聖書箇所 テサロニケ人への手紙1:6,7

 

1:6 あなたがたも、多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、私たちと主とにならう者になりました。

1:7 こうして、あなたがたは、マケドニヤとアカヤとのすべての信者の模範になったのです。

 

「群れの模範としての歩みを目指す」というテーマで、御言葉に沿ってみていきたいと思います。

 

以前から話していますように、人前はともかく神の前にはクリスチャンは明らかに2つの区分があります。「弟子の歩み」と「群衆の歩み」の区分です。そして結論から申しますと、「弟子の歩み」に御心があります。それは、私自身が弟子として歩んでいるからと、自分の立場でものを言っているわけではなく、福音書をはじめ聖書のありとあらゆる記述を読むとそのことは一目瞭然です。そう、イエスさまご自身がそのように語っているのです。詳細についてはここでは触れませんが、聖書では弟子のことを、「岩(キリストのたとえ)の上に土台を据えた信仰」と、一方、群衆のことは「キリストを土台としていない信仰」と表現しています。

 

参照 ルカ6:48,49

6:48 その人は、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据えて、それから家を建てた人に似ています。洪水になり、川の水がその家に押し寄せたときも、しっかり建てられていたから、びくともしませんでした。

6:49 聞いても実行しない人は、土台なしで地面に家を建てた人に似ています。川の水が押し寄せると、家は一ぺんに倒れてしまい、そのこわれ方はひどいものとなりました。」

 

このことは風も何も無い、いわば平素の時には、弟子も群衆もそれほど大差がないように見えるのですが、洪水、すなわち苦難や艱難や困難をはじめとするあらゆる揺り動かしがきたときに、弟子の信仰は残るけれども、群衆の信仰は倒されると、そのようなことを言われているのです。いかがでしょうか?この御言葉だけでも、「弟子の歩み」に御心があることが理解できるのではないでしょうか?少なくとも、私にはそのように思えます。

 

さて、6節の御言葉、「あなたがたも、多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、私たちと主とにならう者になりました。」で言われていることを見てみましょう。

文字通り、ここではテサロニケの教会の人々が、数々の苦難や困難の中において、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れたことについて書かれています。そのことに続いて、「私たちと主とにならう者になりました。」と書かれています。細かいことなのですが、この箇所はKJV訳では「私たちと主とに従う者になりました」と訳されています。「私たち」とは、パウロとシルワノとテモテです。いずれも、使徒の働きをしている人たち、すなわち弟子として歩んでいる人たちです。ここで分かることは、テサロニケの教会の人たちが、パウロたちを通して語られたメッセージを喜んで聞いてくださったのは一面事実ではありますが、しかし、単に御言葉を喜んで受け入れるだけでなく、パウロたちとイエスさまに従う者、つまり弟子として歩むようになったということを言われているのです。さらにそのことに引き続いて7節のことが書かれているのです。「こうして、あなたがたは、マケドニヤとアカヤとのすべての信者の模範になったのです」と。このことはパウロが言われたことです。パウロはテサロニケの教会の人たちがキリストに従って、すなわち弟子として歩むようになったことを光栄や誇りに思って、このようなことを思わず手紙に書いてしまったのかも知れませんね。私も主の弟子として歩んでいる一人として、このようなパウロの気持ちはとてもよく分かります。そして、このところからの神さまの語りかけを感じます。それは何かと言うと、クリスチャンは本来、キリストのために働くために召されているのですが、しかし、群衆の歩みにずっと留まり続けていくときに、どこかで限界を迎えてしまい、本来神さまの意図しておられる働きがいつしか分からなくなってしまうのです。つまり本当に主に仕えていこうと決心しているのなら、「弟子の歩み」を選んでいかなければいけません。はじめからそのような志が無いのでしたらあまり関係の無いことかも知れませんが、しかし主の働きを担っていこうとするときに、「弟子として歩むのか?」、それとも「群衆の歩みにとどまるのか?」のいずれかの選択をしなければならない時が必ずきます。そういった主の招きがすべての人にあるのかどうかは分かりませんが、多少なりとも、「献身していこうかな?」と、思われている人には主からの何らかの声がけというのが必ずあると思います。それこそ御言葉にも、「招待される者は多いが、選ばれる者は少ない」と書かれているくらいですので、多くのクリスチャンが主の招きにあずかるのは聖書の一面の事実ではないかと思います。しかし、その時にどちらを選ぶのか?については、個々の人における選択や判断しかありません。こればかりは、いくら神さまが全能なるお方であると言っても、その人が決断しないことにはいかんとも、しがたいのです。そしてもし、「弟子の歩み」を自らの意志で選ぶのなら、7節に書かれているように自ずと、「群れの模範」となる歩みをしていくようになるのです。このことは裏返すと、群衆の歩みでは、「群れの模範」になるというのは、ほぼあり得ないということを言われているのではないかと思います。ですから、もし、「群れの模範の歩み」を目指すのでしたら、キリストの弟子としての歩みを選択されることをおすすめいたします。そうしていくときに、はじめに申し上げましたように、「キリスト」を土台とする信仰に次第に築き上げられていくようになります。一足飛びにはいかないかも知れませんが、土台が築かれていく中で、神さまの本来召している働きに少しずつ携わるようにもなっていきます。そして結果として、特別意識しなくても、「群れの模範の歩み」をするようになっていきます。そのことを通して、つまりテサロニケの人々がパウロたちの足跡をたどっていったように、今の時代においてもすでに弟子として歩んでいる人たちと同じような歩みに入っていく人々がさらに起こされていくのです。このことはその人自身にとって益となったり喜びをもたらしたりするものではありますが、神さまの前にも大いに喜ばれ、尊いものと見なされますので御心を感じましたら、ぜひおすすめいたします。

 

私自身の証で恐縮ですが・・・今までも弟子の歩みに関するメッセージや証については再三、話していると思うのですが・・・およばずながらも、神さまの憐れみや助けによってイエスさまの弟子として歩ませていただいていることに日々感謝しています。正直、弟子として歩む前は、群衆も弟子もそれほど大差は無いのでは?などと思わなくもなかったのですが、実際に歩んでみて分かったことですが、弟子として歩むようになってから、真の意味合いでの恵みや祝福を受けられるようになりました。極端な言い方をするなら、弟子と群衆の歩みというのは、「天と地の差がある!」と申し上げられるほどです。群衆の歩みをしているからといって、まったく恵みや祝福を受けられないわけではないのですが、こと、「御言葉」に関する密着度は、全然違います。同じ御言葉においても、心に落ちてくるものが違うということに気付きました。どの御言葉に関しても、霊的な浸透率が全然違うのです。こういうことは実際に弟子として歩んでみてはじめて分かったことでした。その他にも、ありとあらゆる主からの守りとか助けとかも、極端なことを言いますと瞬時においても体験させていただいています。まる4年が経ちましたが、益々キリストの弟子としての歩みを強めていきたい!と、そのように思うばかりです。

 

本日の要点をまとめます。

神さまの前には、クリスチャンは「弟子」と「群衆」の区分があります。

メッセージを聞いて、真に主に従う歩みを選択するクリスチャンとそうでないクリスチャンがいます。

ではあっても、パウロの時代もそうだったように、今の時代においても神のしもべとして歩む人、すなわち「弟子」として歩む人を、神さまは求めておられます。

もし、自らの意志で「弟子」の歩みを選ぶなら祝福に入り、はたまた群れの模範となり、場合によっては、それに続いて歩む人々も起こされます。また、たとえ、倒されそうになったり、最悪倒れてしまったとしても、主からの助けや守りや導きや力が祈りの中で、その都度与えられます。

ペテロやヨハネやパウロのように最後まできちんと全うするなら、主からの誉れである「勝利の栄冠」すなわち、天の御国を受け継ぎます。

 

本日も大切なことを教えてくださった神さまに栄光と誉れがありますように。