聖書箇所 Ⅰテモテへの手紙2:13

 

2:1 そこで、まず初めに、このことを勧めます。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。

2:2 それは、私たちが敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすためです。

2:3 そうすることは、私たちの救い主である神の御前において良いことであり、喜ばれることなのです。

2:4 神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。

 

「とりなしの中で御わざを成してくださる神」というテーマで、御言葉に沿ってみていきたいと思います。

 

本日の箇所は1章の18節、「私の子テモテよ。以前あなたについてなされた預言に従って、私はあなたにこの命令をゆだねます。それは、あなたがあの預言によって、信仰と正しい良心を保ち、勇敢に戦い抜くためです」の言葉に続くものです。

このことからテモテはかつて預言を受けていたことが分かります。どんな預言だったのか?詳細に関しての記述は見当たらないのですが、恐らく2章の1節でパウロが語っているようなことが示されたのではないかと思います。

 

順にみていきます。

 

2:1 そこで、まず初めに、このことを勧めます。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。

パウロはテモテへの手紙の中でこのようなことを言われています。しかし単にテモテ個人に対して言われているのではなく、神の民すなわちクリスチャンに対して言われている言葉です。ちなみに「高い地位」のところはKJV訳では「権威」という言葉が使われています。ここに書かれているように、すべての人とすべての王と権威ある立場の人たちのために願いと祈りととりなしと感謝をささげなさいと言われているのです。このことはその通り実践されることをおすすめします。なぜ、そうするのをパウロが勧めているのか?その理由が24節に書かかれています。

 

2:2 それは、私たちが敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすためです。

2:3 そうすることは、私たちの救い主である神の御前において良いことであり、喜ばれることなのです。

2:4 神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。

2節の「威厳をもって」のところは、英語では「正直に」という風に訳されています。また、「敬虔」のところは「信心」と書かれています。もし、1節のことを素直に実践していくときに、私たちは生涯、信心をもって平安で静かで正直な日々を送ることが約束されているのです。「正直」というのは恐らく「神の前に偽りの無い」とそんな風なニュアンスなのでは?と、私個人はそのように解釈しています。さらにそれだけでなく、3節に書かれているように、そのことは神の御前に喜んでいただけることなのです。昨今、世の中はどちらかと言えば、「正直」よりも「偽り」を好むような傾向にありますし、「信心」なんて言うと時代遅れみたいな目で見られそうですし、まして情報が発達して時代がめまぐるしく変化しているさなか、「平安で静か」という言葉はどこかに飛んでしまっているように思います。なので、パウロがお勧めしている生き方は人前、あるいは世の中には受け入れられづらいものかも知れません。ある意味、とても地道なことですので・・・また、それはこの世のことだけでなく、キリスト教会やクリスチャンの間でも同じ流れなのでは?と思います。たとえば聖霊に満たされるためにリバイバル集会に出かけたり、霊的な刺激が欲しいと言わんばかりにキリスト教書店にまっしぐらだったり、やれ何か問題が起きるとカウンセリングを受けたりと。そのときどきにおいて色々なブームがあると思いますが、お祈りや聖書の読み込みが二の次、三の次になっているのでは?と思うのですが気のせいでしょうか?

 

さて、話は少しそれましたが、神さまはそれよりも何よりも私たちが2節に書かれているようになって欲しいと思っておられるのです。もし本当に私たちがそのようなクリスチャン生活を送っていくのなら、4節の御言葉が成就していくのです。人々が救われて真理を知るようになっていくのです。すべての人が救われるのかどうかは分かりませんが、救われるべき人が救われて真理を見るのではないかと思います。そのためにはどうするのか?再び1節の御言葉に戻りますが、すべての人とすべての王と権威ある立場の人たちのためにとりなしていくのです。4節で主が望んでおられるように、私たちクリスチャンもすべての人が救われるのを願っていますよね?もちろんその思いや気持ちは大事なことですし、主はそのことも尊んでくださいます。でも、それだけで終わるのではなく、聖書に書かれていますように祈りととりなしをしていきたいと思います。さらに私たちを通してとりなしてくださる神さまに喜びをもって感謝を捧げながら成していきたいと思います。そうすると、繰り返しになりますが、私たちは神さまの前に偽りの無い信心で、なおかつ平安で静かな一生を送ることができるのです。そしてその延長線において、人々が救われたり真理を見たりするようになっていくのです。でも、ある人はこのようにおっしゃるでしょう。「自分のことで精一杯で人さまの祈りどころではない」と。そのお気持ちも察します。以前の私もそうでしたので・・・でも、ある時から、人のこと、特に救いに関して熱心に祈らせていただくようになりました。証になるかどうか分かりませんが、今から7,8年前から救霊のためのお祈りを私の祈りの日課としてきました。その結果今に至るまで身近な人が誰か救われたか?と言うと、私の家族や親族、友人、知人の中で救われた人は未だ皆無です。そんな風に聞くと、「なんだぁー、それじゃ意味が無い。そんな祈りを熱心にする必要なんてないかもね。時間の無駄だし、損した気分になるだけじゃない。」と思われるかも知れません。たしかに当初、しばらくの間、私も「いったい、こんなことが何になるの?」という風に思ったこともありました。でも、そうではない、ということをここ最近、礼拝のメッセージや聖書の御言葉やお祈りを通して教えられました。これも「信仰」をもっておこなっていくことが大事、たとえまったくお会いしたことのない人であったとしても、きっと多くの人が救われているのでは?と思うようになりました。神さまは御心のお祈りは必ず答えてくださるのだから、私が知らないところで、沢山の救いのわざを成してくださっているのでは?と、今では信じています。なので、これからも人々の救いのことを願い、感謝の中でとりなしと祈りを捧げていきたいと思います。また以前行っていた教会で、すべての王と権威ある立場の人たちのとりなしをおすすめしていたので、このことも細々と続けさせていただいています。ただ、最近「王」のとりなしについては少しサボっていましたので、本日の御言葉をきっかけに再開していきたいと思います。

 

繰り返すようですが、すべての人とすべての王と権威ある立場の人たちのために願い、とりなし、祈り、感謝を捧げていくように心がけていき、できればそのことを日課としていきたいと思います。こういったことに関しても、きちんと実践していくときに、人々の救いだけにとどまらず、お一人一人の魂の安全を確保することになりますので、ぜひおすすめいたします。そして、とりなしの中で神さまは確実にわざを成してくださるのでそのことを信じておこなっていきたいと思います。本日も大切なポイントを語ってくださった神さまに栄光と誉れがありますように。