聖書箇所 Ⅰコリント人への手紙12:2

 

12:2 ご承知のように、あなたがたが異教徒であったときには、どう導かれたとしても、引かれて行った所は、ものを言わない偶像の所でした。

 

「偶像礼拝から離れる」というテーマで、御言葉に沿って、みていきたいと思います。

 

突然ですが、「偶像」とクリスチャンは何の関係があるのかお分かりでしょうか?

仏壇も持っていないし、まして、地蔵とかにも手を合わせて拝んでもいない、線香や焼香なんてもってのほか、何を言っているのですか?と、おっしゃるかも知れません。

私も、過去、クリスチャンになってから、自分と偶像とは一切関係が無いと思っていましたので、聖書に書かれている「偶像」という言葉には、まったく関心がありませんでしたし、それどころか、無視していました。

でも、聖書は一体誰が読むのか?と言うと、神様を全く知らない未信者の人ではなく、クリスチャンが読みますし、大半はクリスチャンに向けて書かれているものです。

もちろん、未信者の人も読むかも知れませんが、誰宛に書かれているのか?ということを突き詰めていくと、我々、クリスチャンに、概ね該当するものばかりです。

過去、私には、そういった概念や知識を持ち合わせていなかったので、聖書に書かれている災いとか裁きに関しては、神様を知らない未信者の人がターゲットになっていると、そんな読み方しかしていなかったので、大きく誤解していました。

ですから、本日の箇所の「偶像」についても、私たちクリスチャンのことを言われているということを念頭においてこの箇所を共にみていきたいと思います。

前置きが長くなりましたが、メッセージの本題に入ります。

 

ここに、「異教徒」と「偶像」についての関連性が書かれています。

「どう導かれたとしても、引かれて行った所は、ものを言わない偶像」と書かれていますように、異教徒の行き着く先は偶像の所であることが理解できます。

 

ちなみに、「異教徒」という言葉についてですが、このことは、神様を知らない未信者のことも指しますが、実際には、クリスチャンの中にも、異教徒と呼ばれる人がいるのです。

「あなたがた」とあって、1節を読むと「兄弟たち」と呼びかけているので、このことは、クリスチャンに対して言われていることが理解できます。

 

未信者の方はさておき、クリスチャンなのに、行き着く先が「偶像の所」というのは、大きな問題です。

「偶像の所」とは、少し、分かりづらい言い回しになっている、要は、「偶像崇拝」のことを言っています。

 

たしかに、最初に申し上げましたように、偶像崇拝とクリスチャンは一見、なんら関わりが無いように思えます。

たとえば、クリスチャンホームで仏壇を置いているところは無いでしょうし、個々におけるクリスチャンにおいても、お守りを持っている人は、ほとんど皆無に等しいと思います。

もちろん、稀にそういう人もいるかも知れませんが、かなり、珍しいタイプです。

ただし、そういう人は、非常に失礼な言い方かも知れませんが、真の意味合いで、救われていない人なのかも知れません。

そういった例外はともかく、それでは、一般的に、クリスチャンの偶像崇拝とは、どのようなことを言われているのか?そのことを理解することによって、クリスチャンであっても、異教徒と言われてしまう理由が理解できると思います。

 

レムナントキリスト教会のメッセージでも言われているように、偶像崇拝とは、「器崇拝」のことに通じます。

具体的には、神の言葉よりも人の言葉を優先することです。

聖書に書かれている真理をさしおいて、人の教えや考えを取ってしまうことを言われています。

例を挙げるなら、クリスチャンは艱難を通らないという教え(艱難前・中携挙説)とか、キリストの再臨は背信のクリスチャンへの裁きのときであるにもかかわらず、クリスチャンは裁かれないとか、アメリカこそが獣の国であることを御言葉は語っているのですが、ヨーロッパが獣の国であるという教えなどです。

こういった聖書的に根拠の無い教えを、どこまでも盲信し続けていくときに、御言葉を投げ出すことになり、異教の教えに入ってしまうことになります。

神様の御言葉よりも、器の語っていることを信じこんでいる、そういうクリスチャンのことを異教徒と言っているのです。

残念ながら、そういうクリスチャンは神の民と見なされなくなってしまうのです。

そして、偶像礼拝に引っ張られていくときに、とんでも無い方向に行ってしまいます。

そうすると、御国が危なくなります。

このことは恐ろしいことなので、よくよく気をつけていきたいと思います。

 

たとえば、当時のパリサイ人、律法学者、祭司長がその代表例とも言えます。

彼らは神を崇めていた人々でした。

しかも、今で言う、牧師や教師、はたまた、キリスト教会をリードする立場の人たちでした。

ところが、イエス様は彼らに対して何と言ったでしょうか?

「おまえたち蛇ども、まむしのすえども。おまえたちは、ゲヘナの刑罰をどうしてのがれることができよう。」とか「彼らがわたしを拝んでも無駄、人間の教えを教えとして教えている」とか、そんな風に言われてしまったのです。

蛇、まむし、それに続いて、「ゲヘナの刑罰に入る」と、言われてしまったのです。今でいえば、

クリスチャンであり、しかも、キリスト教会を引っ張っていく立場の人たちの行き先が「ゲヘナ」ですよ!

クリスチャンの最終ゴールは「天の御国」なのに、そこには入れずに、ゲヘナに入ると、そんな風に言われたのです。

そうなんです、神を信じて安息日ごとに会堂に行っていた彼らは、イエス様にそのように言われていたのです。

同じクリスチャンでも、ペテロやパウロ、その他のイエス様に着いた弟子たちは天の御国に入れたのですが、人前や建前はともかく、彼ら、パリサイ人や律法学者は神の前には偽善だったゆえに、天の御国に入ることが出来なかったのです。

なぜでしょうか?

まさに、イエス様が言われたように、彼らは神の教えではなく、人からの教えに従ってクリスチャン生活を送っていたからです。

ゆえに、イエス・キリストが神の御子であり、救い主であることが理解できず、十字架に付けて殺してしまったのです。

そして、このことは、決して他人事ではなく、このような失敗から私たちはきちんと教訓を受けていかなければいけません。

もしも、彼らの轍を踏むのなら、クリスチャンであっても、天の御国を継げない可能性が大いにあり得るからです。

 

そう、まさに、このことは、今の時代の牧師や教師をはじめとするクリスチャンにも言えることなんです。

彼らが毎週安息日ごとに会堂に行って礼拝をしていたように、今のクリスチャンも、毎週礼拝に行っていると思います。

しかし、もし、御言葉とは別のことが語られているのなら、御言葉であるイエス様のことを、彼らと同様、十字架に付けていることになってしまい、「彼らがわたしを拝んでも無駄、人間の教えを教えとして教えている」と、イエス様から言われてしまう可能性があります。

もちろん、語るメッセンジャーにも責任はありますが、しかし、安易に受け入れる信者の人々も、神様の前には同じように見なされてしまいます。

どんなメッセージを受けるのか?は、個々におけるクリスチャンの判断や自己責任になってしまいますので、くれぐれも気をつけていかなければいけません。

もしも、あまりにも、御言葉と器が語ることに相違や違和感を覚えるのなら、要注意です。

自分では特別自覚しなくても、御言葉よりも器が語ることを優先するのなら、神様の前には、偶像礼拝、すなわち、器礼拝という風に見なされてしまいます。

まさに、本日の聖書箇所の御言葉が、そのまま成就してしまいます。

要するに、自分ではクリスチャンと思っていても、神様の前に、異教徒と見なされてしまうということです。

ですから、そのような場合には、ただちに、器崇拝から離れていかなければいけません。

そして、実際に、偶像礼拝から離れていかなければ、永遠の命が危なくなることについては、聖書のあちこちに、書かれているので、そういった点について、ぜひ、厳粛に受け止めていきたいと思います。

死後の行き先が、天の御国orゲヘナ(火の池)かのどちらかであるように、器と御言葉が語っていることが二分するときには、御言葉に着くのか?人の教えに着くのか?2つに1の選択しか無いので、その都度、正しく選んでいきたいと思います。

 

特に世の終わりのときには、クリスチャンお一人一人を異教徒へと引っ張る力が更に強くなっていきますので、その都度、正しい判断が出来るように、常日頃から祈り求めていきたいと思います。

既にアメリカでは少しずつ正しいクリスチャンを迫害したり逮捕したりするような方向に向かっていて、こういったことが、これから日本にも起きてくると思われます。

こと、法律的な事柄を通して、正しいクリスチャンを逮捕、投獄、殉教へと至らしめていこうとする流れになっていくと思います。

そのときに、法律に従うのか?神の言葉に従うのか?そういったことについて、どのように対応していくのかを、今から、はっきりと決めておいたほうが良いと思います。

背教が進んでいくと、益々、御言葉が投げ出されて、人間の教えというのが、キリスト教会全体を覆っていくようになるので常に御言葉のほうを優先できるように祈り求めていきたいと思います。

そうしていくときに、神様の前に、異教徒と見なされることなく、クリスチャンと見なしていただけますし、最後まできちんと御言葉を守り通すなら、その延長線上には永遠の命が約束されていますので、ぜひ、主の言われているまっすぐな道を歩んでいきたいと思います。

 

以前行っていた教会のことですが、教理に関していくつか疑問を感じることがありました。

そのひとつに、信徒の霊的な成長することについて、牧師が良く思われていないようなことを語っていたことです。

なぜ、そのようなことを語っていたのかは分かりませんが、牧師がよく強調されていたのは、「指導者が言うことに従いなさい」というものでした。

もちろん、実際に、聖書にも権威に従うことについて書かれていますので、もっともといえばそうなのですが、だからと言って、霊的な成長について、牧師が信徒のことを押さえつけていいか?と、言うと、それは違うように思いました。

また、教会を出た人のことについて、呪われているとか地獄に行くとか、そんな風なことも言われていたこともありました。

こういったことに関して、私だけでなく、他の信徒の人からも、疑問の声が挙がっていました。

ただ、はじめの頃は、すべて牧師が言うことが正しいと思っていましたので、絶対にここの教会から出てはいけないと思っていましたし、本当にそこを出るべきなのか?ということもよく分かりませんでした。

でも、こういったことに関して、エレミヤの部屋のホームページのメッセージを通して、どのように対応したら良いか?について、少しずつ分かるようになりました。

あらゆる教理がおかしいということも次第に理解するようになり、そこに通い続けていても、永遠の命に至らないということが分かったので、出ることを決意しました。

数年通った教会だったので、そこを出て行くというのは勇気がいることでしたが、聖霊の助けと促しと導きによって思い切って従ってみて、良かったなぁと思います。

たしかに、指導者には原則従うべきなのですが、神様が言うことと、人が言うことがぶつかった場合は、神様の声に従っていくべきだということを自分自身の体験を通して教えられたように思いました。

もし、私自身、今でも器の言うことに全面的に従っていたら、このような歩みや働きは無かったと思います。

すべてがおかしいというわけではなく、もしかすると大半は正しいことを語っているのかも知れませんが、永遠の命を得るか否か?ということにかかわっているものについては、注意が必要なのでは?と、私個人は、そんな風に思います。

本日も大切なことを語ってくださった主に栄光と誉れがありますように。