ヨハネの黙示録17章14節~18節 2016.12.4
17:14この者どもは小羊と戦いますが、小羊は彼らに打ち勝ちます。なぜならば、小羊は主の主、王の王だからです。また彼とともにいる者たちは、召された者、選ばれた者、忠実な者だからです。」
あらゆる獣の横暴、あらゆる冒涜が許される。
獣が勝利を得るのは、結局、背教のクリスチャンに対してだという事。
この書に出て来る「地に住む者たち」はポイントが無い。
要するに、この世についたクリスチャン。
アブラハムを初めとした、神の喜ばれる民は、地上においては寄留者であるべき。
地の定住者になってはいけない。
地に住む人たちは、いろいろ獣に騙されたり、冒涜的な事に入ってしまうかも知れない。
では、獣に全ての人がやられるかと言うと、違う。
「小羊は彼らに打ち勝ちます。」
ここに書いてある通り、キリスト自身は打ち勝つことが出来る。
「小羊は主の主、王の王だからです。」とあるから。
また、「召された者、選ばれた者、忠実な者だからです。」
そして、世の終わり、何で終末の艱難時代があるのか。
終末に、艱難時代は来るのに、「艱難前携挙説」は、恐怖の中に生まれて来た教えではないか。
本当に艱難前が正しかったら、昔の使徒たちのときから言われている事柄だが、言われてはいない。また、ルターの時もそんな教理は出ていない。
「艱難前携挙説」は19世紀に現れて、今に至るまで広がっている。
それでは真理は見えてこない。架空の話なのだから。
何故艱難が許されるか、全てが分かるわけではないが、聖書には、終末の日の艱難の事が記してあるが、すなわち選り分けが許されるという事。
神の視点では、地震の事も書いてあるが、地震によってあらゆる建物が倒れたり、揺れ動かされたりする。
この艱難は、教会に対しての終末の日の揺れ動かし。
しかしそれと共に、「地だけでなく天をも揺れ動かそう」と、それをもってあらゆる宝物が宮にもたらされると書いてあるが、これは喩えであり謎であり、御国の奥義。
「宝」というのは、地震があっても尚且つとどまる人。
揺るがしや迫害に遭っても、尚且つ御言葉に留まる人々が、神の前に、「宝」
そういう視点から、黙示録(黙示録だけではない)、聖書は神の視点で書かれている。
神は、どの様な人を選ぶのか、どの様な人々を、キリストの花嫁に選ぶのか、これはただ、神の選びによるもので、人が強制するものではない。
神様の御心は、聖書が書かれた昔から書かれていて、それは、明確な表の文には書かれていないが、表にも裏にも文字が書かれている様に、裏の部分に書かれている事は、揺るがしがあっても尚且つとどまる者が「宝」。
そういう意味で、今日の箇所もそれに通じるものがあるかと思う。
14節「また彼とともにいる者たちは、召された者、選ばれた者、忠実な者だからです。」
この世の艱難の中でも、最後までキリストに留まる者こそ、「召された者、選ばれた者、忠実な者。」 論より証拠。
理論とか、声が大きいとか、如何にも熱心そうだとか、そういう事は、あまり関係ない。
実際に試験をして、試練、試みを得て、残った者が本物だという事が、聖書でも、この世でも、
実証主義。 我々もそう。
論より証拠で、地震があっても「残る」かという事。
やはり艱難時代とか獣とか、迫害とかが許されるが、結局それに残った者が、「召された者、選ばれた者、忠実な者。」だという事。 そういう意味では神の視点。
要するに、花嫁の選びだったり、麦と毒麦の選り分けだったりする。
これから、クリスチャンに対する選び、選別の時がやって来る。
これは理解しなければならない。
「艱難前携挙説」は間違っている。
「どんなクリスチャンも、何の試練も経ないでそのまま天の御国に入れる」←これは全く間違い。
聖書が明らかに語っているのは、これからクリスチャンに選り分けが来るという事。
そこを通って、残った者が、神に召された者であり、選ばれた者、忠実な者。
実際に「残らなければ」ならない。
具体的にはユダヤ人はバビロンに捕囚された。
その時に試練がある。本当に神に従うか。そうでない人達は、ネブガデネザル王が建てた金の像を拝んでしまう。
しかし、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴの3人は、正しく留まった。
これが選び、忠実だという事。これは、シビアと言えばシビアだが、こんな感じ。
勝利は、ダニエル書の結論は、御言葉に留まり、火の燃える炉によっても変わらなかったという事。そして、神の介入によって、助けられた。
艱難時代も、そういう奇蹟的な神様の介入があるかも知れない。
どちらにしても、選びが来る。それを通して、我々は選ばれる。
神は、我々が耐えられないような苦難には遭わせないが、艱難時代の1つの意味合いは、背教の民の実態が明らかになって行く事。
結局、世につく人はみんな、獣の像を拝み、実態が明らかになり、永遠のいのちを失う。
もう1つは、真に留まる人々は一体誰なのか、神の前に「宝」であるのは誰かというのが解ってしまう時代。
17:15御使いはまた私に言った。「あなたが見た水、すなわち淫婦がすわっている所は、もろもろの民族、群衆、国民、国語です。
淫婦がすわっている所。
それは、もろもろの民族だという事。
ここで、見ておくべき事は、「もろもろの民族、群衆、国民、国語です。」
こう言う表現が、他の所でも使われている。
10:11そのとき、彼らは私に言った。「あなたは、もう一度、もろもろの民族、国民、国語、王たちについて預言しなければならない。」
11:9もろもろの民族、部族、国語、国民に属する人々が、三日半の間、彼らの死体をながめていて、その死体を墓に納めることを許さない。
言わんとしている事は、喩えの意味合いてして、あらゆるキリスト教の教派という事。
こう言う表現を通して言わんとしている事、「あなたが見た水、すなわち淫婦がすわっている所は、もろもろの民族、群衆、国民、国語です。」
こう言う言い方をすることによって書いてある事は、喩えの意味合いとして、簡単に言えば、
世界中のあらゆる教団、教派が、この淫婦と関係するようになるという事。
もう1つは、「水」という表現。「あなたが見た水」
明らかにこれは、「霊」 霊的な事に関して。
あらゆる世界中のキリスト教会が、淫婦すなわちバビロン。 アメリカのキリスト教会の影響の下で「水」、霊が影響を受けるという事を言っている。
「水」に関して、黙示録17章1節では、「大淫婦」の事が書いてあるが、
「大水」と言うと、大津波のような感じがするが、そういう意味ではなくて、「数が多い」という事。 水が沢山あるという事。
多くのキリスト教、教派。 アメリカ1国の事ではなく、あらゆる国のキリスト教。
また、あらゆる教団。 あらゆる国の水が、バビロン、アメリカ由来の「霊」で影響を受けていく。 なので、アメリカ1国だけが裁かれるのではなくて、アメリカは、あらゆる国、そしてキリスト教会に影響を及ぼしている。 教理においても、霊的な面においても。
そういう事を「多くの水」とか「大水」という表現で言っている。
ここでも、新改訳では、おかしい部分がある。
言わんとしている事は、「たくさんの数の水」という意味だが、新改訳では「大水」という表現しているので、ちゃんとしたニュアンスが出ていないので、良くない。
沢山の淫婦がいる。
アメリカはバビロンであり、アメリカのキリスト教会もバビロンであるが、確かに淫婦だが、問題そこだけではない。
世界中のあらゆる国のキリスト教会、フランスと言わず、ドイツと言わず、日本、韓国、台湾と言わず、すべての国が、アメリカの淫婦の影響の下で、それぞれの国のキリスト教会も、みな淫婦化してしまうという事が言われている。
それら淫婦の母が、バビロン、アメリカのキリスト教会だと言っている。
そういう自覚は無いかもしれないが、現実がそう。
日本のキリスト教も、あらゆる事も、アメリカ由来の事がどんどん影響されている。
アメリカでは、不良牧師が出てくれば、日本でも出て来てしまったり、あらゆる音楽にしても、
この世の音楽をクリスチャンのミュージシャンが、カバーしたりすると、日本のゴスペル歌手も、この世の歌を歌ったり、ロック的なものになってしまったり、あらゆる影響を受けている。
これは、日本のキリスト教会は明らかに「娘」アメリカのキリスト教会から生まれて来た娘。
これは日本だけではない。 他の国々においても、あらゆる国のキリスト教会が、アメリカの影響の中で、淫婦化してしまうという事。
ここで言われている事を理解する。
アメリカ・・バビロン。
アメリカキリスト教会、すなわちバビロンの影響は、アメリカにとどまらず、あらゆる国のキリスト教会を次々にこの世化させたり、別の霊と姦淫させたり、神とちがう方向に持って行っている。それにあらゆる国のキリスト教会に影響されているために、その意味合いは、アメリカの国も、淫婦として裁きを受けるだろうが、それはアメリカに留まらず、影響されたあらゆる国のキリスト教会に対して、災い、罰、神の怒りという事柄が、適用されてしまう。
神の怒りがそれらの国に対して、キリスト教会に対して注がれて来る。
そういう事が、黙示録では様々な表現で語られているので見て行く。
また、そういう肝心な事が解らない様に、新改訳では書かれているので、微妙に違ったところに持って行かれるような事柄。
新改訳はいまいちな感じ。
15節で「あなたが見た水、すなわち淫婦がすわっている所は、もろもろの民族、群衆、国民、国語です。」とある。
これを通して、他の所では、あらゆる国を指す表現なので、喩えの意味合いとしては、あらゆる教団、あらゆるキリスト教会。
アメリカの影響を受けているキリスト教会が、みんな、霊的な部分でおかしくなって行く。
アメリカから来るあらゆるリバイバリストや集会に、喜んで出席している人は、まさに「水」の影響を受けてしまう。
「あなたが見た水」と書いてあるように、ここで書いてある事は、霊的な事柄に関して、明らかに世の終わりの時に、聖霊ではない別の霊がキリスト教会に入って来る。
それはしるしと不思議によって。
ピーターワグナーを初めとした、「聖霊の第三の波」はまさにそうだと思う。
3つの悪霊がどんどん出て行く。
6:13また、私は竜の口と、獣の口と、にせ預言者の口とから、かえるのような汚れた霊どもが三つ出て来るのを見た。
「かえるのような『汚れた霊どもが三つ』出て来るのを見た。」
と、「聖霊の第三の波」にぴったりマッチする。
悪霊であり、3つであり、まさに悪霊。
「聖霊の第三の波」は少なくとも日本のキリスト教会に席巻したし、他の国もそう。
そういったやり方で悪霊は席巻して来る。
それで「水=霊」がどんどんおかしくなる。
それがまさに黙示録の言っている事。
もう1つは、「大水の上にすわっている」17章21には書いてある。
「大水」は変な日本語訳であり、英語では「たくさんの数の水」
要するにいろんな国の「水」がそれぞれ汚染されてしまうという事。
それは他でもない、淫婦バビロン、アメリカのキリスト教会の大いなる影響の中で起きて来る。
これらの全ては、我々の目が真実聖霊にあって見えるなら、まさに、黙示録に書いてあるように、実現しつつある。
しかし、「見るには見るが悟らず」と書いてあるが、多くの人の目は、見えなくなっている。
そういった事に従ってはならない。
我々は、得るべきものを聖霊にあってみるべき所は見て行かなければならない。
そうしないと、黙示録は、ただ閉じた書になってしまう。
17:16あなたが見た十本の角と、あの獣とは、その淫婦を憎み、彼女を荒廃させ、裸にし、その肉を食い、彼女を火で焼き尽くすようになります。
「あなたが見た十本の角と、あの獣とは、」とある。
これも新改訳では変な訳。
KJVでは、「獣の上にある十本の角は」
だから、ポイントは、10本の角がまさに終末の日の「キリスト教壊滅」とか、キリスト教を破壊の為に大いに用いて行くというのが強調されて行く。
新改訳では、あまりその部分は強調されていない。
終末の時代に、この10本の角というのが、世界支配、キリスト教支配という事で大きな意味合いを持っている。
こちらの理解では、アメリカの10の区分。
この獣の上の10本の角というのがまさに、言い得た表現。
10本の角と獣は無関係ではない。 何故ならアメリカは獣の国。
10本の角が、聖書に従うなら、世の終わりの時に活躍する。
10本の内、1番目の角は、北のアメリカを支配し、2番目はヨーロッパとか、3番目は日本らしい。日本のあらゆる政治、あらゆる宗教、あらゆる日本人の行動というのが、アメリカの3番目の区分に支配されてしまう。あらゆる事柄を。
それを通して、キリスト教会にどういう未来が来るかと言うと、
「あなたが見た十本の角と、あの獣とは、その淫婦を憎み」と書いてあるように、これから世界がアメリカによって支配され、具体的には、日本を含め、アメリカの10の区分によって支配され(日本は3番目)るが、その中で何が起きるかと言うと、「淫婦を憎み」と書いてあるように、これからキリスト教会に対して、あらゆる形で、圧迫や迫害や、非難がある。
アメリカでは、実際に既に起きている。
最近、有名人2人(スター?)が、教会に、出席したという事が、この世の雑誌によって、非難されている。
具体的には、福音的な教会だから。 聖書を正しく信じる教会に出席したというだけで、記事になり、「彼らは、福音的な、キリスト教的な、聖書を文字通り信じる教会に出席する事によって、アメリカでは合法とされている、同性婚に反対し、非難するような行動を行なっている。」
となった。 礼拝に出席したというだけで非難されてしまった。
日本では今のところそんなことは無い。
しかしアメリカは違う。 これは何かというと、「淫婦を憎み」と書いてあるように、キリスト教会に対して、次々と非難が浴びせられてきている。
この傾向はどんどんエスカレートして、殆ど言いがかり。
それは御言葉の成就。
17章16節に、「あなたが見た十本の角と、あの獣とは、その淫婦を憎み、」とある。
だから、アメリカのキリスト教に関して、この世について行ったり、この世のものについて行ったりするので、憎しみの対象になって来るので、これは神の許しのもとに起きて来ている。
実際そうなりつつある。 教会が非難されつつあるから。
更に、「彼女を荒廃させ」とある。
だから、背教の教会が段々と荒廃させられて行くという事。
「荒廃」はどういう事かと言うと、さらに背教していくという事。
教理もどんどんおかしくなって行く。
「キリストのみに唯一救いがある」「天地を創り、動物、人間も、神が造った」そういった教理、真理が、ひっくり返されて行く。
実際にそうなりつつある。本来の正しい教理に対して戦いが挑まれている。
「荒廃させ、裸にし」とある。
裸というのは、服を着ていないという事だから、「義の衣」が奪われて行くと理解している。
「義の衣」が何かというと、キリストの贖いの血。
しかしそれは奪われ、逆に悪霊の血、悪霊のぶどう酒を受けるようになる。
唯一の救いとか、義の衣であるキリストの血がどんどん教会から奪われて行く。
それを指して、「裸にする」というように語られていると理解出来る。
「その肉を食い」とは、「肉」は肉的なクリスチャンを指すので、そういう喩えではないかと理解出来る。 肉的なクリスチャンはどんどんやられて行くのだと思う。
そして、「彼女を火で焼き尽くすようになります。」
「火」は、霊的な事柄であると理解出来る。
悪霊の火で、教会は、やられてしまう。
まさにこれから、アメリカの国の、強権、10本の角が世界を支配するようになって、それと並行して、あらゆる背教的なキリスト教会に対して、攻撃が加えられ、教理がひっくり返されるようになる。 そういう時代が来る。
それは、これから10本の角が、戦争も含め、あらゆる凶暴な圧倒的な支配の下で、従わざるを得ない状況の中で、そういった冒涜的な事が中に入って行くというように理解出来る。
そして、
17:17それは、神が、みことばの成就するときまで、神のみこころを行なう思いを彼らの心に起こさせ、彼らが心を一つにして、その支配権を獣に与えるようにされたからです。
こういった背教や、獣の支配がどうして許されるのか・・・それは神の御心。
獣が、淫婦の教会を攻撃する。
これは、神の怒りの現われとして、神が許している事柄。
ある意味では、教会の、芯の部分が見分けられてしまう事。
神を恐れなければならない。
世の終わりの時に、獣の国や冒涜などに入って行くのは、ある意味では、この時代のクリスチャンの心の奥底まで神は見られる。
ある意味では、クリスチャンが、密かに願っている事とか、偽善的な事柄に対し、報いとしてこういう事が起こされる。
だからすぐに我々は、単に表面的な事や言葉ではなく、実際に心の奥底から正しく主に従って行くかを見られる。
心の奥底から正しく主に従って行かなければ、世の終わりの選り分けの時に、留まる事が出来ないのではないか。
我々は往々にして、人前の事を優先してしまうかもしれないが、選り分けの時が近付いているので、人の前でなく、神の前に正しく歩む事が出来るように、祈って御言葉に触れ、御言葉を行なう事が出来るようにしていきたい。
外側ばかり綺麗にしても、殆ど意味が無い。
律法学者、パリサイ人がそうだった。イエス様はそれを指して「白く塗られた墓」と言われた。
彼らは、偽善的な歩みをしていたので、イエス・キリストが来られた時に対応できなかった。
逆に全く正反対の行動に出て、キリストを十字架につけて殺してしまった。
そして酷い罰に入って行った。
同じ事が、偽善的な歩みをしていく時に、再度行なってしまう恐れがある。
そういう兆候はいくつも起きている。
「艱難前携挙説は正しい」というのは、目がすでにおかしい。
ベニーヒンの霊が神の霊だと思うなら、すでに霊がおかしい。
このまま、まっすぐに行くなら、白く塗られた墓である偽善者に過ぎないので、かつての律法学者、パリサイ人のような同じ過ちに入って行く事が十分にある。
だから、真剣にこの事を考えて行かなければならない。
かなりのクリスチャンがずれている。殆ど見えていない。
歩みを正して行きたい。
「彼らが心を一つにして、その支配権を獣に与えるようにされたからです。」とある。
ここは、重要だと思うが、新改訳は全然違っている。
KJVでは、明らかに「王国」と書いてあるる
王国を獣に渡すという事柄は、聖書の喩えを理解する時、大変深刻な意味合いがある。
それは何かというと、「王国」というのは、聖書の中で言う、「神の王国」
喩えで、「神の国は、女が三斗の小麦粉の中にパン種を入れるようなものだ」
また、「神の国は、からし種の様だ」とイエス様が言われた。
これも喩えであり、書かれているので、ピンと来ないが、神の国はどういう国かと言うと、喩えの意味合いとしては、今の時代の教会を喩える表現。
何故かというと、神の国。キングダム・オブ・ゴッド、すなわち神が支配している土地の事を
神の国と言っている。
この世の国は、この世の王様が支配している。
しかし、この世の中に1つだけ、神を王としている国があって、それは教会の事を言っている。
神の王国とは「教会」のことを言っている。
旧約時代の事を見ても解る。
バビロンにはバビロン王がいたし、ギリシャにはギリシャの王がいる。
旧約にイスラエルに王がいて、真の王は神ご自身。
だから旧約の時代の神の国は、イスラエル、ユダ。
サウル王が、初めての王として、イスラエルに立て上げられる時に、サムエルは快く思わなかった。 神様が「この民は真に王として治めている私の事を認めていない」と。
サウル王、ダビデ王は、人間として立て上げられたが、真の王は神。
新約の神の国は、「教会」 だから、教会は、神、キリストが治めるべき。
終末の時、その時に支配権、王国を獣にわたすとどういう事になるかと言うと、全世界の教会が、獣の手に渡されるという事。
「同性愛は聖書的だ」とか、反キリストを教会のトップに立てるとか、そういう事は、起きて来る。何故かというと、神が王国であるキリスト教会を、獣の手に渡すから。
旧約のユダもバビロンに捕囚された。バビロンは獣の国だから。
神の王国が、獣の手に渡された。これは成就した。
また、イエス・キリストが、十字架で殺されたあと、西暦70年、獣の国ローマが神の王国であるエルサレムを攻撃して来て、そこにいた人を最後の一人まで殺した。
神の王国が、獣の国に引き渡された1つの大きなパターン。
こういった事が、再度繰り返される。
それはなぜかというと、神の怒りが凄まじいから。
ユダがバビロンに引き渡されたのは、神の怒りが凄まじいから。
神の怒りが積もり積もっている。また、どうしてローマにどうしてユダ、エルサレムを渡されたかと言うと、神の1人子であられるイエス・キリストをさえ受け入れず、逆に捕まえて十字架で殺してしまったから。 神の怒りが燃え上って、獣の国ローマに渡されてしまった。
これは、歴史の上で起きて来た事。
なので、黙示録に書いてある事は今まで全ての聖書の過去の歴史を踏まえて未来が書かれているので、そういう目で見なければならない。
過去の全ての聖書の預言は、成就してきたので、今後も成就する。
王国は、獣に渡される。
喩えの意味合いは、全世界のキリスト教会が、獣の国アメリカの支配の下に渡される。
これは、黙示録に預言された通り、神がそれを赦すから。
明らかに17章17節の意味合いは、「それは神が御言葉を成就するまで、神の御心を行なう者よ、神がそれを起こさせる」 神がその様に獣にそういう心を起こさせたという意味。
「彼らが心を一つにして、その支配権を獣に与えるようにされたからです。」
神がそれを許している。
神が許されたら、この事は必ず成就すると思わなければならない。
黙示録はだてに書かれているのではなく、深刻な未来を唯一我々に正しく示すのが黙示録。
KJVでは、「王国を獣に渡す」と書いてある。 だから成就する。
だから王国は、神の国、キリスト教会。
いずれ、全世界で、キリスト教会のあらゆるメッセージ、教理はみな獣の支配下に入って、その結果、キリスト教会に反キリストが立つようになって行く。
それは、背教の教会に対しての、神の怒り。 神は故無くしてこのようにされるのではない。
我々は人間的な視点だけでなく、神が今の背教のキリスト教会に対し、どのような怒りを持っているかという事に関して、正しく理解しないと、黙示録を読んでも、全く意味が無い。
またそれに関して、知識ではなく、霊的な思い、痛みとして、自分の内側で感じる心がなければ、黙示録の言葉は他人事の様であり、全く理解できない。
全然そういう感覚を持っていないクリスチャンが多い。
盲目であり、耳も聞こえず、大変深刻な状態。
霊において、これらを「あなたの目が見えるようになるために目薬を買いなさい」と書いてあるように、見える事が出来るようになり、正しく見る事が大事だと思う。
知識だけではなく、霊の感覚としてそういう事が理解出来ないと、これから起きる事が自分の霊として、見る事が出来ない。
しかし、聖霊にあって理解していく時に、全体としてどの様な事が起こるか理解出来る。
そういった事は理解して行きたい。
17:18あなたが見たあの女は、地上の王たちを支配する大きな都のことです。」
レムナントキリスト教会
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