聖書箇所 Ⅰペテロの手紙5:14

 

5:1 そこで、私は、あなたがたのうちの長老たちに、同じく長老のひとり、キリストの苦難の証人、また、やがて現われる栄光にあずかる者として、お勧めします。

5:2 あなたがたのうちにいる、神の羊の群れを、牧しなさい。強制されてするのではなく、神に従って、自分から進んでそれをなし、卑しい利得を求める心からではなく、心を込めてそれをしなさい。

5:3 あなたがたは、その割り当てられている人たちを支配するのではなく、むしろ群れの模範となりなさい。

5:4 そうすれば、大牧者が現われるときに、あなたがたは、しぼむことのない栄光の冠を受けるのです。

 

「聖書が語っている牧会のポイント」というテーマで、みことばに沿ってみていきたいと思います。

 

1節において、パウロはキリストの苦難の証人、そしてやがて現れる栄光にあずかる者として、お勧めをしていることが分かります。2,3節では、「牧会」に関してのことと、それに関する注意点について述べています。

 

以前も「牧会」に関しての学びを聖書の別のところからしたと思いますが、イザヤ書か何かに、「ここに少し、あそこに少し」と書かれているように、聖書のあちらこちらにちょこちょこと、同じようなことが書かれています。そして、本日の箇所においても言われていますので、重ねて話をしたいと思います。

 

「牧会」に関してのポイント1:喜んで行うこと

 

2節に、「強制されて~心を込めてそれをしなさい。」と書かれています。「心をこめてそれをしなさい」のところはKJV訳で、「快く、喜んで、進んで」とあります。他の箇所では捧げ物について、「いやいやながらでなく、強いられてでもなく・・・」というみことばがありますが、「牧会」に関してもそのことが奨励されているのではないかと思います。なので、「牧会」に関して、神さまの前に喜んで行っていくように心がけていきたいと思います。

 

「牧会」に関してのポイント2:みことばから正しくメッセージを語ること

 

2節の「牧しなさい」の箇所は、英語で、“feed(食物を与える、食べさせる)とあります。「食物を与える」なんて聞くと、「ランチでもごちそうしてくれるのかしら?」なんていう風に思う方もいるかもしれませんよね()。もちろん金銭的に困っていて、それこそお昼を食べるお金も無いなんていう人が周囲にいましたら、その時にはぜひ、助けの手を差し延べていくように心がけていきたいと思います。それはそれとして、聖書で言われている「食物」は、「みことば」や「教理」を指します。ですからここで言われているのは、牧師や教師は必要なメッセージを語りなさいということです。そしてそれに関して、少し厳しいことが言われています。日本語の聖書には書かれていませんが、KJV訳を見ると、「手落ち&見落としのないように」ということが、“feed(食物を与える、食べさせる)のあとに書かれています。どの牧師や神父も、「そんなことあんたに言われなくても分かっているよ!」とおっしゃるかもしれません。もし、本当に実践されているのでしたら立派なことだと思いますし、私なんかがとやかくお勧めすることでもないかもしれません。そしてぜひ、今後も続けていただきたいと思います。でも、失礼を承知の上で申し上げるなら、今の時代、多くの教師やメッセンジャーが聖書のみことばから往々にして外れているのでは?と、思います。もちろん全てとは言いませんが・・・ただ、たとえばカトリックでは、「地獄はない」「創世記は神話、進化論が正しい」なんて、聖書のみことばを否定する教えが語られているそうです。また、プロテスタントでは、「艱難の前にクリスチャンは携挙される」「セカンドチャンスがあるから、後の世で頑張れば大丈夫、今はそんなしゃかりきに信仰生活を送る必要はない」と、これらもまた、聖書のことばを逸脱し、否定している教えなのでは?と、思いますがいかがでしょうか?これらのものは、まさに「手落ち&見落としのある」メッセージと言えないでしょうか?ゆえに、そういったことがあえて言われているのではないかなぁと、私個人はそのように思いますがいかがでしょうか?ちなみに正しくメッセージをするのなんて、どの教会においても当たり前のように思われていると思います。そしてそのことが「牧会」に通じるなんてことはあまり深く考えないのではないかなぁと思います。私も、当初そんな風に思ったことはありませんでした。「牧会」って言うと、どちらかと言えば信徒の悩みや相談事に牧師が応じるなんてそんなイメージがありました。もちろんそういうことも大事かも知れませんが、でも、聖書が言われている「牧会」は、一にも二にも、「正しくメッセージを語る」ことなんです。メッセージを通して多くの信徒の方々が霊的に成長していく、養われていくことをひたすら推奨しているのです。それに関しては、以前も見たかも知れませんが、ヨハネの福音書でも同じことが言われています。

 

参照 ヨハネの福音書21:1517

21:15 彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの小羊を飼いなさい。」

21:16 イエスは再び彼に言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を牧しなさい。」

21:17 イエスは三度ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロは、イエスが三度「あなたはわたしを愛しますか。」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。「主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を飼いなさい。

 

上記箇所は有名なので、御存知の方は多いと思いますが・・・ちなみに下線を引いた「飼いなさい」のところも、本日の「牧しなさい」で使われているのと同じことば、“feed”と書かれています。「小羊」に必要な食べ物、すなわちみことばを与えなさいということを、ここでも言われていることが分かります。つまり、「牧会」と「食べ物」(みことば)は、切っても切り離せない関係があることを後押ししているように思います。ですから牧会に携わるにあたって、みことばをどのように取り扱うか?は、とても大事なのです。たとえばお子さんがいらっしゃる親御さんはお子さんの成長を願って毎日必要な食べ物を与えますよね。その時に、もし、添加物をやたらと含んだものばかり食べさせていたら、どんな風になってしまうでしょうか?すぐに症状が出なくても、いずれ病気がちなお子さんに育ってしまうのではないでしょうか?反対に体に良いものを与え続けていったら、健全に育っていくのではないでしょうか?みことば、つまり霊的な食物に関しても全く同じことが言えるのではないでしょうか?さっきも話したように、やれ、地獄は無い、煉獄がある、進化論が正しい、艱難は通らないといったように、聖書に書かれていないようなことばかりを聞いていたらどんな風な信徒が育つでしょうか?少なくともまともな成長はのぞめませんよね。でも、みことばが語っている教理をきちんと受け続けていくなら、正しい信仰生活を送る信徒に成長していくのではないでしょうか?なので、重ねて何度も申し上げますが、みことばから正しくメッセージを語っていきたいと思います。そうしていくときに、神さまの前にも喜ばれ、はたまたそれに続いて健全な信徒の方々、つまり霊の子どもが生まれますので、ぜひ、そのことを心がけ、実践していきたいと思います。

 

それに関しての証ですが、レムナントキリスト教会では日曜日に語ったメッセージを毎週インターネットで公開しています。音声メッセージをアップしているわけです。メッセージを通して一人でも多くのクリスチャンが霊的に養われたら、益を受けられればと、そんな志で行っています。でも、それにあたっていつも皆で祈るようにしています。毎週礼拝が終わったあとに、スタッフだけでわずかながらもお祈りの時を持つようにしています。その時に、「正しく御心を行うことができるように」という風に皆でお祈りをしています。すると、そのお祈りに神さまが応えてくださって、メッセンジャーが正しくメッセージを語れるように導いてくださったり、ポイントの働きを成し遂げていくことができるようにしてくださいます。また、エレミヤ牧師から「メッセージの基本は聖書の読み込みとお祈りです」という助言をいただいていますが、ご自身も常にそのことを実践されていますので、みことばから神さまが語ってくださるメッセージを毎週ごとに捧げておられます。こんな風にわずかながらも、みことばを取り扱っている私自身も、そのことに徹して働きをさせていただいています。話は音声メッセージに戻りますが、そんなわけで、ささやかながらも教会において毎週の音声礼拝のメッセージをアップさせていただく中で、真理に触れる人や霊的に覚醒したり、警告を受ける人たちが徐々におこされています。もしかすると、メッセージを通して、霊的な建て上げにつながっていっているのでは?そうだとしたら、幸いだと思いますし、今後も、わずかでも助けになれたらと思います。そしてもし、そのことを通して霊的に養われているとしたら、神さまが言われている牧会を少しでもさせていただけているのでは?と、思います。

 

「牧会」に関してのポイント3:「見本」になること

 

3「群れの模範となりなさい」とあるように、「模範」になっていく歩みをしていきたいと思います。ちなみに「模範」は英語では、「見本」と訳されています。群れの「見本」になって歩んでいくことが、そのまま「牧会」に通じるのです。さきほどは、みことばから正しくメッセージをするというポイントについて述べましたが・・・それはそれで大事なことですが、ただし、単に理論だけで終わるのではなく、「実践をしていきましょう!」ということを、ここではお勧めしているのです。「見本」になるということは、「見本になる行動」が伴わなければ、当然「見本」にはなれませんよね。どこかのみことばでパウロが「ほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです」ということを言ってしましたが、そのことに通じるのではないか?と思います。正しくみことばを語り、なおかつ御教えに留まった歩みを常にしていく、そしてそれを見た人が、「あの人がしているようにしていこう!」と、そんな風になれれば良いのです。具体的に「見本」になる歩みとは、どんな歩みか?と言うと、イエスさまのような歩みです。「見本」になるためには、イエスさまが歩まれたような歩みをそのまましていけば良いのです。ヘブル人への手紙にはイエスさまのことを、「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい」ということがはっきりと書かれていますので、どこまでもイエスさまを規範として歩む、それに徹していきたいと思います。そうしていくときに、真理を見る人、悔い改め(方向転換)をする人があらわれていきます。もちろん「見本」になったからと言って、皆が皆、同じ反応をするわけではなく、中には反発する人もいるかもしれませんし、場合によってはそういう人のほうが多いかもしれませんが、ほんのわずかでも、真理に立ち返る人のために、「見本」を示していきたいと思います。たかが「見本」と思うかもしれませんが、みことばに、「人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」ということも言われてますので、ぜひぜひ、「見本」となるような歩みをして、一人でも多くの人を「義の道」へと導いていきたいと思います。そしてその延長線上においては、4節に書かれている「栄光の冠を受ける」のことばが、その人の上にそのまま成就していきます。反対にもし、私たちが群れの「見本」にならない場合、いわばみことばを行わない歩みをし続けていく時に、ろくでもない信者ばかりが育ってしまうのではないかと思います。そしてそれだけでなく、滅びへと道連れにしてしまいますので、くれぐれも気をつけていきたいと思います。

 

以上が、本日神さまから示された「牧会」に関する要点です。主に栄光を帰し、感謝します。