聖書箇所 Ⅰヨハネの手紙2:18

 

 

 

2:18 小さい者たちよ。今は終わりの時です。あなたがたが反キリストの来ることを聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現われています。それによって、今が終わりの時であることがわかります。

 

 

 

「反キリスト」というテーマで、みことばに沿ってみていきたいと思います。

 

 

 

以前から語っていますように、また、冒頭のみことばにもありますように、「今は終わりの時」です。そして、「終わりの時」とはどんな時かと言うと、「多くの反キリスト」が現れる時なのです。「今や多くの反キリストが現れています」とペテロが言っているように、もし、多くの「反キリスト」が現れているなら、それは、「終わりの時」であるということが認識できるのです。ペテロやパウロの時代の初代教会の時から、このことは前もって預言されていたのです。ちなみに伝道の書12章やⅠテモテへの手紙4章には、世の終わりの教会がどんな風になっていくか?について書かれています。人間的には受け入れがたいかも知れませんが、「俗悪な年寄り女」と表現されているように、世の終わりの多くの教会は「俗悪」なものになっていくというのが、聖書で言われていることです。そして何によって「俗悪」になっていくのか?と言うと、まさに「反キリスト」、分かりやすく言うなら、「反キリストの教え」によって「俗悪」なものへとなってしまうのです。

 

 

 

ところで、以前の私もその一人でしたが、多くの人が、いまだクリスチャンは、艱難を通らずに携挙されるなんていうことを盲信しているために、「反キリスト」なんてことばを聞いても、もしかしたらあまりピンと来ないかもしれません。艱難は通らないのだから、自分とは無縁なんていう風に思われているクリスチャンは、まだまだ多いのでは?と思います。しかも、「反キリスト」は艱難時代に登場するのだから、全く関係が無いという概念も、持たれているかもしれません。しかし、本日のみことばに書かれているように、艱難時代はもちろんのこと、いいえそれだけではなく、艱難時代の到来前、すなわち世の終わりに、「反キリスト」はすでに現れているというのが、聖書で言われている教えです。そう思いませんか?冒頭のみことばをどのように読んでも、「反キリスト」は艱難時代だけに出てくるとは、読めませんよね?!そして、もう、すでに現れているのだとしたら、「反キリスト」とは、どんな人物なのか?ということについて学んでいく必要があるのでは?と、思いましたので、そのことについてこれから話をしていきたいと思います。

 

 

 

さて、「反キリスト」と聞いて、皆さんはどのようなイメージをお持ちになりますか?かつての私は、政治指導者、つまり、キリストを信じていないこの世の権力者が、キリスト教にありとあらゆるイチャモンを付けて、すべてのクリスチャンを迫害する人がいずれ現れると、そんな風に思っていました。でも、このことばをよく考えてみてみると、「反」とは、付いているものの、「キリスト」という名前がちゃんと入っていますよね。なので、やはりキリスト教に関係する人だというとらえをしていくのが正しいのでは?と思います。ちなみに「反キリスト」とは原語では、「キリストの代わり」という意味だそうです。また、「反キリスト」は聖書の他の箇所では、「不法の人」とも表現されていて、それは英語では、「罪の人」という意味だそうです。「キリストの代わり」ということばから考えてみると、表面的にはキリストと似ているのだと思います。ではあっても、「罪の人」でもあるので、的外れなことを言ったりしたりする人を言われているのでは?と思います。ですから、この世の神さまを知らない未信者ではなく、クリスチャン(のふりをする人物)の可能性が大いにあるのでは?と思います。そして場合によっては聖書のことばを用いてキリスト教の教理を語るのでしょう。でも、実際はどうか?と言うと、同章22節に書かれているように、「イエスがキリストであることを否定する者」なのです。「クリスチャンなら、イエスがキリストだということを否定するわけはないでしょ?!」と言われるかもしれません。おっしゃるように、たしかに口先では、「主は、私たちの救い主です」と言うでしょう。でも、現実はどうでしょうか?「地獄は無い」「進化論は正しい」「クリスチャンは、艱難は通らずに携挙される」「クリスチャンなら裁かれない」等の教えは、キリストが語った教えでしょうか?聖書には「火の池」のことや、「人は神によって創造されたのであって、偶然に進化したわけではない」ことや、「クリスチャンが世の終わりの艱難に会う」ことや、「クリスチャンであっても死後、二種類の運命がある」ことについて、ことばを変え、表現を変えて語られています。だとするなら、これらの教えは、みことばなるキリストに反するものではないでしょうか?賛美をし、主をほめたたえ、しかし、一方では聖書のみことばを否定することを語るなら、それは、「反キリストの教え」と言えないでしょうか?そしてそのことだけにかぎらず、そういった教えがすでに蔓延しているのなら、それはもう、「終わりの時」であるということを言われているのです。

 

 

 

どうでしょうか?「反キリスト」と言うと、私たちからまだまだ遠い存在だというイメージお持ちかと思いますが、しかし、実際はとても身近な存在であり、また、好むと好まざると、すでに存在しているということがお分かりになるのでは?と思います。まさに、「多くの反キリストが現れています」とのことばは、もう、すでに成就しつつあり、これから益々拡大化していき、やがては全世界を席巻していくと思われます。ですから私たちは決してだまされてはいけません。同章22節の後半に、「御父と御子を否認する者、それが反キリストです」とあるのですが、もうアメリカでは、「イエス・キリストの名」によって祈らなくなっている教会が増えているそうです。ちらっと聞いた話だと、「主の御名によって」のところを「全能なる至高者によって」などとそんな風に祈っているそうです。聖書でははっきりと、「わたし(キリスト)の名によって求めなさい」と言われているのですが、このことは、みことばに反していますよね。また、故マザー・テレサは、仏教徒でもヒンズー教徒でも救われるから、死ぬまでキリストを受け入れなくても良いなどと、言っていたそうです。これって、聖書で言われている救いの根幹からは全くズレていますよね。こういうことを唱える人は、いずれも、「御父と御子を否認する者」、すなわち「反キリスト」なので、くれぐれも気を付けなければいけません。こんな教えに従うなら、あわやせっかくの救いが、パァーになってしまいますので注意が必要です。そして冒頭のみことばの次節に書かれているように、「彼らは私たちの中から出て行きましたが、もともと私たちの仲間ではなかったのです」とあるように、表面はいかにもクリスチャンという感じなのですが、しかし、実質はそうではなく、クリスチャンを装って別の教えに引っ張っていこうとする人たちがいるということをよくよく認識していきたいと思います。そして私たちはこういう人たちをきちんと見分けて注意を払っていく必要があります。そしてまかり間違えても、別の教えに引っ張られて、永遠の命をみすみす逃してしまうことのないようにくれぐれも気をつけていきたいと思います。

 

 

 

繰り返しますが、今の時代を霊の目できちんと見分けるなら、「反キリスト」は実に私たちの身近にいるのでは?と思います。教会をはじめ、インターネットのメッセージ、キリスト教関連の書籍や新聞、至るところに現れている可能性がありますので、見たり聞いたりする事柄については、よくよく吟味していきたいと思います。

 

 

 

 

メッセージの中にも書きましたが、以前の私は反キリストについて、全く違うとらえをしていました。キリスト教とは無縁の人がクリスチャンを迫害すると、そんなイメージを持っていました。しかも当時、艱難前携挙説を信じていたので、自分とは関係が無いと思っていましたので、深く考えることもありませんでした。そんなわけで変な話、自分自身も「反キリスト」でした。その頃、私は神さまを知らない未信者の人たちへの伝道にかなり力を入れていました。もちろん今でもそうなのですが、ただ、以前の伝道方法と言えば、「クリスチャンになれば確実に天国に行けるし、艱難には会わずに携挙されるから大丈夫」なんていうことを平気で言っていました。今、思えば、こんな恐ろしいことを・・・と、思いますが、その時の自分もクリスチャンに変わりはありませんでした。でも、神さまから見れば、クリスチャンどころか、みことばを真っ向から否定する「反キリスト」だったのでは?と思います。もちろん知らずにしてしたことではありましたが、その後、神さまの憐れみによって目が覚まされて、悔い改めることができて、本当に良かったと思います。自分自身が反キリストになってはいけないし、また、反キリストの教えを受けることがないように、これからも気をつけていきたいと思います。黙示録をはじめ、聖書の所々には、艱難時代に反キリストの教えを拒否する正しいクリスチャンの迫害や苦難についてのことが書かれていますが、益々救いがキリストのみにあることを語り、みことばに正しくくっついていきたいと思います。本日も大切なことを語ってくださった神さまに栄光と誉れがありますように。