聖書箇所 Ⅰコリント人への手紙12:4-6

 

12:4 さて、御霊の賜物にはいろいろの種類がありますが、御霊は同じ御霊です。

12:5 奉仕にはいろいろの種類がありますが、主は同じ主です。

12:6 働きにはいろいろの種類がありますが、神はすべての人の中ですべての働きをなさる同じ神です。

 

「御霊の賜物を求める」というテーマで、御言葉に沿って、みていきたいと思います。

 

メッセージの前に、細かいことです恐縮なのですが・・・

4節に書かれている「御霊の賜物にはいろいろの種類がありますが、御霊は同じ御霊です。」の部分が、新改訳聖書の第3版では、「賜物にはいろいろの種類がありますが、御霊は同じ御霊です」と書かれています。

「御霊の」の言葉が省略されているのです。

昨今、聖書は、改ざんされているということをよく小耳にしますが、このことを、ひとつとっても、そうだなぁ、そんなことが言えるなぁと、そのようなことに関しては、人一倍、疎い私であっても、そんな風に思います。

単に、「賜物」とだけ聞くと、何のことを言われているのか、よく、分かりませんよね。

生まれつきの才能とか性質とか、そんな風にも思ってしまいます。

でも、ここで、はっきりと、「御霊の賜物」と言われていますように、すなわち、神様からのものであるということが理解できます。

 

ところで、クリスチャンが毎週ごとに行かれている教会には、それぞれ働きがあります。

本日の御言葉の箇所は、教会での働きのポイントに関して語られています。

また、5,6節に書かれているように、奉仕や働きは、さまざまです。

ですが、もっとも大切なことがあります。

「主は同じ主です」とか、「神はすべての人の中ですべての働きをなさる同じ神」とか「御霊は同じ御霊です」と、ありますように、個々における働きにおいて、すべて御霊の力によってなされなければならないということです。

そうなんです、このことは、礼拝の中でも学んだことですが、教会の働きというのは、御霊の賜物によってすすめられていくのです。

つまり、もともとの人間的な資質だとか、能力だとか、それが、どんなに良いものであり、あるいは人よりも優れているものであったとしても、そういったものでは、神の働きを全うすることはできないのです。

裏を返して言うなら、何の力もずば抜けた能力を持ち合わせていなくても、御霊の賜物があれば、それで、充分なのです。

いかがでしょうか?素晴らしいと思いませんか?

私自身のことで恐縮ではありますが、自慢するわけではありませんが、私には、取り柄というものが特にありません。

いいえ、それどころか、どちらかというと不器用なほうで、文字を書いても「読みづらい、何を書いているのか分からない」とか、絵を書いても「幼稚園の子供のほうがよっぽど上手」とか、そんな風に言われていました。

そんなことは一例でありまして、勉強も運動も苦手なほうでした。

そんなわけで、自己嫌悪に陥ることも度々ありました。

でも、イエス・キリストに出会ってから、そういったものにほとんど、とらわれることが無くなりました。

それどころか、真剣に主にお仕えするようになってから、そのようなものには、全く興味が無くなりました。

それこそ、御霊の賜物をいただくことができるように、日々、お祈りしていく中で、ほんのわずかではあっても神様の働きを担わせていただいている幸いや平安や喜びや感謝の思いに満たされています。

そうなんです、まさに、御霊の賜物、それだけがあれば、神様の働きが成せるのです。

さっきも申し上げましたように、人間的な能力などは、神様の前には、一切関係が無いのです。

ただし、このことには、条件があります。

Ⅰコリント人への手紙の14章に、「御霊の賜物を求めなさい」と、書かれているように、祈り求めていくことにポイントがあります。

このことも、レムナントキリスト教会の礼拝の中で教えていただいたのですが、「賜物」は、英語で「gift」と訳されています。

つまり、「御霊の賜物」は、私たちが何か努力して得るのではなく、神様からプレゼントとして与えられるものなのです。

しかも、真剣に祈り求めていく人には、例外なく、与えられていくのです。

そして、それを用いて、神様の働きを担っていくのです。

正しく用いるなら、教会のたてあげや、その人自身、あるいは、周囲の人々の霊的なたてあげを成していき、人々の徳を高め、益をもたらすものとなります。

本当に、素晴らしいですよね。

ちなみに、レムナントキリスト教会の礼拝の中では、預言の奉仕をしています。

聖書に書かれているように、何人かの人が、かわるがわる預言をします。

私もその中の一人なのですが、御言葉に、「御霊の賜物、特に預言することを熱心に求めなさい」とありますので、奉仕のために、日々、預言の賜物が与えられるように祈って、働きに携わっています。

はじめは、「私なんかに与えられるの?」と、半信半疑だったのですが、弟子訓練の集会で、たびたび、この御言葉から教えを受けていく中で、「本当かも知れない!!」と、そのままストレートに信じて、祈り求めていくようになりました。

すると、日にちを重ねるたびに、確かに、主が預言を与えてくださり、語ってくださっているなぁと、実感するようになっていきました。

今、多くの教会では、「御霊の賜物」について、あまり語られていないのでは?と、思うのですが、いかがでしょうか。

再三、話をしていますように、教会のたてあげは、「御霊の賜物」によって、なされていくのですが、このことについて、真剣に祈り求めていくことは、とても大切のように思うのですが・・・

もし、教会が御霊の賜物を求めずに、それを無視して、人間的な能力や考えなどを優先して働きを担っているのであれば、いくら、物理的に会堂があってたくさんの人が集まっていたとしても、主の前に、「教会」と、見なされなくなってしまうのではないでしょうか。

私の言っていることは、極端なことでしょうか。

たとえば、こんな例が良いかどうかわかりませんが、あなたがオフィスで働いているとします。

お昼休みになって、その日、無性にラーメンを食べたい!と、思ったとします。

そして、迷わずに、ラーメン屋さんに足を運びました。

しかし、思わぬことが起こりました。

何と、そのお店のメニューの欄に、ラーメンが一切載っていませんでした。

すると、どうしますか?

お水やおしぼりが出されたとしても、普通の人なら、退席するのではないでしょうか。

そんな例と一緒にして良いかどうかわかりませんが、教会に関しても、同じことが言えるのではないでしょうか。

教会で「御霊の賜物」が用いられていないのでしたら、世の中の集まりとなんら変わらないのではないでしょうか。

料理にたとえて言うなら、肉抜きの、すき焼きやしゃぶしゃぶと、いったところでしょうか。

繰り返すようですが、教会という場所は・・・「御霊の賜物」が用いられているかどうかがポイントですので、そのあたりのことは、よくよくご理解いただけたらと思います。

聖書に、わざわざ、「御霊の賜物」と書いているのですから・・・しかも、さっきも申し上げましたように、Ⅰコリント人への手紙の14章には「御霊の賜物を求めなさい」とまで書いているのです。

ですから、私たちは、このことを尊重しなければいけません。

そうでなければ、メッセージをはじめ、証や預言が何のための働きなのかが、わけが分からなくなり、いくら、ご本人や周囲の人が納得されていたとしても、主の前に的外れ、あるいは、本末転倒になってしまうなんてことが、往々にして起こり得るからです。

ぜひ、神様の贈り物(gift)である、聖霊の賜物を日々祈り求めていくようにしていきたいと思います。

聖霊の賜物を祈り求めていくときに、5節に書かれているように、聖霊さま御自身が私たちを通して働きを成してくださいます。

たとえ、私たちに誤りや間違いがあったとしても、神様御自身は完璧な方ですので、ぜひ、実践していきたいと思います。

 

以前も証をさせていただきましたが、もともとの私の性質は、かなり内向的なほうで、普段の会話もそうですが、集会の中で、人前で話すことに、かなり抵抗を感じていました。

今でも、まったく無いわけではありません。

でも、聖霊さまから力をいただければ、このことも解消できるのでは?と、思い、そのことを信じて、ひたすら、聖霊さまの力、いわゆる御霊の賜物をいただけるように祈り求めていきました。

すると、不思議なことに、霊的な圧迫とか否定的な思いから、少しずつ解放されていくようになりました。

証や預言の奉仕やメッセージの訓練のときに、明らかに、私自身を通して、主が語ってくださっているなぁと、そのことを実感できるようになりました。

今でも、毎日、預言の賜物を求めたり、御心に叶った証や預言やメッセージが成せるように祈っていますが、そういったことを通して、神様はとても誠実なお方だなぁと、そんなことも思わされます。

メッセージの中でも話しましたように、私自身は、何も無くとも、神様の働きを担っていきたいという思いを持ち続けていくなかで、御霊の賜物を熱心に求めていくという、ただ、それだけのことを実践するだけで神様が、こんなにもつたない私のことを用いてくださり、このことに、いつも感謝しています。

そして、ますます、主を恐れ、へりくだって、お仕えしていきたいなぁと思います。

今日も大切なことを語ってくださいました神様に栄光がありますように。