聖書箇所 テサロニケ人への手紙3:10

 

3:10 私たちは、あなたがたの顔を見たい、信仰の不足を補いたいと、昼も夜も熱心に祈っています。

 

「主の羊をサポートする」というテーマで、御言葉に沿ってみていきたいと思います。

 

3章全体を通して、テサロニケの教会の人々とパウロをはじめとする同労者との関係が理解できます。

ここの節を読んでも分かるように、パウロたちはしきりにテサロニケの教会にいるクリスチャンに会いたがっていました。

そして6節にそのことが書いてあるのですが、一方、テサロニケの教会の人たちも、しきりにパウロたちに会いたがっていました。

 

参照 Ⅰテサロニケ人への手紙3:6

3:6 ところが、今テモテがあなたがたのところから私たちのもとに帰って来て、あなたがたの信仰と愛について良い知らせをもたらしてくれました。また、あなたがたが、いつも私たちのことを親切に考えていて、私たちがあなたがたに会いたいと思うように、あなたがたも、しきりに私たちに会いたがっていることを、知らせてくれました。

 

下線を引いたところを見ていただきたいのですが、しかも、彼らはパウロたちのことをいつも親切に考えていてくれました。そしてそのことをパウロたちは非常に喜び、また慰めを受け、神さまに感謝を捧げました。本日の御言葉は、そういった流れの中で書かれています。またそのことから、ふとした神さまからの語りかけを感じます。

 

当時パウロが宣教活動をしていた頃、パウロが語るメッセージがすべてのユダヤ人に受け入れられていたかというとそうではなく、逆に大多数のユダヤ人から反対されていました。分かりやすく言えば、その時代、パウロは多くのユダヤ人から迫害されていました。しかしそういった状況の中において、ごく少数ではありましたが、例外的にパウロの語る教理に素直に耳を傾ける人たちもいました。そればかりかテサロニケの教会の人たちはパウロたちに対して好意的な態度を示しました。そのような人々に対してパウロがどんな風に考えたのか?と、いうことが本日の御言葉から学べます。そしてそれは、私たちがもし、パウロのような働きに携わるのなら、お手本としていきたいことでもあります。特に後半に書かれている言葉にポイントがあります。ここでパウロはテサロニケの教会の人々に対して「信仰の不足を補いたい」と言っています。もちろん個々のクリスチャンの信仰の土台を築き上げるのは神さまご自身なのですが、パウロのように神さまから啓示を示されて人々に語る立場の人は、そのためのお手伝いや手助けをしていくことを神さまから求められているのです。テサロニケの教会の人たちはパウロが語るメッセージを通して真理を見て、そのことに同調したのは事実です。ではあっても、一日にして彼らの信仰がきちんと確立されるのかというとそうではなく、パウロのような働き人を通して徐々に建てあげていくというのが神さまの方法なのです。そういったことに関して、旧約聖書にこのようなことが書かれています。

 

参照 出エジプト記23:2831

23:28 わたしは、また、くまばちをあなたの先に遣わそう。これが、ヒビ人、カナン人、ヘテ人を、あなたの前から追い払おう。

23:29 しかし、わたしは彼らを一年のうちに、あなたの前から追い払うのではない。土地が荒れ果て、野の獣が増して、あなたを害することのないためである。

23:30 あなたがふえ広がって、この地を相続地とするようになるまで、わたしは徐々に彼らをあなたの前から追い払おう

23:31 わたしは、あなたの領土を、葦の海からペリシテ人の海に至るまで、また、荒野からユーフラテス川に至るまでとする。それはその地に住んでいる者たちをわたしがあなたの手に渡し、あなたが彼らをあなたの前から追い払うからである。

 

かつて出エジプトをした神の民が荒野に導かれたときに、そこにはすでに敵が住んでいました。当然その領土を取るためには、そこにいる敵を追い払わなければならないのですが、その際、神さまは一足飛びに敵を追い払わずに少しずつなされようとされました。

クリスチャンお一人一人の信仰の土台に関してもそれと同じことが言えるのではないかと思います。何を申し上げたいのかと言うと、信仰の土台がきちんと確立するまでは、ある程度の時間、年数を要するのでは?と、思います。その際に神さまはパウロのような働き人が用いるのです。「人は間違えるんだから、神さまが全部やればいいじゃない。そのほうが早いしパーフェクトなのでは?」という意見もあるかも知れません。でもこういったことに関しても、私たちは御言葉を尊重していかなければいけません。パウロが「信仰の不足を補いたいと、昼も夜も熱心に祈っています」と、こんな風に言われている以上、こういった働きがあるということにも目を留めていただきたいと思います。また、そのことに関連して、このようなことも聖書に書かれています。

 

参照 ヨハネの福音書21:1517

21:15 彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの小羊を飼いなさい。」

21:16 イエスは再び彼に言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を牧しなさい。」

21:17 イエスは三度ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロは、イエスが三度「あなたはわたしを愛しますか。」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。「主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を飼いなさい

 

ここで主は3度にわたって、ペテロに「私の羊を飼いなさい」と言われています。これは牧会、すなわち信徒のフォローについて言われています。まさにパウロが言われたように、「信仰の不足を補う」ということに通じます。ただしその際、勘違いしないようによくよく気をつけなければいけない点があります。このことはレムナントキリスト教会の礼拝のメッセージでも度々言われていることですが、私も含めてすべてのクリスチャンはあくまでも「キリストの羊」だということです。そのことをわきまえてフォローやサポートをおこなっていくことにポイントがあります。それも主の示された範囲内で、です。以前このような牧師がいました。その牧師は信徒のことを「自分の羊」と思ってそのように扱い、接していました。けれどもそれでまともな信仰生活が信徒に根付いていたかというと、それは違うのでは?と、思いました。と、言うのは、何かトラブルが発生するたびに、信徒は神さまに聞くことよりも牧師を頼りにすることを優先してしまうので、結局根本的な解決には至ることはなかったようです。信徒に相談を持ちかけられた牧師は、「こうしなさい」「ああしなさい」と言うそうです。一見人間的には何ら問題が無いようにも思わなくもありません。しかしすべてをご支配し、解決へと導くのは神さまです。万事は神さまに主導権があります。そのことをわきまえずに自己の判断で良かれと思って助言をして、もし仮に一時的には良くなったとしても、次にまた何かが起こったときに同じことを繰り返すのではないでしょうか?それによって信徒の人たちの霊的成長を妨げることにはならないでしょうか?ですからキリストをさしおいて牧会をすることは御心ではありませんし、場合によっては大きくズレてしまいますので気をつけていきたいと思います。どこまでも「キリストの羊」としての対応するように心がけていきたいと思います。つまりキリストの羊をサポートする際にもベースとなるのはパウロが言われているように「祈り」なのです。こんな御言葉もありますよね。

 

参照 Ⅰコリント3:6,7

3:6 私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。

3:7 それで、たいせつなのは、植える者でも水を注ぐ者でもありません。成長させてくださる神なのです

 

この御言葉からも、お一人一人の信仰の建て上げに関しても主が働いてくださるということが理解できます。そして今までも再三申し上げましたように、主に働いていただくために何をするのか?と、言うと、「祈り」をするのです。人々の霊的な建てあげのために祈ることが、牧会の基本中の基本であるということを正しくご理解いただきたいと思います。「祈り」を通して、神さまがお一人一人のことを最善へと導いてくださいます。もちろん必要に応じては神さまの働き人として働いていくことをおすすめしたり助言したりすることもあるかも知れません。しかしその際にも、やはり祈って神さまから導きをいただいて成していきたいと思います。パウロのように神の働きを担っている人たち、今の時代で言うなら弟子の歩みをしている人たちはたしかにこういった牧会的ことにも携わっていくという一面もありますが、聖書に書かれている基準に従って、正しくおこなっていきたいと思います。正しくおこなっていくときに自ずと実を結んでいきますし、そういった中で同じような働きに入っていく人々がさらに起こされていきます。こういった点に関しても、ぜひ聖書で言われていることを尊重していきたいと思います。

 

レムナントキリスト教会においても、主の言われている範囲内で正しく牧会ができるようにお祈りに導かれています。「牧会」に関して特に誰からも頼まれてはいませんが、しかし先程のメッセージの中でも引用させていただいたように、ペテロやパウロのようにキリストの弟子として歩んでいる立場の人たちは、こういったことにも携わっていくことを神さまが求めておられますので、そういったスタンスで成させていただいています。私自身、弟子の歩みをするまで、あるいは歩み出してもしばらくの間は、そんなことを考えたこともなかったのですが、土曜日の弟子訓練のおすすめや礼拝のメッセージを通してこういったことについて教えていただきましたので、わずかながらも祈りの中で実践するようになりました。表立って特別なことは何もしていないのですが、何らかの事情で、たとえ一日であったとしてもレムナントキリスト教会に関わっている方のことをとりなさせていただいています。そうしていく中で、主が働いてくださっているなぁということを感じることがあります。なので、これからも細々と続けていけたらなぁと思っています。本日も大切なことを語ってくださった主に感謝いたします。