黙示録セミナーテキスト H21.9.20 <終末は神のわなの日>
<目次>
(1)終末の日は、神の怒りの日
(2)終末の日は、神によるわなの日
<詳細>
(1)終末の日は、神の怒りの日
1. キリスト教会に流布する終末教理に関する問題点はたくさんある。
その問題点を端的にいえば、始めから終わりまで、何もかも
間違えているといえる。
すなわち、
*彼等は終末の日に誰が裁かれるか知らない。
未信者が裁かれる日だとばかり、思っている。
しかし、事実は単に未信者だけでなく、クリスチャンも裁かれるのである。
*また彼等は終末の獣の国、すなわち終末の艱難時代の主役となる
国を見誤っている。ヨーロッパがその国であるとしている。
しかし、聖書の暗号はアメリカこそ、その国であると述べている。
*そもそも終末におけるクリスチャンを神がどう考えているのか、という
根本的なことがらを理解していない。神はクリスチャンを祝福し、終末の日においても、
神はクリスチャン全てを喜んでいると理解している。
しかし、事実は終末は神の怒りが爆発する日、背教の神の民に対して神の怒りが降り注ぐ日である。
2. 旧約の最後の日々、すなわち、イエスが初降臨された時は明らかに
神の怒りが神の民に対して降り注ごうかという切迫した時であった。
以下のことばの通りである。
”マタイ3:1 そのころ、バプテスマのヨハネが現われ、ユダヤの荒野で教えを宣べて、言った。
2 「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」
3 この人は預言者イザヤによって、「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。』」と言われたその人である。
4 このヨハネは、らくだの毛の着物を着、腰には皮の帯を締め、その食べ物はいなごと野蜜であった。
5 さて、エルサレム、ユダヤ全土、ヨルダン川沿いの全地域の人々がヨハネのところへ出て行き、
6 自分の罪を告白して、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けた。
7 しかし、パリサイ人やサドカイ人が大ぜいバプテスマを受けに来るのを見たとき、ヨハネは彼らに言った。「まむしのすえたち。だれが必ず来る御怒りをのがれるように教えたのか。
8 それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。
9 『われわれの先祖はアブラハムだ。』と心の中で言うような考えではいけません。あなたがたに言っておくが、神は、この石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。
10 斧もすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。”
この日、バプテスマ のヨハネが登場した日は、旧約の律法を行う祭司、レビ人が登場する 日である、すなわち、旧約の終わり、終末の日である。
その日にバプテスマのヨハネは、必ず来る御怒り、すなわち、神の怒りが今にも臨もうとする 時代であることを述べている。
そして、神の怒りが臨む結果、良い実を結ばない木は切り倒されることをも述べている。
このことは比喩でもたとえでもなく、実現し、良い実を結ばない木、パリサイ人、祭司長達は、
切り倒され、神の恵みから外された。
そして、救い主イエスを受け入れる事はできず、結果、ローマによるエルサレム攻撃の日に
滅ぼされてしまった。
旧約の最後の日々、終末の日々は神の怒りの日であり、その怒りは未信者というより、
行いを改めようとしない神の民へ臨んだのである。
3. 同じ事が新約の終わり、教会時代の終わり、終末の時代に再現することが想像できる。
すなわち、新約の終わりには、新約の神の民に対して神の怒りが爆発するのである。
冒涜のきわみ、背信のきわみの教会に対して、神が最終的な怒りを発する時、
それが終末なのである。
4.現代の教会を客観的に見るなら、このことはさらに真実であることが理解できる。
地獄はない、セカンドチャンスがあるなどとのインチキ教理は横行し、
神の民の不信はきわまっている。
終末に裁きがあるとの聖書の警告に関しては、その前にもう一回、キリストの再臨があり、艱難前に
教会は挙げられる事になっているから、大丈夫との、嘘教理、艱難前携挙説を持ち出して、
神のことばに対抗するありさまである。
また、キリストは復活していなかったなどの嘘も大いに広まっており、背教は大いに進んでいる。
神は今の教会の状態を喜んでいたり、同意していたりするのでなく、逆に背信の教会に
対して神の怒りが爆発寸前、それが今の時の正しいみわけである。
5. 神の民の時代の終わりは背教に進む、その結果、神の怒りが
爆発する、これは望ましくはないが、しかし、聖書の神の民がくり返し犯した
歴史である。
すなわち、ダビデ以来十数代続いた王のもとで、北イスラエルは、
バアル、アシラ崇拝、不信をくり返し、最後は神の怒りの中で、約束の地を追い出され、
アッシリアへ捕囚となっていった。北イスラエルの最後の日々、終末の日々は神の怒りをかう時となったのである。
6. 同じく南のユダ国もその最後の日には、不信のゆえに神の怒りをかい、彼等は同じく、
約束の地を追い出され、バビロンへ捕囚となっていった。
ユダ国の歴史のその最後の日々、終末の日々は神の怒りをかう日だったのである。
7. 同じく教会時代の終わり、終末の日は、新約の神の背信のゆえに
神が怒りを発する日、そう考えるのが聖書的な結論である。
今のキリスト教会でいわれている、終末の日にも教会は苦難に会わない、
艱難前に携挙されるとは、聖書とは縁もゆかりもない人工話、空想話である。
8. 以下の箇所は、みな、神の民の背信、不信に対して発せられる神の 怒りと理解するのが正しい。
ヨハネの黙示録 14:10 そのような者は、神の怒りの杯に混ぜ物なしに注がれた神の怒りのぶどう酒を飲む。また、聖なる御使いたちと小羊との前で、火と硫黄とで苦しめられる。
ヨハネの黙示録 14:19 そこで御使いは地にかまを入れ、地のぶどうを刈り集めて、神の激しい怒りの大きな酒ぶねに投げ入れた。
ヨハネの黙示録 15:1
また私は、天にもう一つの巨大な驚くべきしるしを見た。七人の御使いが、最後の七つの災害を携えていた。神の激しい怒りはここに窮まるのである
。
ヨハネの黙示録 16:1 また、私は、大きな声が聖所から出て、七人の御使いに言うのを聞いた。「行って、神の激しい怒りの七つの鉢を、地に向けてぶちまけよ。」
ヨハネの黙示録 16:19 また、あの大きな都は三つに裂かれ、諸国の民の町々は倒れた。そして、大バビロンは、神の前に覚えられて、神の激しい怒りのぶどう酒の杯を与えられた。
ヨハネの黙示録 19:15 この方の口からは諸国の民を打つために、鋭い剣が出ていた。この方は、鉄の杖をもって彼らを牧される。この方はまた、万物の支配者である神の激しい怒りの酒ぶねを踏まれる。
9. パウロは必ず来る、神の怒りの日について述べ、それから
逃れられる様、語っている。
1テサロニケ1:10
また、神が死者の中からよみがえらせなさった御子、すなわち、やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださるイエスが天から来られるのを待ち望むようになったか、それらのことは他の人々が言い広めているのです。
(2)終末の日は、神によるわなの日
1. 何故、終末の教理は間違えやすく理解しがたく、誤って理解する人が多いのか?
それは、その日が神によって備えられたわなの日だからである。
1テサロニケ5:1 兄弟たち。それらがいつなのか、またどういう時かについては、あなたがたは私たちに書いてもらう必要がありません。
2 主の日が夜中の盗人のように来るということは、あなたがた自身がよく承知しているからです。
3 人々が「平和だ。安全だ。」と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに襲いかかります。ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むようなもので、それをのがれることは決してできません。
ここでは、人々が平和だ安全だといっている、まさに
その時、わなのように、滅びが彼等に襲いかかることが描かれている。
2. 何故、終末の日、人々は滅ぼされるまで、
平和だ、安全だといっているのか?
その理由は彼等が信じ込んでいる、終末教理のゆえであることが想像される。
彼等の受けた終末教理によれば、彼等クリスチャンが神の裁きにあうことはない、
と語る。さらに確かに神の怒りの日は来るが、その前に教会は、艱難をさけて、
天に挙げられると説く、だから、彼等は自分達は「平和だ」(神と戦争状態ではない)、
「安全だ」、裁きに会う事など決してないと、いうのであう。
しかし、事実は彼等の信じこんいた終末教理こそ、嘘、いつわり、ガセネタ
なのであり、神が終わりの日に背信の神の民に怒りと裁きを下すとは、聖書がくり返し語る、
真理である。
3. 終末のわなに関して恐ろしいことは、それが人からではなく、
神からきたわなであること。
人からのわなは見抜けても、どうして神からのわなを逃れる事ができるだろうか。
以下の様に書かれている。
イザヤ8:13 万軍の主、この方を、聖なる方とし、この方を、あなたがたの恐れ、この方を、あなたがたのおののきとせよ。
14 そうすれば、この方が聖所となられる。しかし、イスラエルの二つの家には妨げの石とつまずきの岩、エルサレムの住民にはわなとなり、落とし穴となる。
15 多くの者がそれにつまずき、倒れて砕かれ、わなにかけられて捕えられる。
ナザレの イエスという方法はまさに神のわなであり、その日、偽善者、不信者は
一網打尽にされ、みなわなにつまづいた。
イエスをキリストであると理解できたのは、12弟子を始めとしたほんのわずかな人であり、
他の人々、宗教の専門家であるはずの律法学者、パリサイ人達は、皆、つまづいたのである。
彼等は永遠の命を得られなかった。
恐るべき、慄然とするわなが神御自身の手で用意されたのである。
4. イザヤ28:13 主は彼らに告げられる。「戒めに戒め、戒めに戒め、規則に規則、規則に規則、ここに少し、あそこに少し。」これは、彼らが歩くとき、うしろざまに倒れ、手足を折られ、わなにかかって捕えられるためである。
14 それゆえ、あざける者たち・・エルサレムにいてこの民を物笑いの種にする者たちよ。主のことばを聞け。
15 あなたがたは、こう言ったからだ。「私たちは死と契約を結び、よみと同盟を結んでいる。たとい、にわか水があふれ、越えて来ても、それは私たちには届かない。私たちは、まやかしを避け所とし、偽りに身を隠してきたのだから。」
16 だから、神である主は、こう仰せられる。「見よ。わたしはシオンに一つの石を礎として据える。これは、試みを経た石、堅く据えられた礎の、尊いかしら石。これを信じる者は、あわてることがない。
17 わたしは公正を、測りなわとし、正義を、おもりとする。雹は、まやかしの避け所を一掃し、水は隠れ家を押し流す。
18 あなたがたの死との契約は解消され、よみとの同盟は成り立たない。にわか水があふれ、越えて来ると、あなたがたはそれに踏みにじられる。
19 それは、押し寄せるたびに、あなたがたを捕える。それは朝ごとに押し寄せる。昼も夜も。この啓示を悟らせることは全く恐ろしい。」
ここでも神の民がわなにかかって倒されることが書かれている。
彼等のことば、「私たちは死と契約を結び、よみと同盟を結んでいる。たとい、にわか水があふれ、越えて来ても、それは私たちには届かない。」とのことばに関して、「あなたがたの死との契約は解消され、よみとの同盟は成り立たない。」と神は答えている。
これはそのまま今の終末の神の民に通じる。
彼等はいう、神と我らに契約があり、たとえ、艱難時代が来ても、
その前に挙げられるから大丈夫であると語る、また、クリスチャンと名がつけば、
決して救いに漏れることはないので、罪があっても気にする必要はないという、
しかし、そのようなあざける民に対して、「あなたがたの死との契約は解消され、よみとの同盟は成り立たない。にわか水があふれ、越えて来ると、あなたがたはそれに踏みにじられる。」と
いわれているのである。
彼等の確信は妄想や誤解に基づいたものであり、みことばに基づいたものではない。
レムナントキリスト教会
お問合わせ
Tel
E-mail koukanojisan★yahoo.co.jp
(★の箇所を@に変換してください)
天皇家は万世一系のダビデ王朝の末裔である!警告の角笛シリーズ エレミヤ著