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2010年9月26(日) 第12回黙示録セミナー by エレミヤ(前半)
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第12回黙示録セミナー H22.9.26

 

 

たとえで理解する黙示録(2)

 

 

1.泣いているヨハネ:

 

 

 

ヨハネの黙示録 5:1 また、私は、御座にすわっておられる方の右の手に巻き物があるのを見た。それは内側にも外側にも文字が書きしるされ、七つの封印で封じられていた。

2 また私は、ひとりの強い御使いが、大声でふれ広めて、「巻き物を開いて、封印を解くのにふさわしい者はだれか。」と言っているのを見た。

3 しかし、天にも、地にも、地の下にも、だれひとりその巻き物を開くことのできる者はなく、見ることのできる者もいなかった。

4 巻き物を開くのにも、見るのにも、ふさわしい者がだれも見つからなかったので、私は激しく泣いていた。

 

 

この日、ヨハネは、開かれない封印を前に激しく泣いていた。

この封印はいかなるものであり、その封印が開けた後待っている事柄、その先の世界はどのようなものか?

上記「泣く」とのギリシャ語は、以下でも使われている。

"

 

ルカの福音書 19:41 エルサレムに近くなったころ、都を見られたイエスは、その都のために泣いて、

42 言われた。「おまえも、もし、この日のうちに、平和のことを知っていたのなら。しかし今は、そのことがおまえの目から隠されている。

43 やがておまえの敵が、おまえに対して塁を築き、回りを取り巻き、四方から攻め寄せ、

44 そしておまえとその中の子どもたちを地にたたきつけ、おまえの中で、一つの石もほかの石の上に積まれたままでは残されない日が、やって来る。それはおまえが、神の訪れの時を知らなかったからだ。」

"

 

 

この日、主イエスは泣かれており、それは、エルサレムの住民の誰一人もが見ていない未来、啓示

を主がはっきりと見ており、主の前にはその啓示の封印が開けていたので泣かれていたのである。

主の目に見えていたのは、神の民、エルサレムの裁きの日であり、その日、エルサレムの「敵が、塁を築き、回りを取り巻き、四方から攻め寄せ、その中の子どもたちを地にたたきつけ」る日である。しかし、

そのはっきりした未来は神の民の目には隠されており、それを主は嘆き涙を流し泣かれた。

 

 

同じ意味合いがヨハネが涙を流すということを通して語られているように思う。

7つの封印の向こうに隠されていることがらは、今の盲目のクリスチャン達がいうような、

輝かしい教会の未来ではなく、しかし、背教の教会、バビロン化した教会に対するすさまじい神の怒りの日である。事実はそうであるのに、しかし、盲目で、愚かな終末の神の民の誰一人として、それを悟らず、見ない。

そのことを暗示すべく、ヨハネの波の記事があるように理解できる。

 

 

かくのごとく、今でも黙示録は封印された書であり、今の背教の教会に対して、

封じられた書であることを理解すべきである。

封印を開く一つのひけつは、たとえの理解である。

主は、以下のように明らかにたとえの理解を強調されたからである。

 

 

"

マルコの福音書 4:13 そして彼らにこう言われた。「このたとえがわからないのですか。そんなことで、いったいどうしてたとえ(すべてのたとえ:KJV)の理解ができましょう。"

 

 

 

黙示録はたとえに満ちた書であり、たとえを追放し、霊的理解はいけないなどと語り、主の

いわれた教え、たとえを理解することを追い出した今の教会には、これらの7つの封印の一つも開かれておらず、相変わらず、盲目と、無知の中にいる。

 

 

 

 

 

2. 終末の日に救われる人の数は少ない:

 

 

 

ルカの福音書 17:26 人の子の日に起こることは、ちょうど、ノアの日に起こったことと同様です。

27 ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、食べたり、飲んだり、めとったり、とついだりしていたが、洪水が来て、すべての人を滅ぼしてしまいました。

28 また、ロトの時代にあったことと同様です。人々は食べたり、飲んだり、売ったり、買ったり、植えたり、建てたりしていたが、

29 ロトがソドムから出て行くと、その日に、火と硫黄が天から降って、すべての人を滅ぼしてしまいました。

30 人の子の現われる日にも、全くそのとおりです。

 

 

 

終末の日は、ノア、ロトの時と全く同じであると主はいわれた。

ノア、ロトの時の特徴とは多くの人が神への罪のためにさばかれ、命を失う、

しかし、ほんの少数の正しい人々が命を得るということ。

終末の日に多くのクリスチャンがその不法と背信のゆえに滅び、ほんの少しの

正しいクリスチャンが命を得る、と理解することが終末に関する正しい理解。

 

 

 

マタイの福音書 24:22 もし、その日数が少なくされなかったら、ひとりとして救われる者はないでしょう。しかし、選ばれた者のために、その日数は少なくされます。

 

_

 

 

3. 終末の日は、神御自身が、背教の神の民を裁くと定めた日であり、

冒涜の神の民への怒りがあらわされる日。

 

 

ルカの福音書 21:22 これは、書かれているすべてのことが成就する報復の日だからです。

23 その日、悲惨なのは身重の女と乳飲み子を持つ女です。この地に大きな苦難が臨み、この民に御怒りが臨むからです。

 

 

終末の日は、冒涜の神の民に神の怒りがあらわされる報復の日であり、

この民、新約の神の民に対して、神の怒りが臨む日である。

 

 

 

ヨハネの黙示録 2:22 見よ。わたしは、この女を病の床に投げ込もう。また、この女と姦淫を行なう者たちも、この女の行ないを離れて悔い改めなければ、大きな患難の中に投げ込もう。

 

 

 

神はテアテラの教会に対して、もし、悔い改めないなら大きな艱難に投げ込むことを警告している。

新約のクリスチャンでも当然、悔い改めないなら、厳しい艱難、裁きにあうのである。

 

 

 

ヨハネの黙示録 14:8 また、第二の、別の御使いが続いてやって来て、言った。「大バビロンは倒れた。倒れた。激しい御怒りを引き起こすその不品行のぶどう酒を、すべての国々の民に飲ませた者。」

9 また、第三の、別の御使いも、彼らに続いてやって来て、大声で言った。「もし、だれでも、獣とその像を拝み、自分の額か手かに刻印を受けるなら、

10 そのような者は、神の怒りの杯に混ぜ物なしに注がれた神の怒りのぶどう酒を飲む。また、聖なる御使いたちと小羊との前で、火と硫黄とで苦しめられる。

11 そして、彼らの苦しみの煙は、永遠にまでも立ち上る。獣とその像とを拝む者、まただれでも獣の名の刻印を受ける者は、昼も夜も休みを得ない。

12 神の戒めを守り、イエスに対する信仰を持ち続ける聖徒たちの忍耐はここにある。」

 

 

終末の日に2種類のクリスチャンがあり、「神の戒めを守り、イエスに対する信仰を持ち続ける聖徒たち」

は神から誉れを受け、大バビロン、また、「獣とその像を拝み、自分の額か手かに刻印を受ける」クリスチャンは、後に火と硫黄とで苦しめられる。

ここでも、正しく信仰に留まるクリスチャンは少数であり、逆に獣の印を受けるクリスチャンが多いことが想像できる。

 

 

 

 

4. 終末の預言の全ては、あたかもブラックボックスに入っているかのように、謎とたとえと、封印の中に閉じ込められており、それらを理解するのは困難。

 

 

 

ダニエル書 2:10 カルデヤ人たちは王の前に答えて言った。「この地上には、王の言われることを示すことのできる者はひとりもありません。どんな偉大な権力のある王でも、このようなことを呪法師や呪文師、あるいはカルデヤ人に尋ねたことはかつてありません。

11 王のお尋ねになることは、むずかしいことです。肉なる者とその住まいを共にされない神々以外には、それを王の前に示すことのできる者はいません。」

 

 

ネブカデネザル王の見た像の夢、終末にまで至る夢を理解できるバビロンの知者は

一人もいなかった。

同じように、終末の獣の国に関する謎は今でもおおいの下にある。

 

 

ダニエル書 12:9 彼は言った。「ダニエルよ。行け。このことばは、終わりの時まで、秘められ、封じられているからだ。

10 多くの者は、身を清め、白くし、こうして練られる。悪者どもは悪を行ない、ひとりも悟る者がいない。しかし、思慮深い人々は悟る。

 

 

終末の日の預言に関して、「悪者どもは悪を行ない、ひとりも悟る者がいない。」ことが書かれている。

これは、主イエスの初降臨の時、成就し、外側はきれいでも内側があらゆる罪や、どん欲で満ちている、

白く塗られた墓の様に偽善者であり、律法学者、パリサイ人、すなわち悪者どもは悪を行い、一人もこの方を聖書に預言されたメシヤであると悟らなかった。

聖書の預言が、悪者と正しい人を区分するために用いられたのである。

逆にそのため、正しいものと悪者との区分をもたらすために、

これらの預言は、謎とたとえの中にある、封印されているともいえる。

 

 

同じく終末の日もこれらの終末預言が用いられ、正しい人と悪者とを区分するために

用いられる可能性がある。

 

 

 

5.すでに黙示録の封印は開けている、全ての黙示録の謎は解読できたとの

誤解:

 

 

 

終末の日の神の民の一番大きな誤解はこの終末の書、黙示録の全ての謎、封印は開かれ、解読され、

正しく解釈されているとの誤解である。

事実は、現在の背教の神の民は盲目となり、また、その聖書学者の目も盲目であり、

彼らは黙示録の基本の基本さえ、理解していない。

 

 

イエスの初降臨の時の律法学者、パリサイ人達が、自分の聖書理解、メシヤ来臨の預言理解、解釈に

絶対の自信を持ち、なおかつ全く間違えて、真のメシヤ、キリストを正しく迎えることができず、

逆にその方を自らの手で殺してしまったように、今の聖書学者、牧師、クリスチャン達も

自分達の誤った終末理解、黙示録理解の下で、神のみこころと全く異なった

過ちを犯してしまう可能性が大いにあるのである。

_

 

 

6. たとえにより理解する黙示録(2)

 

 

 

黙示録はたとえを理解できなければ、解釈できない

黙示録の多くの記述はたとえによって、書かれているのだが、

たとえを追放し、霊的解釈などと非難する

今の時代の、間違えた聖書学者、教師、牧師には

黙示録の多くの謎が解けない。

 

主は聖書を文字どおり読むことなど、力説していないが、「たとえの理解」に

関して、強調しておられる。今の時代は、主のたとえに関することばを軽視し、

結果、終末のことばを何一つ理解できていない時代である。

 

 

1). 黙示録に書かれている大変な天変地異は、

それは、みな実際に文字どおり起こることというより、たとえにより、

成就する。

 

 

 

2). 未来に起こることをたとえで、表現するとは、聖書の原則であり、

主イエスの初降臨の預言も多くはたとえを通して成就した。

 

 

3). 主の再臨の預言、また終末に関する預言も同じく、たとえで

成就するのであるが、聖書を読めない、理解できない今の時代の

聖書学者は、このような終末預言理解の初歩の初歩、基本の基本さえ理解できない。

結果、彼らは黙示録解説と称して、冗談話か、空想話か、SFみたいな妄想教理を

繰り広げている。これらを読んでも真理に近付くどころか、むしろ遠ざかる。

 

 

4). 命に至る門は狭く、滅びに至る門は広いとのことばどおり、

現代は、終末預言の鍵となるたとえの理解を排除、異端視する時代である。

黙示録を「文字通り読み」わけのわからない、妄想話をつらねたレフトビハインド、ハルリンゼイ、

高木慶太らの、インチキ終末本が、広い滅びの道を用意する時代である。

 

 

 

7麦、パンに関するたとえ

 

 

1). パンとは、みことばに関するたとえである。

以下のことばから、そのたとえの定義が理解できる。

 

 

マタイの福音書 4:4 イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」

 

 

 

また、以下の種まきのたとえの種は、すなわち、みことばをさすと

定義してある。

 

 

マタイ13:18 ですから、種蒔きのたとえを聞きなさい。

19 御国のことばを聞いても悟らないと、悪い者が来て、その人の心に蒔かれたものを奪って行きます。道ばたに蒔かれるとは、このような人のことです。

 

 

パンは麦からできるが、その麦の種はすなわち、みことばなのである。

かくのごとく、聖書は、パンは、みことばのたとえであることを語る。

 

 

2). パン種とは:

パンが神のみことばをさすことがわかると、以下のパン種の意味合いがわかる。

 

 

マタイの福音書 16:6 イエスは彼らに言われた。「パリサイ人やサドカイ人たちのパン種には注意して気をつけなさい。」

 

 

 

このパン種とは、ぶどうパンとか、クリームパンなどのことではなく、

そうではなく、神のみことばにかかわる教理や教えをさすことが以下の記述からわかる。

 

 

 

マタイの福音書 16:11 わたしの言ったのは、パンのことなどではないことが、どうしてあなたがたには、わからないのですか。ただ、パリサイ人やサドカイ人たちのパン種に気をつけることです。」

マタイの福音書 16:12 彼らはようやく、イエスが気をつけよと言われたのは、パン種のことではなくて、パリサイ人やサドカイ人たちの教えのことであることを悟った。

 

 

旧約聖書で、パンにパン種を入れないことが、勧められているその理由は、

パン種、すなわち、パリサイ人やサドカイ人たちなどのおかしな教えなしに

純粋にみことばを受けることを奨励して、たとえられていることがわかる。

 

 

出エジプト記 12:15 あなたがたは七日間種を入れないパンを食べなければならない。その第一日目に、あなたがたの家から確かにパン種を取り除かなければならない。第一日から第七日までの間に種を入れたパンを食べる者は、だれでもイスラエルから断ち切られるからである。

 

 

 

3) パンが神のことば、パン種がおかしな教えをさすことがわかると、

以下の三サトンの粉にパン種を入れる女のたとえも理解できる。

 

 

マタイの福音書 13:33 イエスは、また別のたとえを話された。「天の御国は、パン種のようなものです。女が、パン種を取って、三サトンの粉の中に入れると、全体がふくらんで来ます。」

 

 

この箇所がいわんとしていることは、天の御国、すなわち、天、神により、支配され、統治されているはずの教会の変質に関する事柄である。

 

 

女は教会のたとえである。本来、神の命令は、パン、神のことばにパン種、

おかしな教えを混ぜず入れないこと。

しかるに女、教会はそれを守らず、逆に、パン種、おかしな教えを入れた。

その結果どうなったかというと、「全体がふくらんで」大きくなる。

今の教会はまさにその全体がふくらんで大きくなった教会である。

あらゆるパン種、おかしな教えが解禁になったため、教会へ来る人も増え、あらゆる、種類の人が教会へ来ている。

 

 

キリストは復活していないというパン種が入っので、科学的すぎて、もしくは、

不信仰過ぎて、キリストの復活を信じない人まで、教会に来ているし、

マリヤの像を拝んでも良いというパン種、おかしな教えが入ったので、偶像崇拝者も

安心して教会に参加できるようになった。

 

 

しかし、このようなことが神によって許されるはずもなく、このパン種に

よってふくれあがった教会を待つ運命は神の厳しいさばきである。

 

 

 

4). パンのもとである麦がみことばと関係することがわかると以下の

麦、毒麦のたとえが理解できる:

 

 

 

マタイ13:24 イエスは、また別のたとえを彼らに示して言われた。「天の御国は、こういう人にたとえることができます。ある人が自分の畑に良い種を蒔いた。

25 ところが、人々の眠っている間に、彼の敵が来て麦の中に毒麦を蒔いて行った。

26 麦が芽生え、やがて実ったとき、毒麦も現われた。

27 それで、その家の主人のしもべたちが来て言った。『ご主人。畑には良い麦を蒔かれたのではありませんか。どうして毒麦が出たのでしょう。』

28 主人は言った。『敵のやったことです。』すると、しもべたちは言った。『では、私たちが行ってそれを抜き集めましょうか。』

29 だが、主人は言った。『いやいや。毒麦を抜き集めるうちに、麦もいっしょに抜き取るかもしれない。

30 だから、収穫まで、両方とも育つままにしておきなさい。収穫の時期になったら、私は刈る人たちに、まず、毒麦を集め、焼くために束にしなさい。麦のほうは、集めて私の倉に納めなさい、と言いましょう。』」

 

 

 

この箇所がいわんとしていることは、麦、神のみことばに関連して、麦、毒麦という

2種類の麦、クリスチャンが育つということである。

ある人々は神のみことばを忠実に行い、後の日、収穫の日、倉に入る、天の御国に入る。

しかし、敵のまいた毒麦、おかしな教え、教理を真に受け、惑わされたクリスチャンは、

毒麦として終わりの日に火で焼かれる、そのことをさすのである。

 

 

 

5). 黙示録の麦に関するたとえ:

 

 

さて、麦がみことばに関するたとえであることが、わかると

以下の黙示録のたとえが理解できる。

 

 

 

ヨハネの黙示録 6:6 すると私は、一つの声のようなものが、四つの生き物の間で、こう言うのを聞いた。「小麦一枡は一デナリ。大麦三枡も一デナリ。オリーブ油とぶどう酒に害を与えてはいけない。」

 

 

小麦一枡が、一デナリ、1万円とは、大変な小麦の暴騰であるが、

小麦をみことばと理解すれば、みことばのききん、主のみことばを聞くことのききんが

終末に起きる、おかしな教えばかりで、正しいみことばが、解きあかされることは

入手しずらいと理解できる。

 

 

8.聖霊に関するたとえ:

 

 

1).聖霊に関するたとえは以下の聖霊降臨、ペンテコステの日の記述の中に多く記載されている。

 

 

使徒2:1 五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。

2 すると突然、天から、激しい風が吹いてくるような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。

 

3 また、炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった。

 

4 すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。

 

 

使徒2:13 しかし、ほかに「彼らは甘いぶどう酒に酔っているのだ。」と言ってあざける者たちもいた。

 

 

 

上記記述中の「風」「炎」「ぶどう酒」などは、みな、聖霊、霊をさすたとえである。

 

 

 

2). 新しいぶどう酒と新しい革袋のたとえ

 

 

このことがわかると、以下のぶどう酒に関するたとえが理解できる。

 

 

マタイ9:17 また、人は新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、皮袋は裂けて、ぶどう酒が流れ出てしまい、皮袋もだめになってしまいます。新しいぶどう酒を新しい皮袋に入れれば、両方とも保ちます。」

 

 

ぶどう酒は、霊に関することであり、新しいぶどう酒とはペンテコステの日に下った新しい霊、聖霊のことである。そして、ぶどう酒を入れる、革袋とは、すなわち、

その霊を受ける、集まり、集会、教会のことである。

 

 

新しいぶどう酒、聖霊には、新しい革袋、新しい集まり、教会が、ふさわしい、

逆に新しいぶどう酒、聖霊の働きを古い革袋、ユダヤ教の会堂で、注ごうと思っても、

そこには、分裂と対立が起きる、それがこの話の主旨である。

 

 

 

3). 黙示録に書かれたぶどうに関するたとえ:

 

 

さて、ぶどうが聖霊に関するたとえであることがわかると、

以下の黙示録の記述も理解できる。

 

 

 

黙示録14:17 また、もうひとりの御使いが、天の聖所から出て来たが、この御使いも、鋭いかまを持っていた。

18 すると、火を支配する権威を持ったもうひとりの御使いが、祭壇から出て来て、鋭いかまを持つ御使いに大声で叫んで言った。「その鋭いかまを入れ、地のぶどうのふさを刈り集めよ。ぶどうはすでに熟しているのだから。」

19 そこで御使いは地にかまを入れ、地のぶどうを刈り集めて、神の激しい怒りの大きな酒ぶねに投げ入れた。

20 その酒ぶねは都の外で踏まれたが、血は、その酒ぶねから流れ出て、馬のくつわに届くほどになり、千六百スタディオンに広がった。

 

 

「地のぶどうを刈り集めて、神の激しい怒りの大きな酒ぶねに投げ入れた。」とは、

明らかに神の裁きをあらわす。

 

 

上記は御霊を受けながら、しかも聖霊に従わず、不従順であったクリスチャンへの

裁きの記述であることがわかる。

 

 

神のみことばに不従順であったクリスチャンが毒麦として、終末の日に裁かれるように、

同じく御霊に従わず、聖霊に逆らった歩みをしているクリスチャンへの裁きが上記のぶどうへの裁きである。

 

 

 

4). ぶどう酒の杯を持つ淫婦バビロンへのさばきのたとえ

 

 

黙示録14:8 また、第二の、別の御使いが続いてやって来て、言った。「大バビロンは倒れた。倒れた。激しい御怒りを引き起こすその不品行のぶどう酒を、すべての国々の民に飲ませた者。」

9 また、第三の、別の御使いも、彼らに続いてやって来て、大声で言った。「もし、だれでも、獣とその像を拝み、自分の額か手かに刻印を受けるなら、

10 そのような者は、神の怒りの杯に混ぜ物なしに注がれた神の怒りのぶどう酒を飲む。また、聖なる御使いたちと小羊との前で、火と硫黄とで苦しめられる。

11 そして、彼らの苦しみの煙は、永遠にまでも立ち上る。獣とその像とを拝む者、まただれでも獣の名の刻印を受ける者は、昼も夜も休みを得ない。

 

 

 

ぶどう酒を飲む、ということから、この女が教会と関係があり、聖餐式と関係ある存在であることがわかる。この女は、聖霊、ぶどう酒に逆らい、背教するゆえ、

神の怒りのぶどう酒、悪霊を飲むことになる。

 

 

5). 風に関する聖霊のたとえ:

 

 

上記使徒の働きの中で、聖霊の働きが、風にたとえられていることがわかる。

 

 

 

使徒2:

2 すると突然、天から、激しい「風」が吹いてくるような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。

 

 

聖霊は風にたとえられる。

 

 

以下の箇所でも御霊は風にたとえられている。

 

 

ヨハネの福音書 3:8 風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」

 

 

6). 黙示録の風に関するたとえ:

 

これらが理解できると以下の黙示録の風に関するたとえも

理解できる。

 

 

 

黙示録7:1 この後、私は見た。四人の御使いが地の四隅に立って、地の四方の「風」を堅く押え、地にも海にもどんな木にも、吹きつけないようにしていた。

 

 

御使いが吹き付けないようにしている風とは、すなわち、

聖霊の働きなのである。黙示録の時代、背教の時代の大きな問題は、

教会にもう聖霊が働かない、逆に悪霊の働きがある、そのような

問題である。

 

 

7). 水にたとえられる聖霊:

 

 

聖霊はまた、水にたとえられる。以下の通りである。

 

 

ヨハネの福音書 3:5 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。

 

ヨハネの福音書 7:38 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」

39 これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。

 

 

 

使徒の働き 1:5 ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」

 

 

8). 黙示録の中で、水にたとえられる聖霊:

 

 

上記のように聖霊が水にたとえられることがわかると以下の

黙示録の記述も理解できる。

 

 

ヨハネの黙示録 16:12 第六の御使いが鉢を大ユーフラテス川にぶちまけた。すると、水は、日の出るほうから来る王たちに道を備えるために、かれてしまった。

 

 

ユーフラテス川は旧約のイスラエルの境界線。それは、新約のイスラエル、クリスチャンの境界線でもあり、それは、未信者とクリスチャンの区別をなす、聖霊の流れをさす。

そして、そのユーフラテス、聖霊の働きが終末の日に枯渇することを上記箇所は語る。

 

 

 

ヨハネの黙示録 16:3 第二の御使いが鉢を海にぶちまけた。すると、海は死者の血のような血になった。海の中のいのちのあるものは、みな死んだ。

4 第三の御使いが鉢を川と水の源とにぶちまけた。すると、それらは血になった。

 

 

 

上記箇所の水が血に変わるとは純粋な聖霊の働きが血、悪霊のものにかわるとの

意味合いであることがわかる。

 

 

 

-以上ー