聖書箇所 Ⅰテモテへの手紙4:79

 

4:7 俗悪な、年寄り女がするような空想話を避けなさい。むしろ、敬虔のために自分を鍛練しなさい。

4:8 肉体の鍛練もいくらかは有益ですが、今のいのちと未来のいのちが約束されている敬虔は、すべてに有益です。

4:9 このことばは、真実であり、そのまま受け入れるに値することばです。

 

「霊的な訓練に励む」というテーマで、御言葉に沿ってみていきたいと思います。

 

突然ですが、クリスチャンが天の御国に入るためには「悪しき霊との戦い」が必要なことをご存知でしょうか?Ⅰテモテの手紙6章にはこんな風に書かれています。

 

参照 Ⅰテモテ6:12

6:12 信仰の戦いを勇敢に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい。あなたはこのために召され、また、多くの証人たちの前でりっぱな告白をしました。

 

また、エペソの手紙に、こんな御言葉があります。

 

参照 エペソ6:12

6:12 私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。

 

昨今、教会やクリスチャンの間で、「信仰の戦い」なんてことはあまり耳にしないかも知れません。全く言ないわけではないかも知れませんが、クリスチャンは皆、エスカレーター式に天国に行けるとか、艱難は通らないで携挙されるというような聖書的に全く根拠の無い偽りの教理が大手を振っているので、あまりしゃかりきに信仰生活を送らなくても大丈夫というような風潮はないでしょうか?しかし、もし私たちが本当に天の御国に入りたいのなら、「信仰の戦い」が必須であることを、どうかご理解ください。具体的にはエペソに書かれているように「悪霊」と格闘をしなければいけないのです。えっ?そんなこと知らない!なんて言っている場合ではないのです。自慢するわけではありませんが、こんな風にメッセージをタイピングしている私自身も格闘の日々を送っています。このことは、後ほど証で触れたいと思います。

 

さて、本日の御言葉では、肉体の鍛錬もいくらかは有益、けれども敬虔の鍛錬はすべてに有益であることについて言われています。

ちなみに「鍛錬」という言葉は英語では“訓練”と訳されています。「肉体」と言うと、たしかに健康を保つためにウォーキングやストレッチをしたりすることをイメージしますが、聖書で言われている「肉」の意味合いは、「罪」とか「死」とか「生まれつきの能力や性質」を指すことから、この世的な事柄の全般に関することを指しているのではないかと思います。ですから単に体を鍛えるだけでなく、勉学に励んだり、ビジネスにまい進したりと、そういったことも含まれるのでは?と思います。たしかに生活を送っていく上で、ある程度の経済は必要かも知れません。また、進学するためには勉強に勤しむことも大事でしょう。健康を維持するために、体を動かしたり無添加の食品を求めたりするのも良いことなのかも知れません。でも、それよりも何よりも大事なことを見落としてはいけません。それは、「今のいのちと未来のいのちが約束されている敬虔」のための訓練です。肉体に関することも、全く無意味なわけではないのですが、どこまでいっても、また、どんなに良いものであってもこの地上だけのことにしか過ぎません。地上での人生が終わったら、すべてパーになるのです。たとえ財産を10億円持っていようと、IQがズバ抜けて高かったとしても、死んだら全く無意味なのです。こと、神さまの前にはそうなのです。しかし、もし私たちが「敬虔」を求めてそのことを身に付けていくのなら、地上で命を失ったとしても、それは永遠に残るのです。「すべてに有益」と書かれているように、損することはひとつも無いのです。また、「敬虔」のところは、英語では“神のおきてに従順”と訳されています。

 

そして“神のおきてに従順”になるためには、霊的な訓練に励んでいくことが必須なのです。なぜか?言うまでもなく、この世はサタンが支配しています。また、サタンは「反逆者」とも言われています。サタンは常に神さまに逆らう存在です。つまり「従順」をとても嫌うのです。ですから私たちが“神のおきてに従順”になろうとするときに、敵が必ず妨害してくることを想定して歩んでいかなければいけません。そうでないと、「なぜ、うまくいかないんだろう?」とか「もう、やっていられない!」なんていう思いになってしまうからです。サタンは絶えず御言葉とは逆方向のことばかりを示してきます。そして、いつもサタンの言いなりになってしまったらどうなるのか?と言うと、敗北の連続となり、最後は滅んでしまうのです。つまり永遠の命をゲットできなくなるのです。そんな風になっていく原因は何か?と言うと、「霊的な訓練」をしていないからです。

 

「霊的な訓練」はそんなに難しいことではありません。とても単純です。要はいつも申し上げているように、「祈り」と「御言葉の読み込み」です。毎日このことにある程度の時間を割くことです。いずれも5分、10分ではダメです。30分でも、厳しいです。また、12章しか読まないというのもNGです。「私たちはもっぱら祈りと御言葉の奉仕にむことにします」とか「絶えず祈りなさい」という御言葉が、おおよその目安になるのではないかと思います。私個人は、そのあたりを基準にして日々の信仰生活の中にこのことを取り入れています。たしかに多少の犠牲は伴います。テレビを見たり、新聞を読んだり、インターネットを楽しんだりという時間は、ほぼありません。もちろん生活のために最低限しなければいけないこともありますが、それ以外は、なるべく訓練や神さまの働きのために時間を費やしています。こんなことを言うと、この世の人や大半のクリスチャンからも、「何もそこまでしなくても」と言われてしまうかも知れませんが、パウロが「もし私たちが気が狂っているとすれば、それはただ神のためであり、」と言われているように、悪しき霊と戦うためにはひたすら霊的なことに集中することにポイントがあるのでは?と私個人はそのように理解しています。また、何と言っても、永遠の命が、かかっていることなので、多少の犠牲を払ったとしても、それだけの価値が十分あると思います。永遠、つまり後の世はエンドレスの世界です。そのように考えていくなら、地上での多少の労苦を惜しんでしまうのは、損だと思いますし、千載の悔いを残すことになってしまうと思います。もちろん、人それぞれ価値観がありますので、押し付けるつもりはまったくありません。でも、永遠の命を何が何でも得たいという方には、ぜひ耳を傾けていただきたいと思います。ただ、そうではあっても、そんな時間なんか取れっこない!と、言われるか方もいるかもしれません。別に一日中椅子に、じーっと座って祈り、聖書を読みなさいと言っているのではなく、たとえば道を歩きながらでも、仕事の合間とか家事をしながらでも祈ることはできます。参考までに・・・かつてレムナントの礼拝でのメッセージの中で、エレミヤ牧師が語っていたのですが、エレミヤ牧師はまだ会社に勤めていた時、

周囲の人には気付かれないように配慮しつつ、異言でのお祈りをしながらお仕事をされていたそうです。形はどうであれ、お祈りすることにポイントがあるのです。そして神さまはお聞き届けてくださるのです。聖書の読み込みに関してですが、もし電車で通勤されていらっしゃるのでしたら、電車の中でも聖書は読めませんか?天候が良ければ、多少周囲に配慮しつつ、歩行しながらでも読めるのではないでしょうか?あるいは時間がゆるすのでしたら、お昼休みとかも利用してみてはいかがでしょうか?もしかすると、祈っていったらもっとも良い方法がさらに与えられるのではないでしょうか?

 

たしかに私たちが地上で生活している以上、どうしても世の中のことはくっついてきますので、それを全く無視するわけにはいきませんよね。でも、その場の状況に応じて祈ったり聖書を読んだりすることはできるのです。もしも私たちが世の中のこと、つまり肉的なことばかりに、あるいは、それのみに引っ張られていくのなら、残念ながら敵に勝利することは出来ませんので、そのあたりのことはよくよく気をつけていきたいと思います。そして霊的な訓練を積んでいくときに、神さまから力や知恵や助けや導きが与えられて、悪しき霊との戦いに少しずつ勝利していくようになります。これは絶対に無理!と思うようなことがあっても、祈りによってひっくり返されていったりもします。そしてなぜ、そこまで「霊的な訓練」を強調するのかと言うと、パウロの時代もそうでしたが、今の時代もキリスト教会が曲がっていて、多くのクリスチャンがキリストの十字架を敵として歩んでいるからです。そういった状況の中で、神さまのおきてに従順にいくのは、ある意味、世の中の方向にあえて逆らっていくことになるので、色々な困難や苦難があります。ゆえに訓練が必須なのです。早起きをしたり、見たいテレビ番組を我慢したりと、多少の努力も必要ですが、このことを継続して、なおかつ神さまの御言葉に従順に従い続けていくときに恵みに入り、もっとも尊い永遠の命を得ていきますので、ぜひおすすめいたします。

 

メッセージの中でも書きましたように、時代が曲がっていて、悪いことがまかり通っているで、正直、生きづらい世の中だなぁーと、思わなくもないことが多いです。もちろんサタンがこの世を支配しているために仕方が無いことではありますが・・・ゆえにほとんど毎日が、悪しき霊との格闘の連続です。日々、訓練はしているのですが、ただそうではあっても、人を通して気落ちさせられたり、敵からダイレクトに体のあちこちに攻撃を受けたりもします。何とか神さまに従わせないという方向に敵は持っていこうとするのを霊においても肉においても感じます。そんな時は、「とにかく祈るしかない!」と思って、ひたすら祈ります。そして不思議なことに、祈りを積んでいく中で神さまからアドバイスをいただいたり、助けを受けたりして、思いや感情や体に来る攻撃に、打ち勝つことができます。正確には、神さまに勝利を取っていただいたという表現がピッタリかも知れません。反対に祈りに今ひとつ集中できなかったり、聖書を読んでいても上の空だったりする場合に、要は油断しているときに、敵にあっさりと敗北してしまいます。なので、「敬虔のために鍛錬する」ことは、本当に大事なことだなぁと思います。ふと気がつくと、別のことを考えている時間があったりもするのですが、可能なかぎり、心の思いを神さまに、ずっーと向けていられたらなぁと思います。本日も大切なことを語ってくださった神さまに栄光と誉れがありますように。