聖書箇所 テサロニケ人への手紙5:2,3

 

5:2 主の日が夜中の盗人のように来るということは、あなたがた自身がよく承知しているからです。

5:3 人々が「平和だ。安全だ。」と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに襲いかかります。ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むようなもので、それをのがれることは決してできません。

 

「キリストの再臨は多くのクリスチャンにとって罠となる」というテーマで、御言葉に沿ってみていきたいと思います。

 

本日の御言葉は、Ⅰテサロニケ人への手紙の4章の後半に続いて書かれている箇所です。

「主の日が夜中の盗人のように来る」とは、「キリストの再臨」のことを指します。

そして上記御言葉は、再臨の時の状況について書かれています。

 

そう、クリスチャンなら、誰もが心待ちにしているのが、「キリストの再臨」だと思います。

そんな私も、その一人です。

ただ、昨今、多くのクリスチャンが「再臨」に関する認識について、大分ズレているように思いますので、本日、こちらの箇所を選んで、メッセージをさせていただくことにしました。

このように申し上げている私も、大分どころか、聖書で言われている真逆の認識を持っていましたので、何も偉そうなことは言えないのですが、とても大事なことを神さまが語られていますので、耳を傾けていただけたらと思います。

また、「再臨」についての知識を正しく持つかどうかによって、永遠における結果が変わってしまう可能性がありますので、そのようなことを念頭に置いて読んでいただけたらと思います。

 

キリストはいつ再臨されるのか?についてみながら、話をしていきたいと思います。

その答えは2節に書かれているように「夜中」です。

言うまでもありませんが、「昼」とは違って、「夜中」には光がありません。

いわば、真っ暗な状態です。

その日の天気が良ければ、月や星くらいは見えるかもしれませんが、基本的には「夜中」は暗いですよね。

だからイエスさまは日中には来られないと、そんな風に思われるかもしれません。

でも、本当にそうだとしたらどうでしょうか?

日本時間で夜の10:00だとしても、他の国では、朝の6:00とかにならないでしょうか?あるいは、午後の2:00という国もあるのではないでしょうか?

もし、そのまま文字通りに聖書を解釈するなら、矛盾が出てしまいますよね。ですらからこのことは、単に「時間帯」のことを指しているのではないことが分かりますよね。

いつも申し上げていますように、「聖書」の多くは「たとえ」が使われていて、ここでもそのことが用いられていると思いますので、そのあたりのことをみてみたいと思います。

ちなみに、今の時代は、「夜」です。

「夜」と言えば、「闇」という言葉を連想しませんか?

また、「闇」という言葉で、思い出すのが、「闇の世界」です。

「闇の世界」という言葉を聞いて、良いイメージってありますか?

聖書でも、「闇」という言葉は、比較的悪い意味合いで用いられています。

ちなみに「闇」と「サタン」とは、とても密接な関係があります。

エペソ書では、サタンのことを「暗闇の世界の支配者」と呼んでいます。

さきほど、今は「夜」だと言いましたが、今のキリスト教会は、「闇」、すなわち「サタン」に支配されているのだということを、まずご理解いただきたいと思います。

今がなぜ、闇の勢力の支配なのか?と、疑問を持つ方もおられるかも知れません。

例を挙げだしたらキリが無いのですが、その一例を挙げるなら「クリスチャンはさばかれない」という教理、これは、聖書に書かれている「光」の教理ではなく、聖書を逸脱した「闇」(サタン)の教理です。

それから教理だけに限らず、アメリカでは正しいクリスチャン、たとえば、聖書の御言葉に基づいて同性愛の罪について指摘をした少年が停学処分を受けてしまったり、または、聖書とハンドマイクを持って、「同性愛はやめましょう」と唱えたグループの人たちが逮捕されて数年にわたる禁固刑と多額な罰金を科せられたと、そのようなことを耳にします。

こういった話を聞いて、この時代が「光」と言えるでしょうか?どう考えても、「闇」とか「夜中」という表現のほうがしっくりとくるのではないでしょうか?

説明が長くなりましたが、そう、イエス・キリストは、キリスト教会やクリスチャンの教理や霊がどうしようもなくおかしくなってしまった果てに、正しいクリスチャンを救うために来られるのです。

ゆえに、多くのクリスチャンがイメージしているように、教会が栄光のからだになるとか、艱難を通らずに挙げられるとか、再臨はすべてのクリスチャンにとってハッピーの時ということには、残念ながら、そうはならないようです。

それどころか、黙示録には再臨に関しての厳しい記述があります。

 

参照 黙示録1:7

1:7 見よ、彼が、雲に乗って来られる。すべての目、ことに彼を突き刺した者たちが、彼を見る。地上の諸族はみな、彼のゆえに嘆く。しかり。アーメン。

 

ここにもキリストの再臨の様子について書かれています。「すべての目」とは、神さまが天地万物を創られてからその時に至るまでの、全ての人々のことを言われているのではないかと思います。もちろん、その中には私自身も含まれます。そして、「彼を突き刺した者」と、書かれています。「彼」とは、キリストのことです。「私はキリストの時代にいなかったのだから関係が無い」と言われるかもしれませんが、「ことばは神であった」とヨハネの福音書に書かれているように、要するに、御言葉を曲解したり御言葉に聞き従わなかった人たちのことを言われているのです。そういう人たちにとっては、「彼のゆえに嘆く」とあるように、キリストの再臨はハッピーというより、アンラッキーと言いますか、いえいえ、そんな生易しいものではなく、この上ない、「悲劇の時」となるのではないかと思います。

まして、さっき少し話しましたように、「携挙されるから大丈夫」なんて、思っているクリスチャンにとっては、思いもかけない時になると思います。

まさにⅠテサロニケ人への手紙3節の御言葉、「突如として滅びが彼らに襲いかかります」が、そういった人々の上にそのまま成就していくと思います。

「永遠の命」を予定していた人たちが、なんと、「滅び」に入ってしまうのです。

このことは非常に恐ろしいことなので、厳粛に考えていかなければいけません。

そういったことに関連して黙示録にはこのような御言葉があるのですが、ご存知でしょうか?

 

参照 黙示録3:3

3:3 だから、あなたがどのように受け、また聞いたのかを思い出しなさい。それを堅く守り、また悔い改めなさい。もし、目をさまさなければ、わたしは盗人のように来る。あなたには、わたしがいつあなたのところに来るか、決してわからない。

 

この箇所でも、主が盗人のように来ることについて書かれています。それに続いて「あなたには、わたしがいつあなたのところに来るか、決してわからない」と言われています。

この言葉は非常に暗示的なことを語っています。

ちなみにこの言葉は、誰に対して語っているのか?と、言うと、サルデス(プロテスタント)の教会に対して言っています。

何を言っているのか?と、言うと、艱難前携挙説を盲信している多くのプロテスタントの信徒の人たちは、歩みの方向を変えないのなら、キリストの再臨の時を理解できない、ということを言われているのです。

しかも、「決してわからない」と、言われているように、悔い改めないかぎり、「再臨の時を正しく悟ることが絶対にない」ということを言っているのです。

もし、これからの時代やキリスト教会がどういう方向に進み、キリストがどういった時に来られるのか?を把握しておられないのでしたら非常に危険だということです。

少なくとも、「艱難前携挙説」の教理が誤りであるということに目覚めていかなければ、正しい方向性をとらえるのは期待しないほうが良いと思います。

もちろん誤りはそれだけではないのですが、まずはそこから脱していくことをおすすめいたします。

そうでないと主の再臨の時が分からないまま、これからも間違えた方向を歩むことになってしまうからです。

そしてそのまま方向を変えないのなら、キリストの再臨のときに、主にまみえるのは厳しいと思います。

残念ながら今のキリスト教会の常識に従っていくときに、「再臨」のことをはじめ、あらゆる真理に関して盲目になってしまいますので、気をつけていきたいと思います。

それこそ、「闇」、すなわち「夜中」(誤った教理の中)にいることを理解して、間違えているところは、どんどん方向を変えていかないと、滅んでしまいますので・・・

今が、「昼」ならいいのですが、そうではないということをきちんと把握して、光(真理)を求めていきたいと思います。

きちんと光(真理)にとどまるなら、そのあとの4節以降に書かれているように、「あなたがたは暗闇の中にいないのですから、その日が、盗人のようにあなたがたを襲うことはありません」の言葉が成就していきますので、ぜひ、そうしていきたいと思います。こういった点に関しても、みておいていただけたらと思います。

 

私も、「キリストの再臨」に関して随分長い間、勘違いをしていました。そのことに関してはエレミヤの部屋のHPのメッセージやレムナントキリスト教会に行くようになってから、神さまの憐れみによって、少しずつ目(霊的な)が開かれていきました。本当にとてもお気楽に考えていて、「再臨のときに自分は必ずキリストに受け入れられる」と、思っていました。でも、本日の御言葉もそうですが、御言葉に沿って教理を学んでいくうちに、「常に歩みを正していかなければ大変なことになる。それこそイエスさまに、『あなたのことは知らないと言われてしまうだろう』」と思いました。生きている間は、常に途上の身だということをわきまえて、益々御言葉に堅く立っていけるように祈り求めて、残されている地上の生涯をおごそかに慎み深く過ごしていきたいと、本日の箇所を通して、新たに決意させられたように思いました。いつも大切なことを語ってくださる神さまに栄光と誉れがありますように。