聖書箇所 Ⅰテモテへの手紙5:3

 

 

 

5:3 やもめの中でもほんとうのやもめを敬いなさい。

 

 

 

「やもめとなって歩む」というテーマで、御言葉に沿ってみていきたいと思います。

 

 

 

「やもめ」という言葉が出てきますが、このことが永遠の命を得ていくための条件になっていくことを、どうか覚えてください。その前に、誤解の無いように一言申し上げておきますが、既に結婚している女性が、無理に伴侶と別れる必要はまったくありません。既婚者が独身に戻って主に仕えなさいと言っているのではありません。何を申し上げたいのか?と言うと、男女問わず、結婚していようといまいと、この地上においてキリストだけを頼みとして歩んでいる人、つまりキリストだけに望みを置いている人が、聖書で言う「やもめ」なのです。

 

 

 

それと同じような表現で、「寄留者」「旅人」という言葉が聖書の中で使われています。これらの言葉も「やもめ」と似たような同じ意味合いです。この世のことに固執することなく、後の世に焦点を当てて歩みをしている人のことです。ヘブル人への手紙に、そういった御言葉があります。

 

 

 

参照 へブル人への手紙11:1316

 

11:13 これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。

 

11:14 彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。

 

11:15 もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。

 

11:16 しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。

 

 

 

たしかに私たちは、この地上で生きて生活しています。衣食住や交通機関等、ある程度は地上のものを用います。ではあっても、地上のことのみに目を注ぐのではなく、いつも「天の故郷」を仰ぎ見ていくことに御心があります。もし、実際にそんな風に歩みをしていくのなら、「都を用意しておられました」の御言葉が、そのまま成就していくのです。つまり天の御国が約束されるのです。反対に、どこまでもこの地に着いた歩みで生涯を終わらせてしまうとどうなるのか?と言うと、天の御国は非常に危ないものとなります。参考までに黙示録を見てみましょう。

 

 

 

参照 黙示録8:13

 

8:13 また私は見た。一羽のわしが中天を飛びながら、大声で言うのを聞いた。「わざわいが来る。わざわいが、わざわいが来る。地に住む人々に。あと三人の御使いがラッパを吹き鳴らそうとしている。」

 

 

 

「わざわいが来る。わざわいが、わざわいが来る。地に住む人々に」と書かれているように、「地に住む人々」「わざわい」が来ることが分かります。「わざわい」ですから、少なくとも良いことではありませんよね。窃盗に会ったとか、病気になったとか、それらもたしかに災いです。でも、聖書で言われている「わざわい」が、その程度で済むでしょうか?「わざわい」に関して、たとえばマタイの福音書の記述を参照してみましょう。

 

 

 

参照 マタイ23:1315

 

23:13 しかし、忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、人々から天の御国をさえぎっているのです。自分もはいらず、はいろうとしている人々をもはいらせないのです。

 

23:14 〔忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、やもめたちの家を食いつぶしていながら、見えのために長い祈りをするからです。ですから、あなたがたは、人一倍ひどい罰を受けます。〕

 

23:15 忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。改宗者をひとりつくるのに、海と陸とを飛び回り、改宗者ができると、その人を自分より倍も悪いゲヘナの子にするからです。

 

 

 

「忌まわしいものだ」とありますが、この箇所は、KJV訳だと、“woe”という単語が使われています。先に見た、黙示録の8章の「わざわい」という言葉にも、同じ単語が使われています。日本語で、「悲痛」「苦悩」「災難」という意味合いになります。そして下線を引いたところを見ていただきたいのですが、「わざわい」「ゲヘナ(火の池のさばき)は、どうもセットのようです。つまり後の世に受ける裁きと大いに関係があることが理解できます。色々と回りくどく説明してしまいましたが、寄留者ではなく、地に着いた(英語では「地に定住する」という意味合いがあるそうですが)歩みで終わるなら、御国を受け継ぐのは厳しいようです。それどころか、「ゲヘナ」という言葉が使われているように、“永遠の刑罰”に入る可能性があることをご理解いただきたいと思います。

 

 

 

レムナントキリスト教会のメッセージで繰り返し言われていることですが、私たちがこの世に対してどんな風に対応していくか?によって、後の世の行き先を大きく左右します。何を言いたいのか?と、言うとこの世で何か得ようとするなら、失敗したり、足をすくわれます。たとえば出世をしたい、有名になって一花咲かせたいなんていうことをどこまでも優先させていくときに、いつの間にか、この世の定住者となり、この世の未信者となんら変わらないなんてことになってしまうのです。その結果として、神さまから怒りを買い、御国に入れなくなる可能性があるのです。でも、「寄留者」とか「やもめ」の歩みに徹していくのなら、恵みや祝福に入ります。生涯、そのことに徹していくなら「天の御国」が約束されます。

 

 

 

以下は参考までに・・・

 

このことに関して、補足までに申し上げておきたいのですが、「やもめ」となっていくことは、それなりの決断を要することは、どうかご理解ください。少なくとも、世の中の価値観とは異なります。人間的に不利だったり理不尽だったりすることも許されます。場合によっては、イエスさまのように、人々から非難されたり、嘲られたり、蔑まされたり、罵られたりもします。つまり、十字架を背負う歩みとも言えるのです。それでも、やっていくのか?が、常に問われます。また、実行できるか否かは別として、キリストのためにすべてのことを捧げていくつもりがないと、こういう歩みには徹しきれません。少しでも保留があるなら、試練や困難が来たときに、あっさりと敵にひっくり返されます。そのことは前もって理解されておいてください。

 

 

 

それから聖書では、こういった歩みを一面奨励はしていますが、少なくとも万人向けではないことも、ご理解ください。と、言うのは、そんな風に歩んでいる人はほとんどいないからです。シビアな言い方で恐縮なのですが、良い教えを聞いても真剣に向き合っている人は、あまりいないように思うのですが、気のせいでしょうか?それこそ、「聞くには聞くが悟らず」という御言葉がありますように、神さまの御心を実践する人、あるいはしようとする人はほとんどいないように思うのですがいかがでしょうか?かと言って、そのことに関して、私なんかが、とやかく言うことでもありませんし、責めているのではありません。主がそうであるように、従うかどうかに関しては、その人の自由意志を大いに尊重したいと私も思っていますので。ただし、すべてにおいては、必ず結果がついてきますので、恐れを持っていきたいと、私個人はそんな風に思っています。ですから、「やもめ」「寄留者」として歩むことにポイントがあると主が語られているのなら、それはその通りなのだと思います。もう、すでにそのように歩んでいらっしゃるのでしたら、関係無い話かも知れませんが、これからそういった歩みを目指していきたいと思われる方のために、余計なお世話かなぁ?と思いながらも、参考まで話をさせていただきました。そう、もし、主に全面的に信頼し、捧げていく歩みに徹していこうとするなら、神さまが助けてくださって、そのように歩ませてくださいます。神さまが必要な守りや導きや知恵や力をその都度与えてくださいます。また、そういう人を通して神さまは、栄光をあらわしてくださいます。そして申し上げましたように、受けるべき恵み、「永遠の命」を受け継ぎます。ぜひ、こういったポイントに関しても、見ておいていただけたらと思います。

 

 

 

 

最近礼拝で、ピリピ人への手紙から教えていただいたことですが、イエス・キリストは最後まで、神さまの御心を行うことに徹しておられたということを学びました。つまり、すべてを神さまに捧げた生涯を送ったということです。そして、そのことが模範だということを教えられました。そして、私もそのことには同感です。

 

 

 

メッセージでも書きましたように、私の気のせいでなければ、多くのクリスチャンは、建前はともかく、実際のところは神さまに捧げるというより、どちらかと言えば、自分のために生きているように思います。生活のすべてがそうだとは言いませんが、比率としてはそうなのでは?と、思います。分かりやすく言うと、御言葉を行うことに熱心になる時間が少ないように思います。私も、自分自身がこういった歩みに入る前までは、その一人でしたし、死に至るまでは常に途上の身分ですし、単にそれを目指している者にしか過ぎませんので、人様のことをとやかく言える立場ではないですし、時には失敗もしてしまいます。ただ、そうではあっても、「神さまに捧げる」「この世においては寄留者、旅人、やもめとして歩む」ということに準じて歩むように心がけています。別に、自分がそうなったから偉いとかそんなことを申し上げたいわけではありません。実は、そういった志は、上()から与えられるようになりました。何もせずにそうなったのか?と言うと、そうではなく、それなりに神さまに祈り求めていく中で、少しずつ内側が変えられていきました。このことは、すごい恵みだなぁと思いました。すべて出来ているか?と言うと、もちろん出来ていないことだらけではありますが、一歩ずつ従っていきたいと思えるだけで、心に平安を得ています。そのことをとても幸いに思っていますし、感謝していますので、これからもそんなスタンスで歩んでいけたらいいなぁと思っています。本日の箇所を通して、益々そういった歩みに徹していけるように祈り求めていきたいと思いました。いつも大切なことを教えて下さる神さまに栄光と誉れがありますように。