聖書箇所 Ⅰコリント人への手紙5:4,5

 

5:4 あなたがたが集まったときに、私も、霊においてともにおり、私たちの主イエスの権能をもって、

5:5 このような者をサタンに引き渡したのです。それは彼の肉が滅ぼされるためですが、それによって彼の霊が主の日に救われるためです。

 

本日も御言葉に沿って、学んでいきたいと思います。

 

ここで、パウロはコリントの教会の人々に対して、「主イエスの権能をもって、このような者をサタンに引き渡した」と言っています。

何を言っているのかというと、この章の1節から読んでいただけると分かるのですが、コリントの教会内に不品行があり、それにもかかわらず、そのことに対して悔い改めようともせずに、かえって誇り高ぶり、嘆きや悲しみをもって取り除いたりしなかったので、そういう行いをしている人たちを、パウロはイエス・キリストの権能によって、サタンに引き渡したことを言っているのです。

3節には「私のほうでは、からだはそこにいなくても心はそこにおり、現にそこにいるのと同じように、そのような行ないをした者を主イエスの御名によってすでにさばきました」とありますように、パウロは物理的には、コリントの教会の人たちといたわけではありませんでした。

それにもかかわらず、そういったことが教会内にあることが、彼には見えていたのです。

不思議に思いませんか?パウロがそこにいるのなら、ともかく、いなかったのですから。

こういったことに関して何を言われているか、考えてみたいと思います。

「イエス・キリストの権能によって」の言葉に語りかけを感じます。

パウロのように、主のしもべとして仕えている人には、こういった権威が与えられるのです。

たとえ、その人たちといなくても、そういったことを見抜いてしまうのです。

以前も話したかも知れませんが、たとえば、使徒の働きで、アナニヤとサッピラのことが挙げられます。

 

参照 使徒5:1-11

5:1 ところが、アナニヤという人は、妻のサッピラとともにその持ち物を売り、

5:2 妻も承知のうえで、その代金の一部を残しておき、ある部分を持って来て、使徒たちの足もとに置いた。

5:3 そこで、ペテロがこう言った。「アナニヤ。どうしてあなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、地所の代金の一部を自分のために残しておいたのか。

5:4 それはもともとあなたのものであり、売ってからもあなたの自由になったのではないか。なぜこのようなことをたくらんだのか。あなたは人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」

5:5 アナニヤはこのことばを聞くと、倒れて息が絶えた。そして、これを聞いたすべての人に、非常な恐れが生じた。

5:6 青年たちは立って、彼を包み、運び出して葬った。

5:7 三時間ほどたって、彼の妻はこの出来事を知らずに入って来た。

5:8 ペテロは彼女にこう言った。「あなたがたは地所をこの値段で売ったのですか。私に言いなさい。」彼女は「はい。その値段です」と言った。

5:9 そこで、ペテロは彼女に言った。「どうしてあなたがたは心を合わせて、主の御霊を試みたのですか。見なさい、あなたの夫を葬った者たちが、戸口に来ていて、あなたをも運び出します。」

5:10 すると彼女は、たちまちペテロの足もとに倒れ、息が絶えた。入って来た青年たちは、彼女が死んだのを見て、運び出し、夫のそばに葬った。

5:11 そして、教会全体と、このことを聞いたすべての人たちとに、非常な恐れが生じた。

 

上記御言葉にありますように、ペテロは彼らの嘘を見破りました。

かつて、イエス様から「天の御国の鍵を上げます」と言われたペテロですが、要は、キリストの御名による権威を与えられたのです。

地上における権限ならともかく、神の権威なのです。

すごいことだと思いませんか?

ある意味、ペテロ、すなわち、弟子の歩みをしている人を通して、その人が、正しく歩みができるか否か、極端な言い方をすると、天の御国に入れるかどうか、そういう分かれ道になってしまうのです。

ですから、神から来た霊を侮ってはいけないのです。

人の前には、不品行や地所の代金をごまかすことはいくらでもできます。

しかし、神様の前には、一切、ごまかしはきかないのです。

神様はすべてのことをお見通しです。

はたまた、主御自身は、しもべとして忠実に歩んでいる人を通して、これらのことを指摘なさる方なのです。

そのことは、よくよく覚えておかれると良いと思います。

また、5節に書かれているように、パウロを通して、悪い行いをしていた人々がサタンに引き渡されてしまったのです。

今の時代「主イエスの権能」なんて、教会内においても、クリスチャンの間でも聞きなれない言葉かも知れませんが、ペテロやパウロの時代だけでなく、主の弟子の歩みをしている人が行使された場合に、今のクリスチャンの上に成就するという点についても、正しくとらえておいていただけたらと思います。

ですから、私たちは、くれぐれも御言葉を恐れて歩んでいかなければいけません。

そうでないと、あまりにも心を頑なにして、悔い改めるべきことを改めていかないなら、コリントの人々のように、最悪、サタンに引き渡されてしまうからです。

そして、サタンに引き渡されたままだと、最後は、滅んでしまうので、気をつけていきたいと思います。

「彼の肉が滅ぼされるためですが、それによって彼の霊が主の日に救われるためです」と、ありますように、罪を示されたときには、そのことを素直に認めて、悔い改めていくように心がけていきたいと思います。

きちんと悔い改めていくなら、神様は赦してくださり、まっすぐな道へと歩ませてくださいますので、ぜひ、実践していきたいと思います。

「神様は愛のお方」であることが、やたらと歌い文句になっているキリスト教界ではありますが、愛のゆえに正義と公正をもってさばく方であるということを念頭において、この時代の歩みや働きを成していきたいと思います。

 

ある方が以前礼拝に来ていました。

しかし、突然、来られなくなりました。

もちろんクリスチャンの方なのですが、しかし、心から神様に仕えていこうという意志はあまり感じられませんでした。

ただ、そうではあっても、その方が神様の前に正しい関係を築いていかれるといいなぁと思って、しばらくの間祈っていました。

でも、結局のところ、その方のほうから来られなくなりました。

それからしばらくして、土曜日の集会の時にその方が来られました。

そして、日曜日の礼拝に出席したいとおっしゃっていました。

ただ、先ほども申し上げましたように、以前、来られていた間、主に仕えていこうという意志が感じられませんでしたので、そして、来られなくなった方でしたので、その日の夜、お祈りをしました。

「神様、もし御心でしたら、その方が明日の礼拝に出席できますように。そして、御心でしたら、神様の前に正しく歩んでいくことができますように」と。

神様の御心が成されますようにと、そのような思いで祈ったのですが、その日、その方は、来られませんでした。

人間的な目でみると、たかが、礼拝に行く、行かないということに過ぎないのですが、そういったことも、すべて神様の御手にあるのだなぁということを感じさせられた出来事でした。

また、主の赦しが無ければ、礼拝を捧げることも、出来ないのだなぁと。

メッセージでも申し上げましたが、主は人の心の奥底まで御存知です。

本当に神様に従っていくかどうか?本心は?と、そんなことを問われているのではないかなぁということを本日の箇所から学ばせていただき、改めて、主を恐れて、歩みや働きを担っていかなければいけないなぁと思いました。

本日も主が大切なことを語ってくださり、感謝でした。

主に栄光を帰します。