聖書箇所 Ⅰペテロの手紙3:14

 

3:14 いや、たとい義のために苦しむことがあるにしても、それは幸いなことです。彼らの脅かしを恐れたり、それによって心を動揺させたりしてはいけません。

 

「恐れない」というテーマで、御言葉に沿ってみていきたいと思います。

 

クリスチャンとして歩んでいく中で「義」のために苦しむという体験をされたことはないでしょうか?たとえば良いことをしているのに分かってもらえない、ちっとも報われないなんてことはありませんか?それどころか嫌な目に会ったり、理不尽なことをされたり、時には馬鹿にされたりと、そんな経験をしたことはないでしょうか?もし、みことばに真摯に向き合って歩んでいるのなら、こういうことに直面するのが正常だと、14節のみことばは語っていると思います。以前はそういった概念は無かったのですが、今は多少なりともそんな風な理解や志を持って歩ませていただいています。たしかにこういうことは、この世の常識や考えとは全く異なることですし、昨今、キリスト教会やクリスチャンの間でも言われていないのであまりピンと来ないことかも知れませんが、やはり聖書で言われていることが正しく、しかも主ご自身が度々直面していたことでしたので、私たちもそんなものだと思うのが正しいのでは?と、思います。ただし、義のために悩んだり苦しんだりして、それで終わるのではなく、「たとい~」のあとに、「それは幸いなこと」だと書かれていることを見落としてはいけません。「幸い」とあるように、ある意味、良いことをしているにもかかわらず、嫌な目に会ったり、苦しんだりするのなら、喜んで良いのです。イエスさまもこんな風におっしゃっていましたよね。「義のために迫害されている者は幸いです」と。しかも「天の御国はその人たちのものだから」とまで言われています。良いことをして、なおかつ迫害されるなら、その人にとって幸いをもたらし、それだけでなく、天の御国まで約束されているのです。なんと素晴らしいことでしょうか!なので、「心を動揺させたりしてはいけません」とあるように、人間的な側面だけにとらわれて気をくじいてしまうことのないように気をつけていきたいと思います。

 

ちなみに「彼らの脅かしを恐れたり、それによって心を動揺させたりしてはいけません」のところは、一部の英語訳だと、「彼らの恐れるものを恐れてはならず、動転してもならない」と訳されています。「彼らの恐れるもの」とはなんでしょう?私の想像なので当たっているかは分かりませんが、イザヤ書のみことばのことを言われているのでは?と、思います。イザヤ書8章では神が預言者イザヤに対して、「この民が謀反と呼ぶことをみな、謀反と呼ぶな。この民の恐れるものを恐れるな。おののくな。」と言われています。「この民」とはイスラエルの民、すなわち今でいうクリスチャンのことです。今でいうクリスチャンがイザヤの預言のことを「謀反」と言っているのです。いわば、イザヤが語ったことをカルトとか異端と呼んでいるのです。神のことばをそのまま語ったイザヤなのですが、なんと同胞の民からは異端視され、カルト扱いを受けてしまったのです。しかし主は、「そんなことを気にするな!恐れるな!」と言っているのです。

 

そしてこれはイザヤの時代に終わるのではなく、新約のクリスチャン、こと、終末において起きてくることの予表なのでは?と、思います。そう、すべてのクリスチャンがそうだとは言いませんが、しかし、今、多くのクリスチャンは誤った教理や違う霊を喜んでいるのですが、しかし、それに対して異を唱える人は反対に「異端」「カルト」と呼ばれてしまうのです。たとえば艱難前携挙説やトロントペンサコーラの悪霊のリバイバル集会がおかしいことや間違えであることをみことばから語っているのですが、一部のクリスチャンからは反発の声があがったとのことをエレミヤ牧師から聞いたことがあります。もちろん皆が皆、そうではないのですが、聖書から正しいことを語り、行っているがゆえに、そういった扱いを受けることがあるのです。

 

そして残念ながら多くのクリスチャンがある程度、正しいことを知っていても、分かっていても、人から異端扱いされるのが嫌だ、だから口を閉ざすなんていう流れになっているのでは?と、思います。以前エレミヤ牧師がおっしゃっていたことですが、クリスチャンがもっとも恐れるのは、「カルト」と言われることだそうですが、それについては私も同感です。もちろん私もそんな風に言われるのは嫌ですが、でも、正しく語り、行い、それでもなおかつそういった扱いを受けてしまうのは仕方がないかな・・・と、思っています。主が、「この民が恐れるものを恐れるな」と、はっきり言われているからです。なので、私たちは真理を聞いて理解したのなら、今度はそのことを人に伝えていかなければいけないのです。たとえ人からは異端扱いを受けたとしても、です。

 

イエスさまの時にも、こういう人がいましたよね。多くの律法学者やパリサイ人がイエスのことを異端視し、迫害する中で、イエスを救い主と認めたわずかの祭司たちもいました。でも、パリサイ人や律法学者や会堂を追い出されることを恐れて、表立って告白はしなかったことが福音書に書かれています。それに続いて、「彼らは神からの誉れよりも人からの栄誉を愛した」というようなことが書かれています。しかし、これは神の前にどうなのか?と言うと、ズバリ、NGです!たとえ人からはどう思われようと、最悪仲たがいしてしまったとしても、神の御心を優先していかなければいけないのです。そうでないと、神様の前には、「人からの誉れ」を愛したという風に見なされ、天の御国に入れない可能性があるのです。話は元に戻りますが、冒頭のみことばにあるように、「義」のために苦しんだとしても、それは光栄なことなので、恐れたり、何か変えたりする必要はまったくないのです。今更ではありますが、「義」のところは、KJV訳だと「公義」「正義」と訳されています。また、「苦しむ」のところは「報いを受ける」と訳されています。要するに、公義、つまり神様の裁きに関して宣べていくときに、その相応の報いを受けることを言われています。でも、もし、そうだとするなら、「幸い」だと言われているので、そのことで決して心を騒がせたり、怯んだり、脅えてしまったりすることなく、きちんと行っていきたいと思います。今はまだ大きな揺り動かしがありませんが、艱難時代に入り、しかも後半の3年半においては法律等をもとに、信仰を保つのはかなり厳しくなっていくと思われますので、そのあたりのことに関しても正しく対応できるように今からきちんと祈り求めていきたいと思います。そうしていくときに、Ⅰペテロの同章16節に書かれているように、そしっていた人々の中で真理に対して目が開かれた時には恥じ入って、悔い改めていく人々もいますので、そんな風に心がけていきたいと思います。多くの人が「義」(公義)を行うことに恐れを抱くかもしれませんが、本日の箇所もそうですし、他のあちこちにも「義」を行うことに関して恐れてはいけないと言われていますので、恐れずに正しく従っていけるように求めていきたいと思います。

 

個人的には、私はとても人を恐れやすいタイプです。たしかに祈りによって、少しずつ強められてはいますが、しかし、まだまだ「恐れやすい者」なので、「人を恐れることがありませんように」なんていう祈りは、日課になっていますし、これからもずっと継続していくと思います。少し前に、朝方、夢or幻のようなことを通して主からの語りかけを受けました。「恐れてはいけない」と。それから日数を経て、さらに神さまが、それも朝方私に語りかけてきました。「ただ、私を恐れなさい」と。当たっているかは分かりませんが、私たちは、きっと神さまよりも目に見える人を恐れやすいのでは?ということを語っているのかなぁと思いました。たしかにこれから艱難時代も迎えますし、その中で信仰を保持していくのは人間的には大変なことなのかも知れません。でも、ただ神様だけを恐れることに目を向けていくのなら、そんな風に祈り求めていくのなら、ことさらに恐れたり、怖がったりする必要はないのでは?しかも、黙示録には、みことばを守る人に対しては、「試練の時にはあなたがたを守ろう」とまで言われているので、ダイレクトにそれを信じればよいのでは?と、思いました。

 

また、聖書のどこかの箇所に、「人を恐れると罠にかかる」というようなことも書かれているので、朝方の出来事は主からの語りかけだったのだなぁと思いました。みことばから主が語っていることを伝えていくときに、人からは理解してもらえないのでは?あるいは馬鹿にされてしまうのでは?なんていうネガティブな思いがサタンによってもたらされることがありますが、もし、証やみことばを語る機会が与えられたときには、人を恐れずに神さまだけを見上げて大胆に語っていけるといいなぁと思います。また、たとえ受け入れられなかったり、罵られるようなことがあっても、くじけずにみことばを語り続けていきたいと思います。本日のみことばを通して恐れずに歩んでいくという志が与えられ、感謝でした。いつも大切なことを教えてくださる神さまに栄光がありますように。