聖書箇所 Ⅰテモテへの手紙3:11

 

3:11 婦人執事も、威厳があり、悪口を言わず、自分を制し、すべてに忠実な人でなければなりません。

 

「主が選ぶ奉仕者の基準」というテーマで、御言葉に沿ってみていきたいと思います。

 

ここでは、婦人執事の条件に関して書かれています。エレミヤ牧師から教えていただいたことですが、「執事」とは、ギリシャ語で「使い走り」という風に訳されていて、「あらゆる雑用をする」という意味合いだということです。簡単に言うと、女性の奉仕者ということです。ただしその前の8節においても「執事」のことに関して、同じようなことが書かれていますし、「女」は教会のたとえでもありますので、この御言葉は女性奉仕者だけのことを言われているのではなく、男女問わず、神さまの奉仕を担う働き人や教会全体の奉仕のことも言われているのではないかと思います。そういった概念に基づいて本日の箇所をみていきたいと思います。

 

順にみていきます。

 

「威厳があり」

この箇所はKJV訳では、「まじめな」「厳粛な」「落ち着いた」とあります。「女性執事」という言葉から、私は、落ち着きのある人、とそんな風に解釈しました。色々なことにあまり気を取られない、いわばマリヤとマルタで言えば、マリヤみたいなタイプの人のことを言われているのではないでしょうか。たしかにマルタは主をもてなすために、あの奉仕、この奉仕と一生懸命おこなっていました。しかし主のそばから離れずに、主の話をただじっと聞いていたマリヤのことを主は誉めてくださいました。マリヤとマルタの二人の女性、このことも型であって、二人は二種類の教会を指すと思います。片や主の声を優先して奉仕を進める教会、一方奉仕はするけれど、神の声よりも教会の方針や自分たちの考えを優先する教会という風に、神の前には二分するのではないかと思います。奉仕を進めることは大切、ではあってもその前に、まず神さまの声を伺う、そのような信仰姿勢に御心があるということを言われているのではないかと思います。また、神さまの声を聞くには祈りが必須です。祈りによって神さまの声を聞いてはじめて、神さまが意図されている奉仕を成していけます。しかし何も祈らずに、神さまの声を聞かずに進めていくときに、御心からズレた奉仕に入ってしまう可能性があるので気をつけていきたいと思います。ですからマリヤのように腰を据えて、祈りによってキリストの声を聞いて奉仕を成していきたいと思います。

 

「悪口を言わず、自分を制し」

たとえ自分が正しいと思っていても、あるいは人の過ちや弱点に気づいたとしても、人の悪口を言ったり批判したり非難することにポイントはありません。そういうことをしていくときに、いつの間にかサタンの思うツボになり、いくら神さまの働きをしている、自分は正しいことをしていると言っても、敵に悪いように用いられてしまうのです。あわやせっかくの奉仕が台無しになってしまうので、よくよく気をつけていきたいと思います。また、「自分を制し」のところは、“sober”という言葉が使われています。「酔っていない、しらふの、禁酒している」という意味合いです。「私はお酒なんか飲まないから酔うことはない!」とおっしゃるかも知れません。ただ、ここで言われている「酔う」という言葉は、単にビールやワインを飲まないということだけではなく、霊的な事柄に関しても言われています。「酔う」という言葉は、「霊的な働き」と密接な関係があります。私たちは聖霊か悪霊のいずれかの霊の影響を受けますが、ここでは「悪霊」の働きのことを指します。つまり悪い霊の影響を受けてはダメだということを言われているのです。「悪口を言わず」の言葉に続いてこのようなことが書かれているので、人の悪口を言うときに、悪い霊の支配下に置かれてしまうので気をつけていきなさい、ということを言われているのではないかと思います。つまり、いつも聖霊に満たされている奉仕者に御心があり、そのような人を神さまは働き人として用いてくださるのではないかと思います。

 

「すべてに忠実な人」

神さまの奉仕を担うにあたって、「忠実」におこなっていくことにポイントがあります。ペテロやヨハネやヤコブやパウロのように、私たちも神さまの働きを忠実におこなうなら、後の世において報いを受けます。このような御言葉があります。

 

参照 マタイ25:20,21

25:20 すると、五タラント預かった者が来て、もう五タラント差し出して言った。『ご主人さま。私に五タラント預けてくださいましたが、ご覧ください。私はさらに五タラントもうけました。』

25:21 その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』

 

「わずかな物に忠実だったから」とあるように、事の大小を問わず、神さまから任された奉仕を忠実におこなっていくときに、「あなたにたくさんの物を任せよう」と、そのように神さまからの大いなる報いを受けるのです。この御言葉から私は思わずこんな御言葉を思い浮かべます。黙示録に「わたしは、あなたの行ないを知っている。見よ。わたしは、だれも閉じることのできない門を、あなたの前に開いておいた。あなたには少しばかりの力があって、わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかったからである。」と書かれています。私たちには、ほんのわずかしか力が無いかも知れません。しかしそうではあっても、主に忠実に捧げていくときに、主がどれもこれも最善に用いてくださるのです。また、小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。」ともありますように、どんなに小さなことであっても、一つ一つのことを神さまの前に忠実に成していくことにポイントがあるのでは?そしてそのことを神さまはとても喜んでくださるのでは?と、思います。そして「すべてに」とあるように、地道にコツコツと積み重ねていくことに御心があるのではないかと思います。そのような人が神さまの前に「奉仕者」と認めていただけるのでは?と思います。一方、「小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。」のように、不忠実だと神さまには喜んでいただけないことが理解できます。そしてあまりにも不忠実だと、どうなるのか?もしも最後まで悔い改めないならどんな風になってしまうのか?と言うと、イエスさまを裏切ったイスカリオテのユダのような結末になってしまいますので、気をつけていきたいと思います。

 

本日のポイントをまとめます。

①奉仕をする際に祈りは必須です。一にも二にも、祈りを優先していきましょう。祈らずに進めていくときに、ポイントからズレてしまう可能性があるのでくれぐれもよく祈っておこなっていきましょう。

 

②悪い霊の影響から守られていきましょう。そのためにも、口の実を刈り取ることのないように注意していきましょう。多少なりとも不本意であったり不当だと思うようなことがあっても、そのことを他の人に言ったりするのはやめましょう。そういうことで、サタンに隙を与えることがないように気をつけていきましょう。不平、不満、そしり、ねたみをはじめ、悪い言葉は一切封じていきましょう。むしろ感謝を捧げ、いつも聖霊さまによって内側が支配されていくように祈り求めていきましょう。

 

③すべてのことを神さまの前に忠実におこなっていきましょう。また、心から喜んで捧げていきましょう。御言葉にも、「神は喜んで与える人を愛してくださる」とあります。奉仕をしていく中で、多少なりとも損だなぁと思うこともあるかも知れませんが、せっかく主が与えてくださった働きですので、ぜひ喜んですべてのことを成していきたいと思います。すべてのことに神さまが報いてくださいので、そのことに絶えず視点を置いて働きをしていきたいと思います。

 

以上のことを実践していくときに、神さまの前に喜ばれる奉仕者となっていきますので、ぜひ、そのように心がけていきたいと思います。そして後の世において、「よくやった、良い忠実なしもべだ」という風に神さまからの誉れや大いなる報いを得ていきたいと思います。

 

最近、礼拝のメッセージを通して、同じ神の奉仕者と呼ばれる人の中に、名目は神のためと言いながら、実際のところは自分の野心に仕えている人もいるということを聞きました。そして神さまはその人の心の動機までもシビアに観察されているということを教えていただきました。そのことを聞いて、自分も一歩間違えるといつでもそうなるのでは?いいえ、この世はサタンが支配しているので、よほど意識しないかぎり、むしろそういう方向性に傾きやすいのでは?と、思いました。どんなことも心から喜んでおこなっているか?主をほめたたえて感謝して成しているか?そのあたりのことを聖霊にあって客観的に自分自身の内側を絶えず点検しながら神さまにお仕えしていくことは大切なのでは?と思いました。本日のメッセージではありませんが、ふと気がつくと無意識のうちにも何か批判的な思いや否定的な思いになってしまっていることも多々あると思いましたので、気をつけていきたいと思いました。いつも大切なことを語ってくださる神さまに栄光と誉れがありますように。主に感謝して。