聖書箇所 Ⅰコリント人への手紙9:17

 

9:17 もし私がこれを自発的にしているのなら、報いがありましょう。しかし、強いられたにしても、私には務めがゆだねられているのです。

 

本日は、この節の前半部分について、「喜びを持って仕える人を尊んでくださる神」というテーマに沿って、みていきたいと思います。

 

この箇所だけを見ると、今ひとつ分かりづらいのですが、「これを自発的にしている」とは、何を言っているのかというと、同じ章の14-16節をお読みいただけると分かります。

 

参照 Ⅰコリント人への手紙9:14-16

9:14 同じように、主も、福音を宣べ伝える者が、福音の働きから生活のささえを得るように定めておられます。

9:15 しかし、私はこれらの権利を一つも用いませんでした。また、私は自分がそうされたくてこのように書いているのでもありません。私は自分の誇りをだれかに奪われるよりは、死んだほうがましだからです。

9:16 というのは、私が福音を宣べ伝えても、それは私の誇りにはなりません。そのことは、私がどうしても、しなければならないことだからです。もし福音を宣べ伝えなかったら、私はわざわいに会います。

 

また、17節の後半には、「私には務めがゆだねられているのです」とありますが、この箇所は、KJV訳では、「of the gospel is committed」と書かれています。

ですから、「これを自発的にしている」とは、パウロが、福音を語ることを自発的に行っていたことについて言われています。

 

ちなみに、「自発的」の部分は、英語では、「willingly」という単語が使われています。

「喜んで」とか「いそいそと」という意味合いです。

このことは、パウロが、喜びをもって、福音を伝えていたということを言われているのですが、このことは、献身者の歩みをしている人や教会の奉仕をしている人への語りかけでもあります。

 

聖書では、喜びをもって種を蒔くとか、喜んで与える人を神様は愛してくださるとか、そういったことについて、ところどころ、書かれています。

また、ローマ人への手紙の中では、「神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです」と書かれています。

 

さて、聖書に書かれている「喜び」という意味合いの中に、「積極性」というものを、私自身は痛切に感じます。

つまり、後半に書かれているように、「強いられて行う」よりも、はじめから、喜んでそのことを行っていくように、心がけていくほうが得策のように思えるのです。

私自身のことではありますが、自らの意志で、納得して、積極的に、しかも、喜んで行った奉仕に関しては、必ずと言っていいほど、主にあっての喜びや平安があります。

でも、反対に、そうでないときには、「本当にこれで良かったのだろうか?」という、わだかまりが多少なりとも残ります。

 

また、「いそいそと」とは、「心が浮き立ち、喜び勇むさま。うれしいことなどがあって、動作がはずむさま」という意味合いがあるのですが、私たちがはじめて、イエス様に出会ったときのことを何か思い起こさせるものはないでしょうか。

何か特別な理由は無いのですが、とにかく、うれしくて仕方が無いと、そんな風に思いませんでしたか?

私は、洗礼を受けた当時、身近にいた友人に、「とにかく幸せ!」ということを、しばしば口ずさんでいました。

何をしていても、嬉しかったのです。

もちろん、今も、そういった思いを持ち続けるべきなんでしょうけどね。

そんな例が良いかどうか分からないのですが、ワクワクしながら、そして、今度は、神様が私たちに何をしてくださるのかな?なんてことを心待ちにしながら、主にお仕えしてみたら、いかがでしょうか。

場合によっては、一歩踏み出すのに、勇気がいることもあるかも知れませんが、主は、お一人一人が、そのような思いで、証やメッセージや賛美とかをされることを望んでおられるように思います。

 

私自身の証ですが・・・

以前行っていた教会のことですが、その教会に行くようになって、数ヶ月が経ったときに、「今度、面接にいらっしゃい」という風に、牧師のほうから声をかけていただいたことがありました。

その時に、「何か奉仕をしたほうがいい、そうでないと、天国へ行ったときに何もごほうびがもらえなくなるから」と、奉仕することをすすめていただきました。

続いて、こんな風におっしゃいました。

「でも、強制は良くない。自分の意志で行ったほうがいい。自発的でないと、神様は喜ばない」と、そのようにも言われました。

たしかに、そうかも知れないと思いました。

当時は、あまり、ピンと来ませんでしたが、今、このようにして、わずかでも、主の働きをさせていただくようになり、そのときにいただいたアドバイスの意味合いが今になって、多少なりとも、理解できるようになりました。

そして、そのことは、私にとって、今でも、貴重な助言となっています。

 

繰り返すようですが、私たちは、自分の意志で、率先して、奉仕していくようにしていきたいと思います。

そう、たとえば、もし、イエス様が目に見えるお方だったらどうでしょうか?そんな風に仕えていきたい!と、きっと思われるのではないでしょうか?

ですから、たとえ、イエス様が目には見えなくても、いつでも、どんなときでも、主に感謝しながら喜びをもって仕えていきたいと思います。

たとえ、どんなに小さなものであっても、私たちが、そのように捧げていくときに、神様は喜んでくださいますし、のちの世において、報いまでいただけますので・・・

そうしていくときに、周囲の人にも良い影響を与えたり、霊的なたて上げをしたり、特に意識しなくても、おのずと群れの模範にもなっていきますので、そのように心がけていきたいと思います。

また、いつも、申し上げていますように、働きをする際には、必ず、祈りとセットで行っていきたいと思います。

祈っていくことによって、なすべきことをその都度主が示してくださったり、必要なことを教えてくださったりして、御心の働きを担っていかれますので、ぜひ、そのこともおすすめいたします。