聖書箇所 Ⅱコリント人への手紙2:17

 

2:17 私たちは、多くの人のように、神のことばに混ぜ物をして売るようなことはせず、真心から、また神によって、神の御前でキリストにあって語るのです。

 

「法律をもとに教えが曲げられていく」というテーマで、御言葉に沿ってみていきたいと思います。

 

上記の御言葉が言わんとしていることは、パウロの時代もそうだったかも知れませんが、これから、神のことばが、さらに曲げられていくということの暗示ではなかろうか?と、思います。

「混ぜ物」のところは、英語では、「邪悪」という言葉が使われています。

要するに、多くの人が神のことばを邪悪にしているということを言われているのです。

聖書的に言わせていただくなら、神のことばを後ろに投げ捨てている・・・そんなところでしょうか。

ちなみに、パウロの時、初代教会の時代でさえ、そんな風に言われていたのですから、今の時代、つまり、終末の時は、なおのこと、そういったことがゆるされているのではないかと思います。

 

さて、神のことばを邪悪にするとは、具体的には、どんなことを言われているのでしょうか?

たとえば、ふと、思いついたことを言わせていただくなら、「イエスの名で祈るな」とか「同性愛を容認しろ」とか、そういうことではないかと思います。

こういうことは、日本では、あまり、と、言うか、ほとんど、聞いたことがないと思いますが、アメリカでは、もう、日常茶飯事のようです。

そのため、警察署で伝道していた牧師が、所属している教会の主任牧師に「今後、イエスの名で祈らないように」と注意されたり、はたまた、小学校で食事の前に祈っていた男の子が教師に注意されて椅子ごと外に出されたということがあったそうです。

また、同性愛について指摘した高校生の男の子が自宅謹慎の処分を受けてしまったとか、そういうことが、アメリカでは起きているのです。

これらは、ほんの一部のことであります。

しかし、実際に、イエスの名によって祈ることや同性愛を禁じていることに関しては、聖書に、はっきり書かれていますので、こういったことに関して、法律で定められているからと言って、安直に受け入れたり、従うことには、まったく御心はありません。

人から注意をされたり、はたまた謹慎処分になってしまうことは、本人にとって、また、人目にも嫌なことかも知れませんが、しかし、御言葉に従っていくことに御心があります。

キリスト教国と言われているアメリカが・・・それこそ、神の言葉と言いながら、一方では、邪悪なことが語られているのです。

今は、このようなことは、アメリカ国内にとどまっていることかも知れませんが、同じようなことが、やがては、日本を含むアジアの地域、そして、全世界へと広がっていくように思われます。

もし、このようなことが、まかり通っていくのなら、法律で制定されるようになるのなら・・・つまり、イエスの名で祈るな!とか、同性愛を容認しろ!と、いうことが、大手を振って言われていくようになるのなら、そのようなことを教会でも認めざるを得なくなり、そのことに従わない人は、排除するというような方向になっていくと思います。

聖書に基づいて、正しいことをしている人が、そのような目に会うというのは、非常に理不尽なことですよね。

しかし、現にアメリカで起きていることを通して、まさに、試練、困難、艱難の時が近付きつつあることが理解できるのではないかと思います。

いわば、法律をもとに、聖書の御言葉が、ないがしろにされ、正しい教理がどんどん捻じ曲げられていくような時代に入りつつあるのだということを、どうか、ご理解ください。

 

さて、そのようなときに、私たちは、どのように対応するのか?

ちなみに、終末は、今、申し上げたことのほかにも、多くの偽りや嘘や惑わす力がゆるされていきます。

でも、そんな中にあっても、御言葉をどのように扱うか?によって、後の世の行き先が変わってしまいます。

なぜかというと、今は、そんな風な特殊な時代だからと言って、特別なハンディが適用されるわけではなく、やはり、200年前の時代の人も、そして、何千年も前の時代の人も、同じ、聖書の御言葉で、お一人一人は、さばかれるからです。

たしかに、聖書の言葉が曲げられている時代に生きている私たちは、とても不利な状況に置かれているように思えます。

でも、聖書において、「今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。」とさえ言われていますので、もし、私たちが、これから艱難時代に入ったとしても、忍耐をもって最後まで、御言葉に忠実な歩みをするのなら、神様から重い栄光をいただけるのです。

ですから、多少の苦難や困難がゆるされたとしても、どうか、自暴自棄になることなく、聖書がどのように語っているのか?について、絶えず目を向けていきたいと思います。

たしかに、これから、アメリカ主導で、正しく御言葉につくクリスチャンにとっては、不利な法律が立てられてしまい、それをもとに、多くの教会から正しい教えが、どんどん消えてしまうかも知れませんが、そのことに落胆したり、失望したり、妥協したりすることの無いように、今からきちんと祈り求めていきたいと思います。

たとえ、天地(教会のたとえです)が滅んでも、御言葉は決して滅びることはないと言われていますので、ぜひ、このことを覚えておきたいと思います。

まさに、本日の御言葉に書かれていますように、これから、多くのクリスチャンが御言葉を投げ捨てていく時代に入っていくかも知れませんが、そういった状況の中にあっても、どこまでも御言葉に、くっついていきたいと思います。

これから、法律をもとに、この世の常識やキリスト教会の常識とは、往々にしてぶつかっていくと思いますが、いずれ、各自がそれぞれの報いを刈り取るときがきますので、益々、御言葉に恐れをもって、神様の前に忠実に歩んでいきたいと思います。

 

ここ、しばらくの間、礼拝のときにヨブ記を通して、艱難時代に関しての学びをしています。

本日、取り上げたアメリカのことは、礼拝のメッセージや弟子訓練のおすすめのときにエレミヤ牧師から聞いたことです。

以前は、御言葉を中心に、未来に起きることについて語っていただいていましたが、ここ、最近は、現実にアメリカで起きている出来事とも併せて、世の終わりに起きることについて、より鮮明に教えていただいています。

このことが、フィクションならいいのですが、そうではなく、アメリカの実情を通して、多くの御言葉が速やかに成就しつつあることを目の当たりにしていますので、御言葉を堅く握っていないと、ひっくり返されてしまうということを痛切に感じています。

数年前から、艱難時代に関する備えについて、主が語ってくださっているのですが、祈りによって備えつつ、また、今現在、困難に会っているクリスチャンの助けになれるような働きに関しても、わずかでも入っていかれたらなぁと思っています。

本日も大切なことを語ってくださった神様に栄光と誉れがありますように。