聖書箇所 Ⅰコリント人への手紙7:17

 

7:17 ただ、おのおのが、主からいただいた分に応じ、また神がおのおのをお召しになったときのままの状態で歩むべきです。私は、すべての教会で、このように指導しています。

 

本日も御言葉に沿って、みていきたいと思います。

 

ここで、「お召しになったときの・・・」と、「召し」という言葉が使われています。

主から声をかけられること、それを「召し」とか「召命」と呼んでいます。

この世では、ほとんど、使われない言葉ですね。

キリスト教会で使われる独特の用語なのでは?と、私個人としては、そんな風に認識しています。

 

いきなり、私事で恐縮なのですが・・・

私自身、今から、約3年前に、主からの声がけを受けました。

その前から、何とか、主にお仕えできたらと思い、祈っていました。

ですので、主が祈りに答えてくださったと言えば、それまでなのですが・・・

ただ、正直、今までも何度か証をさせていただきましたように、召しにふさわしい環境かと言えば、そうではありませんでした。

どちらかと言えば、不利な状況、しかも、人間的な目だけで見るなら、何か、ちぐはぐな、そんな感じでした。

もちろん、今でも、見えるところにおいては、状況は以前のままなのですが、不思議なことに、主の声に応答していく中で、必要な助けや守りや導きは、日ごとに増し加えられています。

そうなんです、主の声に応じれば、応じるほど、それにふさわしい、歩みや働きを成せるようになっていっているのです。

召しに応答する前の私の考えと言えば、家族、親族、友人をはじめ、周囲の人たちが救われて、それから、神様の働きを担うのだと、そんな風に思っていたのですが、でも、本日の御言葉にも書かれていますように、「おのおのお召しになったときのままの状態で歩むべき」だということを、自分の体験を通して、教えられました。

 

たとえば、こんな人がいるかも知れません。

学生だから、勉強が忙しくて、それどころではない、あるいは、会社員だから、献身の歩みなんて引退してからでないと、とてもできないなど。

また、このような人もいるかも知れません。

家族に反対されているから、教会に行くどころか、信仰を持つことすらも無理と。

他にも、色々と言い出したらキリがありませんが。

でも、どうでしょうか?

イエス様は、何か、私たちの状況が変わらないと、信仰を持ったり、主に仕えたりすることが出来ないと言われているでしょうか。

たとえば、「救い」に関して・・・主イエス・キリストを信じて心に受け入れれば無条件に救われるように、主に仕えていくことに関しても、条件は何ひとつ無いのです。

もし、信仰を持ちたい、献身の歩みをしたい、でも、今ひとつ、踏み切れないと思われているとしましたら・・・

私たちのほうで、「こうでないと仕えられない」とか、「もう少し、家族の理解を得られれば・・・」と、勝手に言い訳をしているだけに過ぎないのではないでしょうか。

もちろん、信仰を持つかどうかもそうですし、献身の歩みに関しても、「強制」というのは何ひとつありません。

御言葉にも「ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます」とありますように、私たちが自らの意志で、あるいは、率先して、信仰を持ったり、神様にお仕えしていくことを、主は望んでおられるのです。

そのように、主御自身は、私たちの思いや考えを尊重してくださる方ですので、そういった選択もすべてお一人一人に託しておられるお方なのです。

でも、主の声に応じるかどうか?それによって、受ける恵みや祝福、はたまた、死後の行き先が大きく左右されてしまうという点については、はっきりと申し上げておきますね。

そんな、両極端な!単なる脅しじゃない?!と、言われるかも知れませんが、そうではありません。

御言葉に、「御子を信じる者はさばかれない。信じない者はすでにさばかれている」と書かれています。

また、さきほど、「救い」は、信じる人に、無条件に与えられていることを言いましたが、救われたからといって、自動的に「天の御国」を受け継ぐかというと、それは、また、別のことであることを、どうか御理解ください。

以前、私も、そのあたりのことが、かなり曖昧だったのですが、しかし、今、主の弟子として歩み、わずかでも働きを担うようになってから、そうではないということが、少しずつ明確になっていくようになりました。

と、言うのは、福音書を読んでいただけると分かるのですが、イエス様は、「弟子」と「群集」とで、完全に区分されていました。

昨今、「神は愛」ということが、キリスト教界では、やたらと強調されているので、そのような「差別」を神様がするということに関して受け入れがたいことかも知れませんが、このことは、現実、聖書に書かれている事柄です。

そう、イエス様は、「弟子」のことは、特別に扱われました。

たとえの意味合いや御国の奥義を教えてくださったり、御言葉の奥義を理解する力を与えてくださったりしました。

なぜか?それは、弟子たちは、主に、いつもくっついていたからです。

はたまた、主の御心をきちんと、とらえて、そのことを実践されていたからです。

反対に、メッセージは聞くんだけれども、そのあとは、イエス様から離れてしまったり、いつ、心変わりをするような群集に対して、そのような対応はされませんでした。

また、弟子たちには、「あなたがたのために場所(天の御国における)を備えに行く」とも、おっしゃっていました。

このことは、イエス様が十字架にかかる前、最後の晩餐に12弟子だけを集めて言われた言葉です。

色々と回りくどい言い方になりましたが、主の召しに応じて歩んでいくなら、このような特権が与えられるのです。

本日の「お召しになった・・・」の御言葉の中には、そんな隠された意味合いもあるのではないかと思います。

ペテロやヨハネやヤコブが主から声を掛けられたときに・・・その時、3人とも、漁師だったのですが、すぐに網を捨てて、イエス様に従っていったように、私たちも、御声に、応答していきたいと思います。

どんな立場であっても、どのような状況に置かれていたとしても、もし、主の弟子としての歩み、すなわち献身の歩みを選択していくときに、人知を超えた助けや力や導きの中で、12弟子たちのような、歩みや働きに入っていくようになれます。

そして、このことをきちんと全うしていくのなら、その延長線には、「天の御国」が約束されているのです。

ぜひ、こういった点についても、見ておいていただけたらと思います。