弟子の歩み

弟子の歩みの集会案内


レムナントキリスト教会では、日曜日の礼拝の集まりとは別に、毎週土曜日の午後に(弟子の歩み)という集会を持ち、主イエスの弟子としての建ち上げの学びを行っています。主の弟子を目指す方、献身の道を歩まれる方におすすめしています。

 

  1. パンを分ける(メッセンジャーとしての訓練)
  2. 霊的な対応(主イエスに受け入れられる歩み)
  3. 御霊の賜物を求める訓練(預言の訓練、等)
  4. たとえ を理解する(天国の奥義を知る)「聖書の理解を深める」
  5. 祈り「祈りは聖霊との交わり、聖霊によって生きたものとされる必須の事柄」
  6. 聖書の読み込み(通読)「何度も何度も弟子が聖書を読む事」=神の前に受け入れられる捧げものが(反芻する聖い動物でなければならない)」と、聖書はたとえで示しています。 

 

上記の事柄を(弟子の歩み)の集まりで学んでいます。

イエス・キリストは3年半の公生涯の中で、宣教活動と共に、ペテロやヨハネをはじめ、弟子を育てるための訓練を行っていました。

 

クリスチャンといっても、その歩みは2つに分類されることが聖書の至る箇所で、明らかにされています。

弟子としての歩みか群集としての歩みかのいずれかです。

 

主はかつてペテロに言われました。

 

「あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。」マタイ16:18

 

教会は弟子として歩む人でたてあげられるということを、主は言われているのです。弟子として歩んでいく人に御心があり、主の働きを担っていくことが理解出来ます。主に従っていくのなら、キリスト御自身がお一人一人の歩みを導き、土台を築いて下さいます。

 

せっかく、クリスチャンとして歩むのなら、弟子として歩まれることをおすすめします。ぜひ、共に、学び、訓練し、主に用いられる弟子にたてあげられ、多くの実を結んでいきましょう。

 

 

 

※見学、聴講をご希望の方は、事前に、メールかお電話でご連絡くださるよう、お願い申し上げます。

 

弟子の歩みを通して受けた恵みや教え


証(D2)

 

弟子の歩みをしてからの恵みを以下に書きます。

 

1.人を生かすのは霊であり、生まれつきの能力によるのではないことを知った。富や名声、健康でもないことを知った。

 

2.真のカウンセラーは父なる神であり、この方にすべての知恵がある。この世はいずれ過ぎ去る。そんな風に価値観が変わってきた。天の御国を損じたら、取り返しがつかない。

 

3.祈りの大切さを知るようになった。祈っていく中で、教会の働きがポイントをつくようになった。教会の奉仕やメッセージは祈りが基本だと知った。聖書にも書かれているように、血肉の戦いではなく、霊的な戦いである。

 

4.1ヶ月に1回のペースで15分間のメッセージの訓練がある。わずか15分だが、祈って求めていくうちに霊的な目が開かれて、語る力が神から与えられる。

 

5.聖書の記述の多くはたとえによって書かれている。たとえを知ることによって、神からのメッセージが深く理解できるようになった。また、聖書を通読することによって、自分自身が霊的に強められるようになった。

 

6.弟子の歩みをすることは艱難時代の備えとなる。

 

7.主に仕えていこうとする兄弟姉妹が与えられた。

 

 

 

 

証(D3)

 

キリストの弟子として歩み出してから、早4年の歳月が流れました。その間、量り知ることの出来ない、また人知を遥かに超越した主の恵みや祝福を受けるようになりました。生活面の守りが与えられるということもそうですが、特に霊的な面に関しての主からの守りや助けということを痛切に感じることがとても多くなりました。その中で私にとって、もっとも大きなことは、「霊的な圧迫」から少しずつ解放されていったことでした。客観的に見てもそうですが、私の生まれつきの性質から考えてみても、今でも自分自身がキリストの弟子として歩んでいることすら正直、奇跡のようです。

 

ちなみに弟子の歩みの中心の働きは「祈り」と、それから御言葉に関連して「メッセージ」や「証」や「預言」です。もちろんそれだけではありませんが、使徒の働きの中で十二弟子が、「私たちはもっぱら祈りとみことばの奉仕に励むことにします」言われているように、メインはどちらかと言えば、話すことです。ところが私の生まれつきの性質と言えば、話すことがとても「苦手」なタイプです。それこそ家族とか慣れ親しんだ人とかとは話せますが、人見知りが強いほうなので初対面の人や数回しか会ったことのない人と話すのは、かなり苦手です。まして人の前でお祈りをしたり預言をしたり証やメッセージを語ることは、クリスチャンとは言っても、とても抵抗があり、自分とはおおよそ縁が無いと思っていました。

 

ところが弟子の歩みをし始めてから気がついたことですが、どれもこれもが自分の苦手とするものばかりだということでした。だからと言って、こういったことを避けるわけにはいかないので、「神さま、どうしたらいいでしょうか?」と、祈っていました。それからほどなくして、土曜日の弟子訓練の集会のおすすめのときに、エレミヤ牧師が、「割礼」について話をされていました。聖書で言っている「割礼」とは「肉を切り離す」こと、すなわち「良い部分も悪い部分も含めて、生まれつきのすべての性質が神さまの力によって変えられていく」ことを意味します。そのポイントとして、「祈り」について話をされていました。祈らないと聖霊の力が働かれないということも教えてくださり、ゆえに「割礼」を受けるためにも「祈り」が必須であるということについて理解しました。

 

しかし、そうは言ってもはじめの頃は、「本当にそんなことで自分自身が変えられるのだろうか?」と、若干不信仰な思いが無くもありませんでした。でも、「半信半疑は良くない!聖書に書かれていることなのだから実践してみよう。すぐに変えられないかも知れない。けれど、いつかイエスさまが変えてくださることを信じよう!」と決意して、その日から、「霊的な圧迫から解放されますように、守られますように」というお祈りをするようになりました。そして今でも、毎日このようなお祈りを続けています。

 

人前でお祈りをしたり証をしたりするときに、「圧迫感」というものが私には常につきまとうことについて、大分以前からそのことには気づいていました。敵もそのことを知ったかのように、私の思索に積極的に働きかけてきます。しかし、それを打ち壊すのは、「祈りのみ!」ということを信じて、ひたすら祈るようにしました。すると、一年、二年、三年と、時を経るにしたがって、徐々にではありますが、「霊的な圧迫」から解放されていくことを実感するようになりました。もちろん今でも完全ではありませんし、弱い部分なのでこれから先もずっと神さまにより頼んでいこうと思っています。が、しかし、以前に比べて、人前でお祈りをしたり預言をしたり証をしたりするときに圧迫が無くなり、聖霊さまの力に委ねて、こういったことをさせていただけるようになりました。

 

もし4年前に、エレミヤ牧師を通して主からの弟子として歩むことの声がけに応答しなかったら、今も敵のもたらす「圧迫」の中にいたと思います。いいえ、それだけでなく闇の中を歩んでいたと思います。たとえ毎週レムナントキリスト教会に行って礼拝をしていたとしても、はたまたメッセージを通して真理を多少なりとも見ることができたとしても、群衆の歩みにとどまり続けるなら、結局は「闇」から抜け出すことはできなかったと思います。このことは、実際に自分自身が弟子の歩みをしてみて、分かったことです。

 

余談ではありますが、黙示録には「10本の角」についての記述があって、それによると、これからアメリカが核戦争か何かで、一旦は破壊されることについて書かれてあります。さらにそのことに続いて、「致命的な傷も直ってしまった」と書かれていて、その後は10の国に分割されて全世界を支配することが御言葉や現実起きていることを通してそんな方向へいくことが、レムナントキリスト教会に示されています。そのことが本当に起こったら、あっという間に艱難時代に入っていくと思いますが、その日に備えて弟子としての歩みを益々強めていきたい!と、そのように思っています。主の憐れみによって声をかけていただき、主の助けや守りや支えの中で、日々弟子として歩ませていただいていることに心から感謝して証とさせていただきます。

 

 

 

 

 

証(D1) 

 

 

弟子の歩みに入った後に、自分に関する主によって変えられた事柄。 

 

 

レムナント教会で毎週行われている、(弟子の歩みの集会)これは、嘗て主に固く結びつき、主イエスに最後まで固く付き従った主の弟子達の様に、私たちも何時でも主イエス・キリストに従い通す主の弟子たるべく歩む者としての学びの集会です。

 

主イエスは、多くの群衆にメッセージをなさいました、が、それは全て(たとえ)でなされた。と聖書に書かれています。しかし、常に主イエスの御そば近くに居た弟子達には、そのメッセージの(たとえの解釈)をなさい御言葉の真理を解き明かされました。マタイの福音書13章にそのことが載っています。

 

 10節: すると、弟子たちが近寄って来て、イエスに言った。「なぜ、彼らにたとえでお話になったのですか。」11節:イエスは答えて言われた。「あなたがたには、天の御国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていません。

 

この事から解る事は、神なる主イエスは、誰も彼にも聖書の真理を知らせようとは思っておられないという事です。群衆と言われる人達と、弟子と呼ばれる人達との区別があるようです。13節で、わたしが彼らにたとえで話すのは、彼らはみてはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、また、悟ることもしないからです。と語っています。

 

(悟る)という言葉に関して、ヨブ記のなかではっきりと記されています。 ヨブ記28章28節:こうして、神は人に仰せられた。「見よ。主を恐れること、これが知恵である。悪から離れることは悟りである。」 悪から離れることもしない人つまり聞いても悟る事もしないという人は、主の真理の言葉をその根底から決して理解し受け入れることが出来ないのでしょう。

 

そもそも真理と接点の無い対局にある悪から離れようとしない心の状態なのですから、その人の心の中が従来のものでいっぱいでありそれを捨てようとしなければ、新たなものが入って行く余地が出来ないのでしょう。

 

このヨブ記の聖句は重要です、知恵と悟りはセットで語られています。神が人の総べてを知り給い、人が為すそのすべての行いに対して報いをなさる方であることを我々が知る時、神を恐れる心(知恵)と(悟りを得る)悪を離れる事が当然のごとく自然に為される事柄であると語りかけているように私には捉えられます。

 

嘗て主は、本当に神と巡り合いたいと心から願っている者に目をとめ、その者に声を掛け弟子となさいました。主から声を掛けられた弟子達は、すべてを投げ捨てて直ちに主イエスに従って行ったという記述があります。

 

第一ヨハネ4章6節:私たちは神から出た者です。神を知っている者は、私たちの言うことに耳を傾け、神から出ていない者は、私たちの言うことに耳を貸しません。私たちはこれで真理の霊と偽りの霊とを見分けます。 

 

この御言葉から、それぞれの弟子たちが、目の前に来られた方が、自分が彼の霊と同じ霊を持つ者である事を瞬時に理解したのではないのかということがうかがわれます。主に声を掛けられた弟子達は常日頃彼ら自身が自分が一体となるべき帰趨すべき本体である安らぎの霊(真理)を慕い求め続けていたのかも知れません。そして、どうやら神なる主イエス(真理の御霊なる方)も彼を切に求めるその様な者を弟子として求め、さらにご自分と同じ性質に預かる者として、天の奥義を知らせたいようです。

 

今でも主は真にご自分に対して知るを得たいと願い求めている者に与えたいと望まれているのかも知れません。聖書の中で、具体的に説明して記されてはいませんが、その様な者たちに共通するもう一つの特徴は、上記悟りに関する御言葉に書かれているように、神に対する恐れを持つ者であると語っているように私には思はれます。

 

及ばずながら私のようなものでもレムナント教会の、(弟子の歩みの学びの集会)に参加するようになって、少しずつではありますが、歩みも変えられ、聖書の御言葉の意味も少しずつ解るようになってきました。

 

まだまだ理解出来ていない御言葉の真理も沢山ありますが、これからも主イエス・キリストに受け入れられる歩みを続け、主の導きにより、学びをなしていきたいと思っています。御言葉を知るようになれば成る程、主イエス・キリストに対する確信も強くなってきましたし、それに伴い信仰も培われています。益々、主の弟子として主の御前に固く付き従う歩みをなす為にも、弟子の歩みの学びをこれからも続けていきます。