聖書箇所 Ⅰコリント人への手紙8:3

 

8:3 しかし、人が神を愛するなら、その人は神に知られているのです。

 

「神を愛する」というテーマで、御言葉に沿って、みていきたいと思います。

 

「知る」ということについて、今まで、レムナントキリスト教会の礼拝のメッセージで何度か教えていただいたのですが・・・

このことは、創世記に書かれているように、アダムがエバを知ったことに通じます。

いわば、夫婦関係のことを言われています。

ですので、単に、たとえば、テレビを見ながら「あの、アイドルの女の子、最近デビューしたんだよね、知ってる、知ってる」と、そういうものではなく、その人の、気質、性質をはじめ、深い部分まで、知っているという意味合いです。

アダムとエバ、確かに彼らは夫婦なのですが、このことは、神様と私たちクリスチャンの関係をあらわす、ひとつの型であることを理解してください。

なぜかと言うと、以前にも何度か話しましたように、クリスチャンは男女問わず、キリストの花嫁にたとえられているからです。

Ⅱコリント人への手紙には、このように書かれています。

というのも、私は神の熱心をもって、熱心にあなたがたのことを思っているからです。私はあなたがたを、清純な処女として、ひとりの人の花嫁に定め、キリストにささげることにしたからです。」と、あります。

ひとりの人とは、「キリストにささげることにした」とありますように、キリストのことを指します。

もし、私たちが、キリストの花嫁になるのなら、本日の御言葉にもありますように、「神に知られる」ということは大切なことです。

また、世の中の結婚の条件もそうですが、男女共に「他の誰にもまさって、自分を愛してくれる人」、「大切にしてくれる人」を伴侶として選ぶのではないでしょうか。

このことは、キリストと私たちの関係にも、そのまま当てはまります。

御言葉にも書かれているように、私たちが神様を愛することは、とても大切なことですし、花嫁として迎え入れてもらう必須条件とも言えるのです。

昨今、キリスト教界において、神様の愛が強調されることはあったとしても、私たちが神様を愛するということに関して、ほとんど耳にすることがありません。

もちろん、神様が私たちを愛してくださっていることは、間違えではありません。

御言葉にも「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。」とありますので、そのことも事実ではあります。

ただ、クリスチャンとして新生したのだから、神様に愛されて当然、祝福されて当然、と、そんな風潮は感じられないでしょうか。

神様が私たちを愛してくださること、もちろん、このことは感謝なことですし、その感謝を賛美のいけにえとして日々、表明することも大切です。

でも、そこでストップすることに御心があるのかというと、そうではないことが、本日の御言葉から読み取れるのではないでしょうか。

確かに、神様は、おひとりひとりのことを御覧になっています。

ただ、御覧になっていると言っても、さっきの「知る」という意味合いと同じように、単に見る(目に写っているという表現が妥当かもしれませんが・・・)という見方もあれば、しいて、その人に目を留める、目を注ぐという見方もあります。

たとえば、ペテロやヨハネやヤコブに主は目を留められて「私についてきなさい」と声をかけられました。

もし、私たちがそんな風な意味合いで、主に目を留めていただきたいと思うのなら、そう、まさに、私たちが神様を愛することなのです。

さて、神様を愛するとは、どういうことなのでしょうか。

口先で「愛します、愛します」と一日中、唱えることでしょうか。

もちろん、「憎みます」というよりは、良いことではあります。

でも、聖書で言われている神様を愛するという意味合いは「戒めを守る」ことです。

このことも、レムナントキリスト教会の礼拝のメッセージの中で度々語られていることです。

以前の私も、少し勘違いしていたのですが、聖書にも、はっきりと書かれていることです。

 

参照 ヨハネの福音書14:15,15:10

14:15 もしあなたがたがわたしを愛するなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。

15:10もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。

 

ですから、戒めを守る人は、神様に知られ、なおかつ、神様の愛にとどまるのです。

反対に戒めをいくら聞いても守らない人は、クリスチャンと称していても、神様を愛していないことになってしまうのです。

そういう人は、残念ながら、神様に知られることはありません、もっと言えば、ペテロたちのように、目を留められることも、声をかけられることもないのです。

たとえば、あなたが、会社の社長だとして・・・社員に色々と仕事を任せます。

でも、もし、その社員が頼んだ仕事をしなかったり、いつも遅刻ばかりしていたらどうでしょうか。

何度か、注意はするものの、あまりにも、言うことを聞かないなら、辞めてもらうのではないでしょうか。

反対に、さぼらずにきちんと仕事をこなし、勤怠もよければ、そういう人には、特別な報酬を用意したり、昇格させたりするのではないでしょうか。

そんなことと比較してよいかどうか分かりませんが、神様も、そのようなことに準ずるのではないかと思います。

先にキリストの花嫁ということで、少し話をしましたが、はっきり言うと、神様の戒めを守る人が、キリストの花嫁として迎えられ、後の世において、天の御国を継ぎます。

反対に、戒めをないがしろにするなら・・・後の日、天の御国に入るのは、危ないと思います。

たとえ、毎週礼拝に行き、賛美をし、奉仕をしようとも、平気で人の悪口を言ったり、裁いたりして、そういったことを悔い改めない人は、難しいと思います。

そうそう、箴言にこんな御言葉があるのを御存知でしょうか。

私も、つい1,2年前に目に留まった言葉なのですが・・・

 

「耳をそむけておしえを聞かない者は、その者の祈りさえ忌みきらわれる」という御言葉です。

 

ここに、「祈り」と書かれているのですが、祈るのは、基本的にはクリスチャンですから、神様を知らない人のことを言われているのではないことが分かります。

神様は、私たちが方向をズラされることなく、いのちに至る道に歩むように、叱責、懲らしめなどを通して、ズレているときには、分かるような方法で、必要なことを教えてくださいます。

でも、残念なことに、多くのクリスチャンは、神様の教えに耳を貸そうとはしません。

もちろん、私も、たびたび、的外れになるので、主からの叱責を受けます。

でも、そんな時は、素直に耳を傾けるように心がけています。

そうでないと、たとえ、クリスチャンであっても、はたまた、お祈りをしていても、「忌み嫌われる」とはっきりと書かれているように、このことが悪い意味合いで成就してしまったら大変だからです。

何のための信仰の歩みなのか、働きなのか、本末転倒な結末を迎えてしまうのではないでしょうか。

クリスチャンのお祈りのすべてを神様は喜んで聞いてくださっているかというと、そうではなく、「おしえを聞かない者」のお祈りは、聞いてくださらないことが分かります。

そう言われてみれば、心当たりがなくもないです。

色々なトラブルに直面しながらも、いつになっても悔い改めようとしないクリスチャンや、頑なになって、正しい教えに何としても耳を貸そうとしないクリスチャンが昨今、見受けられます。

でも、神様がそのようなことを受け入れているかというと、そうではなく、ハナから、そういうクリスチャンのことは相手にしていないことが、この御言葉から、理解できます。

先ほどは、人様のことを申し上げましたが・・・人のことって、良くも悪くも、すぐに目につきやすいんですけど、自分自身にも、そういったことに心当たりがあるか?ないか?といえば、十分にありますので、気をつけていきたいと思います。

ですから、繰り返すようですが、私たちは、全力を尽くして、神様の戒めを守るように、心がけていきたいと思います。

教えを聞くことは、尊いことではありますが、ぜひ、そのことをお祈りによって実践していきたいと思います。

また、いつまでも頑なになって、耳をそむけていくときに、神様御自身も私たちのお祈りから耳を傾けてくださらなくなってしまいますので、決して頑なにならずに、叱責や注意を受けたときには、すぐに従っていくようにしたいと思います。

戒めを守ることが、神様を愛することですので、ぜひ、このことに徹していき、キリストの花嫁にふさわしい者となり、天の御国の後継者となっていきたいと思います。

 

本日のメッセージのテーマ「神様を愛する」ということに関して、私自身、随分長い間、勘違いしていました。

「霊」によってというよりも、自分の考えやイメージや固定観念で、その意味合いをとらえようとしていたために、難しく考えすぎていたんだなぁと、今になって理解しています。

そもそも、以前の私は、聖書をまともに読んでいなかったので、「戒めを守ることが神の愛にとどまる」ということすら、知りませんでした。

聖書に書かれていたにもかかわらず、どうやら、自分とは関係が無いと思っていたのか?あるいは、まったく目に入らなかったのか?いずれにしても、素通りしていたことは確かでした。

でも、知らないって、怖いことなんだなぁと、つくづく思いました。

その当時は、今と違って、艱難前携挙説を盲信していましたので、クリスチャンだし、毎週礼拝にも行っているんだから、天の御国は楽勝!安泰!などと、ばかげたことを考えていました。

盲目って、恐ろしいなぁと、今、思い返してみても、身震いがします。

今日のメッセージのテーマとは、ズレてしまって恐縮なんですが、その前の節、2節に、「人がもし、何かを知っていると思ったら、その人はまだ知らなければならないほどのことも知ってはいないのです」と書かれているように、本当に・・・まだまだ知らなければいけないことは山積みなんだなぁと、御言葉を通して、改めて教えられたように思います。

話は、「神様を愛する」に戻りますが、本日、このように「戒めを守ること」が、そのまま、神様を愛するという風に教えていただきましたので、地上での残りの期間、そのことにエネルギーを注いでいかれらなぁと思います。

自慢するわけではありませんが、律法の違反者とは、まさしく、私のことですが、主に憐れみを求めて、戒めを守り行っていきたいと思います。

今日も大切なことを教えてくださった主に栄光がありますように、主に感謝して。