聖書箇所 Ⅰペテロの手紙4:10,11

 

4:10 それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。

4:11 語る人があれば、神のことばにふさわしく語り、奉仕する人があれば、神が豊かに備えてくださる力によって、それにふさわしく奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して神があがめられるためです。栄光と支配が世々限りなくキリストにありますように。アーメン。

 

「与えられた賜物に応じて働きを担う」というテーマで、みことばに沿ってみていきたいと思います。

 

本題の前に、「賜物」について少し話したいと思います。

 

大なり小なり、「神の働きを担っていこう!」と志していくときに、「それぞれが賜物を受けているのですから」とあるように、聖霊の賜物が与えられます。裏返すと、献身の志があるにもかかわらず、与えられないということはないのです。さらに言うなら・・・これは、断定はできませんが、もし、はじめから神さまにお仕えするつもりがないのでしたら、残念ながら与えられないのでは?と、思います。また、同じ霊と呼ばれる賜物で、悪霊からの賜物なんていうのもあります。これも当たっているかは分かりませんが、もしかすると真に神さまにお仕えしようとしないときに、悪い霊によって用いられてしまうなんていうことはあるのかも知れません。そんな人に悪霊からの賜物なんていうのが与えられるのでは?と思います。例を挙げるなら、某リバイバル聖会で活躍している働き人がそうだと言えると思います。あろうことか、その集会の真ん中には、悪魔礼拝者が着座していて悪霊を呼び出し、人々を倒したり、獣のようにさせたり、笑いのとりこにさせたりしているのです。実際にビデオで観たので、本当です。そう、まさに悪霊の働き、わざだと言えます。ただし、私たちが純粋に、また、心から神さまに仕えようとするなら、そういう働きに引っ張られることはありません。ですから私たちは聖霊の賜物をもって、神さまにお仕えしていきたいと思います。

 

さて、本題に入りたいと思います。さっきも申し上げましたように、神の働き人、要は神のしもべの歩みを前提に話をしたいと思いますので、そんな概念でお読みいただけたらと思います。11節では、「神が豊かに備えてくださる力によって、それにふさわしく奉仕しなさい」と言われています。「神が豊かに備えてくださる力」とあるように、神の働き人、あるいはしもべとなって歩みをしていくときに、先にも申し上げたように、それぞれの人に賜物が与えられます。以前も賜物に関して話したことがありますが、賜物は英語で、“gift”とあります。そうなんです、賜物は神さまからのプレゼントなのです。世の中でも、誰かから贈り物をもらったら嬉しいですよね。それで嬉しさや感激のあまり、その人のために何か良いことをしたいなぁ、あるいは機会があれば贈り物をしたいなぁなんて、思ったことはないでしょうか?人からですら、嬉しくて仕方がないですよね。でも、それって、天の父なる神さまとのことも、全く同じなのです。神さまも賜物も、実際には目には見えないので、今ひとつピンと来ないかも知れませんし、あるいは信仰を持っているんだから、賜物が与えられて当然みたいな感覚もあるかもしれませんが、これってじつはすごいことなんです。それに関して少し証をしたいと思います。

 

私も、献身の歩みをする前までは良く分からなかったのですが、今では感動、感激、感謝、喜びのオンパレードです。たしかにはじめに書いたように、献身の歩みをする前までは、特にこれっていう賜物は与えられていなかったと思います。その時点では、本来の召しが分かっていなかったので、当然と言えば当然なのですが・・・しかし、弟子としてわずかながらも歩み出してから、「ひょっとすると、これって神さまからの賜物なのでは?」と思うような賜物、いわばプレゼントが与えられていることに気付くようになりました。そして11節に書かれているように、まさに私自身の歩みや働きにふさわしい賜物でした。他の人から見ると大したことはないかも知れませんが、私にとっては神さまからの大事な大事なプレゼントなので、そのことに感謝して、日々、与えられた賜物を用いてわずかながらも、神さまに仕えさせていただいています。そして結果として、一人でも多くの人を真理の光へと導くべくお手伝いに携わることができました。このことはとても感謝なことですし、光栄なことでもありますので、生きながらえている間、これからもぜひ、賜物を用いて神さまに仕えていきたいと思います。

 

証はこんな感じなのですが・・・申し上げたいことは、もし、神さまから賜物が与えられたのなら、それを用いていくことにポイントがあります。きちんと用いるなら、11節のみことばにあるように、神さまの御名が崇められる、要は主の栄光をことごとく反映させていくようになるのです。そしてそれは神さまに尊ばれることになります。最後まで忠実に用いていくのなら、「よくやった、良いしもべだ」という風に神さまから誉れをいただくことにもなるでしょう。以上は恵みに関しての話ですが・・・反対に、賜物が与えられているにもかかわらず、用いていかないときにどうなってしまうのか?と、言うと、以下のみことばを参照していただけたら、分かりやすいと思います。

 

参照 マタイ25:1430

25:14 天の御国は、しもべたちを呼んで、自分の財産を預け、旅に出て行く人のようです。

25:15 彼は、おのおのその能力に応じて、ひとりには五タラント、ひとりには二タラント、もうひとりには一タラントを渡し、それから旅に出かけた。

25:16 五タラント預かった者は、すぐに行って、それで商売をして、さらに五タラントもうけた。

25:17 同様に、二タラント預かった者も、さらに二タラントもうけた。

25:18 ところが、一タラント預かった者は、出て行くと、地を掘って、その主人の金を隠した。

25:19 さて、よほどたってから、しもべたちの主人が帰って来て、彼らと清算をした。

25:20 すると、五タラント預かった者が来て、もう五タラント差し出して言った。『ご主人さま。私に五タラント預けてくださいましたが、ご覧ください。私はさらに五タラントもうけました。』

25:21 その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』

25:22 二タラントの者も来て言った。『ご主人さま。私は二タラント預かりましたが、ご覧ください。さらに二タラントもうけました。』

25:23 その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』

25:24 ところが、一タラント預かっていた者も来て、言った。『ご主人さま。あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。

25:25 私はこわくなり、出て行って、あなたの一タラントを地の中に隠しておきました。さあどうぞ、これがあなたの物です。』

25:26 ところが、主人は彼に答えて言った。『悪いなまけ者のしもべだ。私が蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めることを知っていたというのか。

25:27 だったら、おまえはその私の金を、銀行に預けておくべきだった。そうすれば私は帰って来たときに、利息がついて返してもらえたのだ。

25:28 だから、そのタラントを彼から取り上げて、それを十タラント持っている者にやりなさい。』

25:29 だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、持たない者は、持っているものまでも取り上げられるのです。

25:30 役に立たぬしもべは、外の暗やみに追い出しなさい。そこで泣いて歯ぎしりするのです。

 

上記箇所は有名な話なので、御存知の方も多いと思いますが、その中で特に25節~28節を見てみてください。ここでは「タラント」という表現が使われています。タラントとは、「才能」という意味合いですが、これも御霊の賜物と同じく、神さまから与えられたものです。ここには三人のしもべが登場します。それぞれの能力に応じてタラントが与えられて、先のふたりのしもべはタラントを用いて、きちんと増やしました。ですから、この二人のしもべは神さまから誉れを受けました。しかし、25「あなたの一タラントを地の中に隠しておきました」と書かれているように、三人目のしもべは、与えられたタラントを用いませんでした。「地の中」に隠しておいたわけですから、当然増えなかったのです。ちなみに「能力に応じて」の部分は、英語だと「できることにしたがって」とありますので、神さまは、それぞれのしもべができるであろうということを見込んで、タラントを与えられたわけです。ゆえに三人目のしもべは「悪いなまけ者のしもべだ」という風に叱責されてしまったのです。ちなみに「主人」とは、天の父なる神さまのことです。

 

そう、申し上げたいことは、賜物やタラントを渡されたら、それを用いて、ほんのわずかでも増やしていくことに御心があるのです。いくら預言や癒しや異言の賜物があると言っても、神さまの働きのために用いないなら・・・この世のことばで言うなら、「宝の持ち腐れ」ということになってしまうのです。「いや、私は賜物なんて与えられていない。だから仕方ないでしょ!」と言われる方もいるかもしれません。たしかに「賜物」は神さまからのプレゼントであることは事実ではありますが、でも、私たちが祈り求めないなら、与えられないというのも一面の真理です。それこそⅠコリントの手紙には「御霊の賜物を求めなさい」ということがはっきりと書かれているので、私たちの側で神さまに求めていかなければ成立しないでは?と思います。絶対にそうだ!とは、言いませんが、少なくとも私はそのように理解しています。さっきの証で、賜物が与えられたことを話しましたが、何もしないで与えられたわけではありません。弟子としての歩みをしながらも、日々、祈り求めていく中で徐々に与えられていきました。もちろん今でも日々、祈り求めています。

 

話は元に戻りますが、主のしもべとして歩んでいく中で、賜物を祈り求めて、なおかつ与えられたのでしたら、今度はそれを神さまの栄光やみわざが反映されるように、祈りの中で用いていくことにポイントがあることは繰り返し申し上げておきますね。そうでないときに、さっきの三人目のしもべのみことばが、悪い意味合いで成就してしまいますので。それこそ、30節に「外の暗やみに追い出せ」と書かれているように、「暗闇」、いわば天の御国でない所(ダニエル書で言われている「永遠の忌み」)に死後、連れて行かれてしまう可能性がありますので、そのあたりのことは正しくとらえておきたいと思います。タラントを増やして誉れを受けた人も、叱責された人たちも、いずれも「しもべ」(弟子の歩み)と呼ばれる人たちです。そういう立場の人であっても、死後、二つの運命がありますので、みことばを恐れて、ぜひ誉れを受けるようなしもべの歩みに徹していきたいと思います。