聖書箇所 Ⅰテモテへの手紙6:17

 

6:17 この世で富んでいる人たちに命じなさい。高ぶらないように。また、たよりにならない富に望みを置かないように。むしろ、私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。

 

「神に望みを置く」というテーマで、御言葉に沿ってみていきたいと思います。

 

この御言葉は第一義的には、この世で裕福な人のことを言われています。信者、未信者問わず、そういう人たちへの警告について語られています。

私が「富」という言葉で真っ先に思い浮かぶのは“金銭”です。

金銭に関して、他の聖書箇所にも、同じようなことが書かれているので、参考までに見ておいてください。

 

参照 Ⅰテモテ6:10,ヘブル人への手紙13:5、箴言23:4、箴言28:20

6:10 金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。

13:5 金銭を愛する生活をしてはいけません。いま持っているもので満足しなさい。主ご自身がこう言われるのです。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」

23:4 富を得ようと苦労してはならない。自分の悟りによって、これをやめよ。

28:20 忠実な人は多くの祝福を得る。しかし富を得ようとあせる者は罰を免れない。

 

これらの箇所から、“金銭を愛する”のは、神さまの御心に反していることが分かります。箴言28章を読むと、ろくなことにならないことも理解できます。ゆえに、金銭を愛したり、必要以上に固執したりすることのないように気を付けていきたいと思います。たしかにこの世で生活していくためには、ある程度の金銭は必要です。もちろんそのことは、神さまがよくご存知です。そのことがヘブル人への手紙に書かかれています。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」と。ですから神さまを信じていきたいと思います。必要なものは主がその都度与えてくださるので、あまり心配しないようにしたいと思います。

 

そして、Ⅰテモテの御言葉に戻りますが、「高ぶらないように」と言われているように、得てして高ぶりやすいので、気を付けていきたいと思います。なぜ、高ぶってしまうのでしょうか?私の想像なのですが、“金銭”に富んでいくときに、だんだんと神さまの言葉から離れていくのだと思います。これではまるで、単なる金持ちの非難に聞こえてしまうかも知れませんが・・・では、たとえば貧富の差は別として、もし、私たちが“金銭”に少しでも執着するなら、御言葉に覆いが掛けられてしまって、真理の道から外れていくということを言われているのではないかと思います。真理の道、すなわち神さまから離れていくとき、私たちは高ぶりやすかったり、傲慢になりやすかったりするのではないでしょうか?だから、警告として、こういったことが書かれているのではないかと思います。

 

では、第二義的な意味合いも見てみたいと思います。

いつも申し上げているように、聖書は多くのたとえが使われています。また、奥義と呼ばれる類の御言葉もあります。聖書に書かれている富、すなわち「金」や「銀」とは、“信仰”のたとえでもあります。つまり、“クリスチャンの信仰の歩み”について、言われているのではないかと思います。また、“信仰の歩み”に関しても一様では無く、ペテロやヨハネやヤコブのように神さまにすべてを捧げて仕えていく人もいれば、そうでない人もいます。たとえば、福音書には、こんな記述があります。

 

参照 マタイ19:21,22

19:21 イエスは、彼に言われた。「もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」

19:22 ところが、青年はこのことばを聞くと、悲しんで去って行った。この人は多くの財産を持っていたからである。

 

これは、イエス・キリストと青年の間で交わされた会話です。この青年はクリスチャンで、モーセの律法を完全に守っている人でした。でも、そんな青年にイエスさまは「あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい」と言われました。その言葉を聞いた青年は、悲しんで去って行きました。22節に「多くの財産」という言葉が使われています。このことは、まさに冒頭の御言葉「富んでいる」という言葉と符号するのではないかと思います。

 

たしかにこの青年は、物質的も金銭的にも恵まれた人だったと思います。でも、イエスさまはそのことだけを言われたのではないと思います。「わたしについて来なさい」という言葉がここに書かれています。クリスチャンなら、みな、イエスさまについているとおっしゃるかも知れませんが、私たちがイエスさまについていくというときに、少し知らなければいけないことがあります。

 

ルカの福音書には、「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。」とあります。

「自分のいのちまでも憎まない者は、・・・」と書かれているように、富や財産だけでなく、すべてを捧げて主に従っていかなければいけないことを言われているのです。ちょっと、びっくりですよね?多くのクリスチャンは、十分の一をきちんと捧げているのだから、あるいは土地を売って教会のために捧げたのだから、自分は十分、神さまに捧げていると、言われるでしょう。もちろんそれは素晴らしいことですし、神さまの前に尊いことだと思います。でも、それだけでいいのか?と、言うと、御言葉を読むかぎり、そうではなさそうです。マタイの福音書の青年の話に戻りますが、「財産」とは、単に金銭や持ち物のことだけを言われているのではないのです。その青年が去ったあと、イエスさまは弟子たちに「金持ちが天の御国にはいるのはむずしいことです」と言われています。ちなみに「持ち物」とは、人間の生まれつきの資質や能力のことを言われています。ですから「金持ち」とは、そういったものにより頼んで信仰生活を送っている人のことを指します。さっきも申し上げましたように、モーセの律法を落ち度なく守っているのですから、人の目から見れば、この青年は立派なクリスチャンだと言えます。でも、肝心なことが欠落していることに気付いていないのです。律法を守ることは素晴らしい、しかし、どこまでも自分の力により頼んで守っている、残念ながら、それは神さまの前には喜ばれることではない、だから、そんなものは捨てなさい、そして私についてきなさいと、イエスさまは言われたのです。要するに、青年の信仰生活の中に、神さまの介入というのが一切無かったのです。そのことをイエスさまは指摘されたのです。

もし、私たちが本当にイエスさまに従っていくのなら、「富」、すなわち良いものもそうでないものも、すべてをひっくるめて、捧げていく必要があることは、どうぞ心に留めておいてください。

 

冒頭の御言葉が戻りますが、「たよりにならない富」とは、金銭的なものだけでなく、要は、生まれつきの性質、能力、才能等のことをも言われているのです。もし、そういったものにより頼んで信仰生活を送っていくのなら、いつになっても神さまの栄光を反映することはないのです。最悪、信仰がどこかで破たんしてしまう可能性もあります。キリストよりもそのことを優先するときに、神さまが介入なさる余地が無くなってしまうのです。どんなに良いものであったとしても、人間的なものでは神さまを喜ばすことができないのです。極端な言い方をすると、人間的な能力や考えでは神さまにお仕えすることはできないのです。このことは、“心と耳とに割礼を受ける”ことに通じるのですが、私たちは、生まれつきのものから絶えず切り離されていかなければいけないのです。もし、このことを祈り求めていくのなら、必ず実現していきます。多少時間はかかりますが、少しずつキリストの似姿へと変えられていきます。人間的なもの、すなわち肉ではなく、御霊によってお仕えしていくようになります。そしてこのことは、御前に受け入れられるものとなります。反対にいつまでも、“富”、すなわち自分の生まれつきのものや人間的なものに固執するなら、神さまから受け入れていただくことはできません。歩みにおいても、働きにおいても、しかりです。そして、そのまま生涯を終えるなら、どうなってしまうのか?と言うと、創世記の御言葉「包皮の肉を切り捨てられていない無割礼の男、そのような者は、その民から断ち切られなければならない。わたしの契約を破ったのである。」とありますように、神の民と見なされなくなるのです。「契約」とは、神さまがアブラハムと結んだ契約、すなわち天の御国を受け継ぐことに通じます。ですから「契約を破った」とは、御国に入るのが危ないということです。つまり、生まれつきの状態のままでクリスチャン生涯を終えることには、まったくポイントがないことをどうかご理解ください。

 

ですので、「私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように」と、ありますように、神さまの力にどこまでもより頼んでいきたいと思います。神さまだけにより頼んでいくときに、「すべての物を豊かに与えて楽しませてくださる」の言葉がそのまま成就していきますので、ぜひ、そうしていきたいと思います。

 

 

最近、あることに関して違和感を覚えることがありました。以前も、そのことに関して同じような思いを抱いたことがあったのですが、その時は、自分の力で解決を得ようとして、失敗に終わってしまいました。では、あっても、何とか、一旦は落ち着かせることができました。ところが、最近になって、あることをきっかけに、そのことが再度浮上しました。「さて、困ったな、どうしよう?」と、思ったのですが、しばらくの間、放置していました。多少は祈ったのですが、あまり良い方向に向かっていないと思って試行錯誤考えてみました。それでもやはり、良い解決方法が見当たらなかったので、何日かかけて、「神様、助けてください。どうか、主が良い解決をお与えください」と、ひたすら祈りました。すると、しばらくして、あまり間をあけずに、神様が不思議な方法を通して、私の内側にある違和感を徐々に取り去ってくださいました。内面的な、いわば霊的な事柄だったので、本当に変えていただけるのかなぁと、若干不信仰にならなくもなかったのですが、心から神様に叫び求めて、良かったなぁと思いました。その時に、「ああ、自分は何もできないんだ。主に頼らないと、ダメなんだ。」と、心から主の前にへりくだることが出来ました。

 

私たちは、時として、これは難しいとか、絶対に無理!なんて思うようなことがあると思います。でも、どんなことも、主に解決できないことや不可能なことはない、ということが、自分自身の一件の出来事を通して分かりました。内面的な部分、特に、元々の性質を考えると、内側が変えられるということは人間的には考えがたいことなのですが、聖霊の力は、そのことを可能にするのです。少し、抽象的な証になってしまいましたが、申し上げたいことは、これからも、色々なことに直面すると思うのですが、その都度、神様に頼っていくことが最短で、なおかつベストな道なので、そのことに徹しきっていきたいなぁと思いました。本日も大切なことを語ってくださった神様に栄光と誉れがありますように。主に感謝して。