聖書箇所 ペテロの手紙1:10

 

1:6 そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。いまは、しばらくの間、さまざまの試練の中で、悲しまなければならないのですが、

1:7 信仰の試練は、火を通して精練されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉に至るものであることがわかります。

 

「試練は栄光&栄誉をもたらす」というテーマで、御言葉に沿ってみていきたいと思います。

 

「試練を通して御国に入る」というテーマに関しては過去、Ⅱコリント人への手紙、ヤコブの手紙を通して語らせていただきましたが、再々度、話したいと思います。なぜ、そんなにしつこく?と思われるかもしれませんが、礼拝のメッセージにおいても度々繰り返してメッセージされていますし、私個人としてもとても大事なことだと思いましたので、改めて取り上げてみることにしました。よろしければめげずにお読みいただけたらと思います。

 

さてさて、私たちクリスチャンが目指す「天の御国」ですが、少なくともレムナントキリスト教会においては、試練や困難を通らずに天の御国に入るというとらえはしていませんし、私自身もそういった概念はすでに捨て去っている者です。キリスト教会やクリスチャンの間でどのように言われているかは別として、少なくとも聖書の示すラインは、クリスチャン生活の中で「試練」「艱難」「困難」はつきものであり、その延長線上において御国が約束されているとあり、著者もそれを堅く信じる者であります。なので、もし、艱難の前に挙げられるとか試練は通りたくはない、しかし天の御国には入りたいという方がいらっしゃいましたら、そういう概念や考えは捨て去って方向を変えるか、もしくはそれを拒むのでしたら諦めるか、いずれかの選択をされたほうが良いのでは?と、思います。こんなことを言うと、「余計なお世話」とか「なんて非常識な!」なんて言われそうですけど、残念ながら二つ得ることは出来ません。イエスさまですらできなかったことですので、はたまた私たちにそんなことが許されるはずもありません。また、この世において何の試練や困難にも会わないで天の御国に入れるなんてことは聖書のどこを探しても見当りません。それどころか、6節に、「いまは、しばらくの間、さまざまの試練の中で、悲しまなければならないのですが」と書かれているように、御国を受け継ごうとするなら、無条件に、「さまざまの試練の中で、悲しむ」と言われています。しかも、「さまざまな試練の中で、悲しむかもしれない」ではなく、「さまざまな試練の中で、悲しまなければならない」とあります。ここのところはKJV訳だと「さまざまの重い誘惑や試みを通過する必要がある」という風に訳されています。この書き方から「さまざまな試練の中で・・・ならない」とは、裏返せば、「試練の中で悲しむことが必要」というニュアンスに取れます。そしてそれは次節に書かれているように、「賞賛と光栄と栄誉」に至るもの、すなわち御国を受け継ぐことに通じるのです。ですから御国に入るためには、冒頭のみことばにあるように、さまざまな試練がつきものであるということをご理解の上で、歩みをされることをおすすめします。そうでないと、大事な時にあっさりとひっくり返されてしまいます。これは正直、ほとんどの人が選ばない「狭い門」「細い道」でもあります。でも、もし、本当に選ぶなら、さまざまな「試練」の中にあっても神さまの助けを受けながら、歩むことができます。

 

「試練」を通ることによって、どうなるか?はさっきも話したように、それは後において、ここにはイエス・キリストの現われのときに賞賛と光栄と栄誉に至るとありますが、7節の前半にあるように私たちを金よりも尊い者にしていただけるのです。金よりも尊くするために、「試練」を通されるのです。「試練」のところはKJV訳では「試験済」と訳されています。試験ということで、エレミヤ牧師が礼拝の中でお話しされることが時々あります。いくら私は数学ができますと言っても、口先だけではその人の実力は分かりませんよね。でも、試験をすれば一目瞭然ですよね。それと同じように、私たちの信仰に関しても試験をしなければ真価というのがなかなか出てこないのが聖書で一貫して言われている教えです。これっていわば、神さまが私たち個々のクリスチャンの本音を探るためのものでもあるのです。前にも話したと思いますが、状況が良ければ感謝することひとつ取っても苦にはならないでしょう。いいえ、むしろ喜んで進んで感謝できると思います。でも、形勢が悪い状況の中で、たとえば口ずさむだけでも神さまに感謝できるでしょうか?なかなか難しいと思います。あるいは、嫌なことをしたり言ったりしたりする人のために祝福をお祈りできるでしょうか?これはできればやりたくない、あるいはとんでもない!と思うのではないでしょうか?でも、神さまは人間的に不利な状況の中でもきちんとみことばを守るか?御心を行うか?を常に見ておられるのです。ですから状況が悪いからと言って、投げ出したりあきらめてしまったりすることに全く御心は無いのです。さっきも言ったように、良い状況の中ではなんぼでも主に従えるからです。なので状況の良い中ではその人の本音はなかなか分かりづらいのですが、一旦「試練」の中を通せば、比較的あっさりと判断できるのです。ゆえに、「試練」という方法を神さまは用いるのです。もちろん人間的には「試練」があったほうが良いか?と言うと、そうではないのですが、それは神さまの意地悪とか趣味とかではなく、私たちの益のために用いられるものでもあるのです。

 

それに関して証になるか分かりませんが、少し話をします。最近、礼拝のメッセージの詩篇を通して「主よ。私を調べ、私を試みてください。私の思いと私を調べ、私をためしてください」というみことばを学びました。その時に、「神さまの試しを通して、自分でも知らなかった本音を知ることができます。神さまは試験をして、悪い部分が直っているかをチェックします。それでもし、直っていなかったら悔い改めればよいのです」ということをエレミヤ牧師が言われていましたが、なるほど、そうだなぁと私も思いました。たしかに自分はもう大丈夫と思っていても、主観的に見る自分と神さまの目から見る自分とは往々にしてギャップはあるのでは?と頷くものがありました。そして案外、なっていなかったり、直っていなかったりと、悔い改めていく部分が多いのでは?と、思いました。そのことを素直に認めたときに、今までは試練や試験に関して「まあ、天の御国への条件だから仕方がないか」という風なとらえしかしていなかったのですが、そうではなく、自分自身に幸いや益をもたらすものだという風に思えるようになりました。ゆえに、「試練」に関して、以前よりは積極的な考えを持てるようになりました。なのでこれからも様々な「試練」があると思いますが、前向きに考えていこう!という希望すら持てるようになりました。しかもたとえ失敗しながらも合格し続けるなら、天の御国が約束されているのですから、尚々一直線に向かっていこう!という決意も強まりました。

 

「試練」に関して、多少なりともご理解いただくことはできましたでしょうか?すぐに納得できるかどうかは別として、一応聖書で言われていることですので、そのラインに沿って歩みをしていきたいと思います。そう、「試練」「試練」で終わるのではなく、私たちを矯正したり義とするために、分かりやすく言うと御国にふさわしい者とするために有益になりますので、それを避けたり拒否したりすることがないように、その都度正しく対応していきたいと思います。ヘブル人への手紙にも、神さまは愛する者をむち打ったり、懲らしめたりすることが書かれていますが、いずれも私たちを義とするため、そして益をもたらすためになさることですので、ぜひ、そういった視点や概念に基づいて歩みをしていきたいと思います。そして7節に書いてあるように後の世において、栄光や誉れを受けていきたいと思います。