旧約のバビロンと大いに関係している。

 

聖書のみ言葉は、その箇所のみから解釈してはいけない。

 

バックトゥーザフューチャー・・・未来に戻るとは変な言葉だが、聖書においても未来の黙示録を理解するには、旧約聖書の記述に戻り、バビロンに関しての記述を見て行く時に正しい理解が出来て行く。

 

バビロンに関しての記述は、旧約聖書に出ているが、バビロンに関して聖書が語っている事は、

 

バビロン捕囚は、旧約の民にとっては特別な事。1つの非常に大きな意味合いというのは、イスラエルがバビロン捕囚にされるまでに住んでいた地というのは、イスラエルとユダの内、ユダがバビロン捕囚されるが、その地というのは、神が先祖たち、アブラハム、イサク、ヤコブに約束して、そしてイスラエルが出エジプトして、目指したカナンの地であり、神が約束した地。そこから引き抜かれてバビロンに連れていかれた、しかもそれは、良い事ではない。

 

これは、神の怒りのゆえ。

 

しかし、大きなポイントは、神の怒りによって、約束の地から移されてしまい、引き抜かれてしまい、移動させられてしまったという事。

 

この事には新約の我々に対しても喩えの意味合いがある。

 

新約で、バビロンが最後に出て来るという意味合いがあり、1つは、バビロン捕囚が再現する。

 

黙示録の時。 これから起きる事、正確に言えば、今起きつつある事。

 

黙示録の時代に、バビロン捕囚が再現する。だから、黙示録にバピロンが出て来る。

 

この事を理解しなければ、黙示録を殆ど読んだ事にならないし、この書に書かれているバビロンを理解した事にはならない。

 

神の怒りのゆえに、神の民はバビロン捕囚される。

 

そして結論を言うならば、レムナントの理解が正しければ、「バビロン」は明らかに宗教的な存在であり、これを具体的に言うならば、アメリカのキリスト教会こそ、バビロンであると理解する。 アメリカは、聖書の終末の預言の中で、最も中心的な所。

 

アメリカは、国としては、「獣の国」

 

しかしそこに存在する、アメリカのキリスト教会は、これはバビロンであると理解する。

 

だから、アメリカこそが、終末預言の中心の中心。

 

「アメリカは聖書に出てこない」という人もいるが、それは勘違いの人。

 

アメリカこそ、終末の預言の、中心の中心であり、アメリカという国こそ、予てから終末に起きると、ダニエル書を初めとした、書の中で預言されている終末の中心的な国。

 

1つの結論を言うなら、アメリカのキリスト教会というのは、聖書は本来語っている、教会、あるべき教会とは、違う教会。

 

そこで語られている教理は、聖書が本来語っている教理とは、違う教理。

 

そこで流れている霊というのは、教会に本来下されていた、神の霊ではなく、別の霊。

 

そういう問題がある。

 

今のプロテスタントを初めとしたキリスト教会を見ても、旧約の時代にも、バビロンが、あらゆる国に対して、影響を及ぼしていた。

 

それが今、再現している。

 

世界中のキリスト教会が、よくも悪くも、アメリカのキリスト教会に影響されている。

 

日本においても。  ベニーヒン、ビリーグラハム、フランクリングラハム、ピーターワグナー

 

など、あらゆる器の名前は我々でも知っている。   彼らはみんなアメリカ。

 

アメリカのあらゆるキリスト教のトレンドは、世界中に影響をもたらす。

 

だから、アメリカこそ、良くも悪くも、世界のキリスト教会に悪い影響をもたらす。

 

これはまさに、旧約のバビロンの再現。

 

アメリカのキリスト教会が「バビロン」だ、と言うと反対する人もいるかも知れない。

 

しかし、世界中でどこの国が最も影響を及ぼしているかと言うと、アメリカのキリスト教会だという事にみんな同意すると思う。

 

アメリカこそ、現代のバビロンであり、アメリカのキリスト教会こそ、全世界に悪い影響をもたらして、キリスト教会を変質させ、多くのクリスチャンを約束の国から引きずり出す恐るべきバビロンの役割をしている教会であると理解している。

 

「また、第二の、別の御使いが続いてやって来て、言った。「大バビロンは倒れた。倒れた。」

 

1つは、バビロンは倒れるという事。だから、背教のゆえに、アメリカのキリスト教会は倒れる。それだけでなく、この淫婦バビロンは火で焼かれるとまで書いてある。

 

これは、アメリカのキリスト教会に関して、アメリカの国に関して、実現するだろうと思う。

 

そして、全土が火で焼かれるような、恐るべき裁きに入って行くだろうという風に理解している。  そして、

 

「激しい御怒りを引き起こすその不品行のぶどう酒を、すべての国々の民に飲ませた者。」

 

とある。

 

バビロンは、「すべての国々の民に飲ませた」と書いてあるように、世界中のあらゆるキリスト教会に影響を及ぼす存在。

 

そんなことが出来るのは、アメリカのキリスト教会以外にない。

 

日本でも、アメリカのあらゆるトレンド、「ヤベツの祈り」とか、「パーパスドリブンチャーチ」とか、ビリーグラハムのクルセードなど、あらゆる事が日本でも影響される。

 

日本だけではなく、フィリピンのキリスト教書店にても、ピーターワグナーなど、アメリカのあらゆる器の本が売っていた。

 

どこの国も影響を受けている。

 

「不品行のぶどう酒を、すべての国々の民に飲ませた者。」という事。

 

ここを見たい。

 

「不品行のぶどう酒」という事を考えたい。

 

「不品行のぶどう酒」とは何か。

 

この意味合いを理解して行きたい。

 

 

 

第一コリント

 

10:18肉によるイスラエルのことを考えてみなさい。供え物を食べる者は、祭壇にあずかるではありませんか。

 

 

 

「供え物を食べる者は、祭壇にあずかるではありませんか。」

 

 

 

10:19私は何を言おうとしているのでしょう。偶像の神にささげた肉に、何か意味があるとか、偶像の神に真実な意味があるとか、言おうとしているのでしょうか。

 

10:20いや、彼らのささげる物は、神にではなくて悪霊にささげられている、と言っているのです。私は、あなたがたに悪霊と交わる者になってもらいたくありません。

 

 

 

例えば仏壇に捧げられている物は、悪霊に捧げられている。

 

それに与ると、悪霊と交わってしまう。

 

異教の祭壇や仏壇、それらに捧げられたものを飲み食いすると、悪霊と交わる事になってしまう。霊の影響を受ける。なので、それは避けた方が良い。

 

 

 

10:21あなたがたが主の杯を飲んだうえ、さらに悪霊の杯を飲むことは、できないことです。主の食卓にあずかったうえ、さらに悪霊の食卓にあずかることはできないことです。

 

10:22それとも、私たちは主のねたみを引き起こそうとするのですか。まさか、私たちが主よりも強いことはないでしょう。

 

 

 

ここに書いてあるように、我々は、主の食卓に与っている。

 

聖餐式というのは、主のパンを食べ、ぶどう酒に与る事。

 

悪霊の杯、悪霊のぶどう酒とは、まさにこれに関係している。

 

我々は、文字通りのパンを食べ、葡萄酒を飲んだが、パンは御言葉であり、メッセージの象徴。

 

ぶどう酒は聖霊の象徴。

 

言わんとしている事は、キリスト教会の真ん中で、悪霊的なメッセージが語られる時、これは悪霊のパンに与る事。

 

また、トロントやペンサコーラみたいに、おかしな悪霊的なリバイバルを受ける事は、悪霊の杯を飲む事になる。

 

これは、悪霊と交わる事になる。

 

実際、トロントやペンサコーラのリバイバル集会に行って、精神的におかしくなったり、変な霊を受けたりなど、あり得る事。 何故ならそれは悪霊の杯だから。

 

今の時代は残念ながら、ビックリするような事が起きる時代。

 

かつてからの、クリスチャンの常識が、覆される時代。

 

1つは、キリスト教会の集会に行っていれば問題なしという常識。

 

これは既にひっくり返されている。

 

教会の真中。そこに、ベニーヒン、ロドニーハワードとか、悪霊が下されているという、こういう現実を見て行かなければならない。

 

我々はこれをトロントCDDVDで、145年以上警告をして来た。

 

今もして行きたい。

 

この事の認識を新たにしないなら、今の時代を悟る事が出来ない。

 

今は、クリスチャンのかつての常識というのが、「異端に気を付けていれば大丈夫」、ものみの塔、統一協会、モルモン教など、こういうものに気を付けていれば大丈夫だという常識があったが、今にあっては通用しない。

 

キリスト教会、聖会のど真ん中で、悪霊を下すということは、すでに敵が、エルサレムの町の真ん中まで入って来ているという、旧約聖書の預言があるが、そう言う時代が来ているという、

 

敵が門のところまで入って来ている時代だという事を、レムナントは警告する。

 

なので、耳のある人はそれを聞くべし。

 

話半分でまともに受けない人もいるかも知れないが、我々は、言うべき事は言っておく。

 

こう言う事を理解しなければ、今の時代は理解できない。

 

「あなたがたが主の杯を飲んだうえ、さらに悪霊の杯を飲むことは、できないことです。主の食卓にあずかったうえ、さらに悪霊の食卓にあずかることはできないことです。」

 

という事が、今のキリスト教会では成就している。

 

教会で、主の食卓に与り、キリストの、御言葉のパンを預かり、聖霊のぶどう酒を飲んで、それでもって、トロントやペンサコーラに行くのは、まさにこの言葉の成就。

 

これを不品行という。

 

先程のバビロンの不品行のぶどう酒を、世界の国々に飲ませたのは、まさにアメリカのキリスト教会、バビロンの仕業であり、これは今、成就しつつある。

 

黙示録の時代は遠くない。そのかなりの部分は、既に成就しつつあると思う。

 

その走りや、初めの一歩は、既に見る事が出来ると思っている。

 

なので、我々は黙示録の時代から、遠い時代に住んでいるのではない。

 

そう思わずば、時代を見分けていない。

 

悟ってもおらず、偽善者だったりするので、よく見なければならない。

 

「あなたがたが主の杯を飲んだうえ、さらに悪霊の杯を飲むことは、できないことです。主の食卓にあずかったうえ、さらに悪霊の食卓にあずかることはできないことです。」

 

この言葉がまさに成就している。  出来ない筈の事が、出来てしまっている。

 

だから、教会の礼拝(主の食卓)に出席し、次の週に、トロントやペンサコーラの集会(悪霊の食卓)に行く人は、これをやっている。

 

既に多くの言葉が成就しているので、遠い未来の事と思ってはならない。

 

黙示録で、「その不品行のぶどう酒を、すべての国々の民に飲ませた者。」というのは、今のコリントの手紙とまさに符合している。

 

「不品行」とは、神以外の霊を受ける事!

 

なので、アメリカのキリスト教会こそバビロンであり、アメリカ由来の「ぶどう酒」、リバイバルは、他でもない不品行のぶどう酒であり、悪霊のぶどう酒。

 

「その不品行のぶどう酒を、すべての国々の民に飲ませた者。」とあるように、あらゆる全世界のキリスト教会に、このリバイバルを輸出している。

 

ベニーヒンやロドニーハワードが来ているというのは、まさに、「すべての国々の民に飲ませた者。」という事が成就しているという事。彼らが来るのは日本だけではなく、他の国々にも行っている。

 

だから、「すべての国々の民」は飲んでいる。

 

ベニーヒンがあらゆる国に行っているという事は、この御言葉の成就。

 

不品行のぶどう酒を、あらゆる国の民が、飲んでいるという事。

 

「激しい御怒りを引き起こすその不品行のぶどう酒」

 

我々は、聖書的視点を持って、キリスト教会に起きている事柄を理解しなければならない。

 

キリスト教の集会なら何でも良いという時代は終わった。

 

集会、霊によっては、神の激しい御怒りを引き起こす、そういう集会に加わってしまう可能性がある。油断も隙も無い時代に我々は来てしまった。

 

もう引き返す事は出来ない。

 

我々は、良くも悪くも、既にバビロン捕囚の時代に来てしまった。

 

背信が極まった時代に来ている。

 

バビロンに関して、黙示録で、「わが民よ、この女から離れなさい。その罪にあずからないため、また、その災害を受けないためです。」

 

もうすでにバビロンが存在し、増々影響が大きくなるので、唯一我々が出来る事は、関わりを持たない事。そういう意味でミーハーにならない事。「激しい御怒りを引き起こす不品行のぶどう酒」を飲んでしまう可能性がある。

 

これは永遠のいのちに関わるので、よくよく気を付けなければならない。

 

はっきり言う。「我々は、油断も隙も無い時代に来てしまった」のである。

 

もう引き返す事は出来ない。

 

キリスト教会のど真ん中で、しかも、キリスト教の新聞とか雑誌が広告している集会に加わる事によって、「激しい御怒りを引き起こす不品行のぶどう酒」を飲んでしまう可能性がある。

 

世の中よりもっと大変な事態になっている。

 

我々は、こういった事を前提に、今の時代を歩んで行かなければならない。

 

そうでないと、結局は自己責任。

 

主は群衆に向かって言われた。「なぜあなたがたは、天気を見分ける事が出来るのに、今の時代を見分ける事が出来ないのか、また、自分自身で悟ろうとしないのか」と。

 

「自分自身で」というのはどういう意味かというと、裏に意味合いがある。

 

何故、他の人の事とか、教師とか牧師のいう事とかを鵜呑みにするのかというニュアンスがある。  今の時代もしかり。  今はもうそんな時代。

 

激しい御怒りを引き起こすぶどう酒が、既にどんどん下されている時代。

 

そういう集会に加わって、変な霊を受けている人は、どんどん信仰がおかしくなっている。

 

黙示録に書いてある事は、遠い未来の話ではない。既に結構実現している事柄がある。

 

なのでこういった事は見て行かなければならない。

 

 

 

黙示録

 

14:9また、第三の、別の御使いも、彼らに続いてやって来て、大声で言った。「もし、だれでも、獣とその像を拝み、自分の額か手かに刻印を受けるなら、

 

14:10そのような者は、神の怒りの杯に混ぜ物なしに注がれた神の怒りのぶどう酒を飲む。また、聖なる御使いたちと小羊との前で、火と硫黄とで苦しめられる。

 

 

 

ここで理解すべき事は、バビロンは、獣の刻印と通じている。

 

獣の国はアメリカであり、バビロンは、アメリカのキリスト教会。

 

反キリストは、明らかにアメリカから出て来る。

 

だから、アメリカのキリスト教会がバビロンであるならば、アメリカのキリスト教会を際限なく、吟味無しに受け入れ、どこまでも従っているなら、最後には、獣のしるしをつけられる事になる。

 

ベニーヒンの追っかけをし、この霊をすっかり信用している人達は、結末は、反キリストを拝み、獣の刻印を受ける事になると思われる。

 

また、アメリカで言われている、レフトビハインド、「艱難前携挙」、おかしな教理だとか、パーパスドリブンチャーチとか、ヤベツの祈りなどに引っかかっている人達は、最後に獣の刻印を受ける事になると思われる。

 

バビロンは、獣の像を拝み、額か手に獣の刻印を受ける事に通じる。

 

だからバビロンと、アメリカのキリスト教会に、どこまでもくっついて行くか、聖別され、離れて行くかで、我々のこれからの運命は変わって行く。

 

別にアメリカを毛嫌いしているわけではないが、レムナントキリスト教会を始めて以来、全くアメリカ由来の霊、リバイバル集会と縁を切った。

 

そうしたら、教理的、霊的に健全になった。

 

なので、アメリカとアメリカのキリスト教会にどこまでもついている人は、獣の刻印に近い。

 

こういうポイントは是非覚えておく。

 

獣の刻印は、額か手に受ける。それを受ける者は、「神の怒りの杯に混ぜ物なしに注がれた神の怒りのぶどう酒を飲む。また、聖なる御使いたちと小羊との前で、火と硫黄とで苦しめられる。」

 

 

 

14:11そして、彼らの苦しみの煙は、永遠にまでも立ち上る。獣とその像とを拝む者、まただれでも獣の名の刻印を受ける者は、昼も夜も休みを得ない。

 

 

 

こういう事にならないために、レムナントでは、メッセージをしている。

 

見たいことは、「獣の名の刻印を受ける者は、昼も夜も休みを得ない。」とある。

 

獣の刻印とは何か。

 

1つは、

 

 

 

7:3「私たちが神のしもべたちの額に印を押してしまうまで、地にも海にも木にも害を与えてはいけない。」

 

 

 

ここでは神の印が、神のしもべ達の額に印を押されるとは、獣の印を押されるのとは対照的。

 

神の印というのは、明らかに聖霊の印。何かのスタンプでも、バーコードでもない。

 

 

 

第二コリント

 

1:22神はまた、確認の印を私たちに押し、保証として、御霊を私たちの心に与えてくださいました。

 

 

 

ここで、確認の「印」が出て来るが、それは御霊。

 

なので、神の印は、神の霊である、聖霊。

 

と、いう事は、裏返して言うのなら、黙示録に戻るが、「獣の印」とは何か。

 

それは「獣の霊」だと思われる。

 

そして、右手と額の組み合わせというのは、「按手」

 

それを通して「悪霊」が下される。ベニーヒンなど。

 

我々はこれから気を付けなければならない。

 

「バーコードだ」という人もいるが、(バーコードも全く無視していいとは言わないが)やはり

 

「神の印」と「獣の印」は、どうも対称的な位置にあるので、神の印を受ける代わりに獣の印を受ける。明らかに、霊的な印であると、レムナントでは理解する。

 

ベニーヒンや、ペンサコーラ、トロントの集会に行って、按手を受けている人達は、まさに危険な霊を受けている可能性があるので、気を付けなければならない。

 

こういう霊を受ける人は、神の凄まじい怒りを受けてしまうので、気を付けなければならない。

 

 

 

黙示録

 

14:10そのような者は、神の怒りの杯に混ぜ物なしに注がれた神の怒りのぶどう酒を飲む。また、聖なる御使いたちと小羊との前で、火と硫黄とで苦しめられる。

 

14:11そして、彼らの苦しみの煙は、永遠にまでも立ち上る。獣とその像とを拝む者、まただれでも獣の名の刻印を受ける者は、昼も夜も休みを得ない。

 

 

 

我々は、この辺りが、黙示録の戦いのクライマックス。

 

なので我々はこういう日に備える。

 

これが洪水のクライマックス。

 

やはり我々はこういう日が聖書に書いてある通り来るので、その日を目指していくのが正しい。

 

この日に、我々が信仰を失うようでは、待っているのは、最悪の事態、永遠の苦しみ。

 

これは避けなければいけない。

 

この様な日に備えて、我々は、クリスチャン生活をする。

 

今の平和の日、こういう日を標準に備えている人は、この日に耐える事が出来ない。

 

この日が「来る」という事を前提に用意して行かなければならない。

 

何が何でも獣の像は拝まない。何が何でも獣の印を押されないのを前提に行くのが正しい。

 

決して妥協しない、「ここは譲らない」という不退転の覚悟で行く。

 

「火と硫黄」という言葉を見て行きたい。

 

 

 

20:10そして、彼らを惑わした悪魔は火と硫黄との池に投げ込まれた。そこは獣も、にせ預言者もいる所で、彼らは永遠に昼も夜も苦しみを受ける。

 

 

 

火と硫黄の裁きは、悪魔に下る裁きであるが、クリスチャンであっても獣の像を拝む者は同じ所に入ってしまう。

 

そういう意味では我々は、同じ扱いになってしまう。

 

サタンも、サタンに従った御使いも火と硫黄に入って行くし、クリスチャンであっても獣の像を拝む者は結局はサタンに従っていた扱いになってしまう。

 

これは避けたい。「永遠に昼も夜も苦しみを受ける。」と書いてあるから。

 

そして、悪魔はこれで滅ぼされてしまう。

 

そういう意味で、我々の戦いはその時くらいまで。

 

今、伝道しても、強い者が妨害しているので、中々伝道が進まないが、これは戦いなので敵がいる。しかし、敵が縛られて、火の池に投げ入れられたら、天の御国が実現するので、我々は今は、困難や艱難にあるが、悪魔は永遠に存在するわけではなく、悪魔の運命も、そろそろという感じ。

 

それであるが故に、惑わしがこれから強くなるだろうが、そういう事も見て行きたい。

 

もう1つは、

 

 

 

9:16騎兵の軍勢の数は二億であった。私はその数を聞いた。

 

9:17私が幻の中で見た馬とそれに乗る人たちの様子はこうであった。騎兵は、火のような赤、くすぶった青、燃える硫黄の色の胸当てを着けており、馬の頭は、ししの頭のようで、口からは火と煙と硫黄とが出ていた。

 

9:18これらの三つの災害、すなわち、彼らの口から出ている火と煙と硫黄とのために、人類の三分の一は殺された。

 

9:19馬の力はその口とその尾とにあって、その尾は蛇のようであり、それに頭があって、その頭で害を加えるのである。

 

 

 

ペンテコステ系の様に、色んなリバイバル集会だとかで惑わされ、変な霊に惑わされたクリスチャンの集まりだと思う。

 

そういう人たちが集まる所に、「火と硫黄」という言葉が出て来る。

 

「口からは火と煙と硫黄とが出ていた。」

 

これを指して何を言っているのか。

 

惑わされたクリスチャン達に、我々がひっかかるなら、我々も、「火と硫黄」の中に投げ込まれてしまうという事を暗示している。

 

こういったリバイバルに引っかかってはいけない。

 

引っかかる人は、全人類の中に2億もいる。   凄い数になる。

 

おかしなリバイバルでやられた人の方が、ずっと多数派になる。

 

そういう時が来る。

 

 

 

14:12神の戒めを守り、イエスに対する信仰を持ち続ける聖徒たちの忍耐はここにある。」

 

 

 

やはりサタンは、敵やターゲットをよく知っている。

 

終末の日のターゲットは、明らかに永遠のいのちを持ったクリスチャン。

 

サタンが大いにそれを狙って来る。

 

そういう意味では、我々もやはり苦難に遭うと思われる。

 

「神の戒めを守り、イエスに対する信仰を持ち続ける聖徒たちの忍耐はここにある。」

 

だから、我々の忍耐とか、訓練だとか、目標はこのあたり。

 

こういう時を、何とか乗り越える事が出来るように、祈り、また、求めて行く。

 

しかし、いのちに至る道は、聖書的にはこんなものだという事を覚えておく。

 

戦いを経て、永遠のいのちを手に入れた、例えばイエス・キリストもしかり。

 

狭い道、狭い門を通られた。

 

聖書の他の箇所にもあるように、我々は、「多くの苦しみを経て、神の国に入る」とパウロが言ったように、サタンは、そういう人たちに目を付けているので、パウロ自身も「永遠のいのちに至る道は狭い」と言っているので、狭い。

 

道は狭く、門も狭い。 見出す者は稀。

 

我々はそこに焦点を当て、また、目標を定めて、得て行きたい。

 

これは、パウロの時も、イエス様の時もそうであった。

 

多少の苦難を経ても、諦められるような事ではないし、そのくらいのことで獣の像を拝むのは馬鹿みたいだと思うので、是非、この辺りの事は書いてある事なので、主にあって必要な備えをなしていきたいと思う。