聖書箇所 Ⅰテモテへの手紙1:19,20

 

1:19 ある人たちは、正しい良心を捨てて、信仰の破船に会いました。

1:20 その中には、ヒメナオとアレキサンデルがいます。私は、彼らをサタンに引き渡しました。それは、神をけがしてはならないことを、彼らに学ばせるためです。

 

「イエス・キリストの権能」というテーマで、御言葉に沿ってみていきたいと思います。

 

1:19 ある人たちは、正しい良心を捨てて、信仰の破船に会いました。

 

「ある人たち」とはパウロと同じクリスチャン仲間の人たちのことです。「信仰の破船に会いました」と書かれているように、クリスチャンと呼ばれる人の中に信仰が崩壊してしまう人がいることが分かります。なぜ、そんなことになるのか?と言うと、その前に書かれているように「正しい良心を捨てて」しまったために、そのような目に会ってしまうのです。ですからクリスチャンだからといって、皆が皆、正しく信仰の歩みをしているわけではないことが理解できます。次を見ます。

 

1:20 その中には、ヒメナオとアレキサンデルがいます。私は、彼らをサタンに引き渡しました。それは、神をけがしてはならないことを、彼らに学ばせるためです。

 

この節では正しい良心を捨ててしまった人に対してパウロが取った措置について書かれています。

パウロが何をしたのか?と言うと、ここに書かれているように、そういう人たちをサタンに引き渡したのです。

ちょっとビックリですよね?少し厳しすぎるのでは?と、思わなくもありません。

でも、これは正しいことなのです。なぜか?「それは、神をけがしてはならないことを、彼らに学ばせるためです」と書かれているように、そういう人たちがきちんと悔い改めて神さまに立ち返るためだからです。そして、このことは聖書で言われている一つの方法なのです。

ここで分かることは、パウロはむやみに権威を行使しているわけではないということです。ちゃんとした目的があってそのことをおこなっているのです。そのことに関しては他の聖書箇所にも書かれています。

 

参照 Ⅰコリント人への手紙5:15

5:1 あなたがたの間に不品行があるということが言われています。しかもそれは、異邦人の中にもないほどの不品行で、父の妻を妻にしている者がいるとのことです。

5:2 それなのに、あなたがたは誇り高ぶっています。そればかりか、そのような行ないをしている者をあなたがたの中から取り除こうとして悲しむこともなかったのです。

5:3 私のほうでは、からだはそこにいなくても心はそこにおり、現にそこにいるのと同じように、そのような行ないをした者を主イエスの御名によってすでにさばきました。

5:4 あなたがたが集まったときに、私も、霊においてともにおり、私たちの主イエスの権能をもって、

5:5 このような者をサタンに引き渡したのです。それは彼の肉が滅ぼされるためですが、それによって彼の霊が主の日に救われるためです

 

ここでパウロは罪を悔い改めようとしない人たちに対して主イエスの名によってさばかれたことについて書かれています。本来ならクリスチャンの間に1節のようなことをあってはならないことですし、もし万一、そういう過ちを犯してしまったら、直ちに悔い改めるべきなのですが、まったく反省の色もなく、それどころか2節に書かれているように誇り高ぶっていて、取り除いたり悲しんだりしなかったのです。罪に対して、居直ってしまっているのです。それに対してパウロは「NG!」と思って、4節に書かれているように「主イエスの権能」によって、そういう人たちをサタンに引き渡したのです。

 

「パウロって短気な人!もっと寛容になってもいいじゃない?そこまでしなくてもいいじゃない?」と思われるかも知れません。でも、よく読んでみるとそうではありませんよね。ここにもちゃんと理由が書かれていますよね。

「それによって彼の霊が主の日に救われるためです」と。この御言葉から、パウロが自分の感情や気分や思いでそうしたわけではないことが分かりますよね。過ちに陥ってしまった人たちが、正しい道に戻ることができるように、愛をもっておこなっていることが理解できるのではないでしょうか?少なくとも、私にはそんな風に読み取れます。

 

そして、本日の箇所もそうですし、今読んだⅠコリント人への手紙も同じことが言えるのですが、パウロがこのように権威を行使したら、本当にその通りになってしまうのです。以前も少し話したかも知れませんが、ペテロやパウロのようにキリストの弟子として歩んでいる人には「天の御国のかぎ」が授けられるのです。

 

参照 マタイ16:19

16:19 わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。」

 

このことはイエスさまがペテロに対して言われた言葉です。ペテロは弟子の筆頭格です。ゆえに今の時代も、キリストの弟子として歩む人たちにはこのような権威が与えられているのです。ちなみに「天の御国のかぎ」は「主イエスの権能」と同じ意味合いです。主が「天の御国のかぎを上げます」と言われた以上、そういう「かぎ」があるという点に関しては、理解されておいたほうがよいと思います。そして、「何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。」と言われているように、もし行使した場合には、本当に実現してしまうということについても、きちんととらえておきたいと思います。そのことに関して以前もサンプルとして挙げましたが、使徒の働きに書かれているアナニヤとサッピラにおいてもこのことは成就しています。ペテロの初代教会の時代、人々は自分たちのすべての持ち物を売り払ってその代金を使徒たちの足元に置いて、必要に従って分け与えられていました。ところがアナニヤと妻のサッピラは地所の代金の一部を残してある部分を持ってきて使徒たちの足元に置きました。そして彼らの偽善を見抜いたペテロは、「アナニヤ。どうしてあなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、地所の代金の一部を自分のために残しておいたのか。それはもともとあなたのものであり、売ってからもあなたの自由になったのではないか。なぜこのようなことをたくらんだのか。あなたは人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」と、言い、アナニヤはすぐに倒れて息が絶えました。数時間後、妻のサッピラも同じように息が絶え、死にました。まさにキリストから与えられた天の御国のかぎを用いられたと、そんな風に理解できます。また、ペテロのように、キリストの弟子として歩んでいる人は、人々の偽善を見抜く力も与えられているのだと思います。なぜ、そんなことが言えるのか?と、言うとさっき引用したⅠコリント人への手紙の3節を読むとそのことが分かります。

 

5:3 私のほうでは、からだはそこにいなくても心はそこにおり、現にそこにいるのと同じように、そのような行ないをした者を主イエスの御名によってすでにさばきました。

 

「からだはそこにいなくても」と書かれているように、パウロは実際にコリントの教会にいなかったのですが、彼らの不品行を見ていたのです。「ええっ?そんなはずないでしょう!!神さまじゃあるまいし!」と思われるでしょう。そうです、たしかにパウロにしてもペテロにしても神さまではありません。私たちと同じ人間です。でも、神さまの霊を宿している人には、そういうことも御霊さまが教えてくださるのではないでしょうか?そのことについて具体的なことは書かれていませんが、聖書の中にこういった記述があるということは、そうなのでは?と、私個人としては思うのですがいかがでしょうか?何を申し上げたいのか?と、言うと、人の前にはいくらごまかせても、神さまの御霊だけは侮れないということです。そして神さまが「ん?これは?!」と思う人に対しては、ペテロやパウロのような働き人を通して、主御自身が権威、つまり権能を行使されるのです。そうなんです、あまりにも不従順だったり、反発的な人たちに対して、神さまは働き人を通して権威を用いられるのです。また、何度も申し上げていますように、それはその人がきちんと悔い改めていくためのものなのです。そう、その人自身がきちんと気付いて悔い改めていくことが大事なのです。そしてきちんと悔い改めるなら、神さまは憐れんでくださって、恵みや祝福を与えてくださるのです。人をさばくためというより、正しい道に立ち返らせるために、そういうものを用いられるのです。人間的にはかなり乱暴な方法だなぁと思わなくもないのですが、このことも神さまの愛の一つの方法であるということは正しく理解していきたいと思います。

 

そう、もしも私たちが正しい良心を捨ててしまったり、罪を示されてもいつまでも頑なになって悔い改めを拒むなら・・・こういった措置を神さまの働き人を通して主ご自身がなさるという点に関しては、よくよく理解して神さまに恐れをもって歩んでいきたいと思います。補足までに、サタンに引き渡されると、どんな風になってしまうか?と、言うと、霊的に正しく見たり聞いたりすることができなくなってしまいます。でも、そうではあっても、「自分が悪かった、高ぶってしまっていた、罪を悔い改めるべきなのにそうしなかった」ということに気付いて自らの意志で神さまの前にへりくだって悔い改めていくなら、神さまは赦してくださり、憐れんでくださり、以前にもまさる恵みや祝福を注いでくださいますので決して頑なになることなく、素直になって悔い改めていきたいと思います。こういった点に関してもみておいていただけたらと思います。

 

本日の箇所は決して他人事ではないと、自分にも十分心当たりがありますし、いつも気を付けていかなければいけないと思います。色々なことを通して、時折神さまから「頑なさ」というのを示されます。その時にすぐに悔い改められる時もありますし、反面、悪いと思っていても、なかなか素直に自分の罪を認められずに頑なになってしまうことがあります。そんな時に何が起こるのか?と、言うと、本日の御言葉ではありませんが、「良くない思い」に陥ってしまいます。つまりサタンに引き渡されてしまいます。その時にはじめて目が覚めます。「自分は頑なになっていて悔い改めを拒んでいた」ということに気付きます。そして、心の底から「悪かった」と素直に認め、「神さま、どうか赦してください。いつまでも頑なでごめんなさい。どうか憐れんでくださって、聖霊さまの力によって完全に悔い改めていくことができますように。」というお祈りに導いていただくことができます。おかしな話かも知れませんが、サタンに引き渡されて痛い目に会って、はじめて「こんなことは二度としてはいけない」と、思えるのだなぁと、神さまの罰は厳しいけれど、これこそ神さまの大いなる愛なのだなぁということを実感することが幾度かありました。ではあっても、サタンに引き渡されることのないように神さまに憐れみを求めていきたいですし、気を付けていきたいと思います。はじめから何も失敗しないのがベストなのかも知れませんが、自分の苦い経験やつたない体験を通して一人でも多くの人の益になれば?と、思い、証をさせていただきました。本日も大切なことを語ってくださった主に心から感謝します。