聖書箇所 Ⅱコリント人への手紙2:10,11

 

2:10 もしあなたがたが人を赦すなら、私もその人を赦します。私が何かを赦したのなら、私の赦したことは、あなたがたのために、キリストの御前で赦したのです。

2:11 これは、私たちがサタンに欺かれないためです。私たちはサタンの策略を知らないわけではありません

 

「サタンの策略に正しく対応する」というテーマで、御言葉に沿ってみていきたいと思います。

「人を赦す」ことについてみながら、話をしていきたいと思います。

 

2:10 もしあなたがたが人を赦すなら、私もその人を赦します。私が何かを赦したのなら、私の赦したことは、あなたがたのために、キリストの御前で赦したのです。

 

「人を赦す」ことについて、クリスチャンでしたら、多くの方がご存知かと思います。

「主の祈り」の中にも、「われらに罪を犯す者をわれらが赦すごとく、われらの罪をも赦したまえ」ということばがあります。

聖書にも、「私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。」と、書かれています。

ですから、人を赦すということに関して、わたしたちは、いつも、まじめに向き合っていかなければいけないのです。

さて、口では、さらっと申し上げましたが、「赦す」ということは、実践してみると、案外大変なことだなぁと感じたことはないでしょうか。

「そんなことない、簡単、簡単」と、おっしゃる方もいるかも知れませんが、少なくとも、私自身は、このことには、とてもエネルギーを費やします。

なぜかと言いますと、クリスチャンと申しましても、内側には、罪が根付いていたり、自分はどこまでも正しい、間違えているのは相手の人という、いわゆる自己義認が強かったり、我が捨てきれていない部分もまだまだ残っているからです。

なので、自分のもともとの性質や力から考えると、努力では、人を赦すことなんて到底に無理!と、私の場合、そんな結論になります。

でも、それで終わらせてしまって良いかと言うと、ダメなんです。

なぜかと言いますと、人を赦さなかったり、あるいは、そこまではいかなくても、苦い思いを抱いたりしているなら、平安や喜びが消えていきます。

極端な言い方かも知れませんが、もし、そういった思いを持ち続けるなら、イエス様を失ってしまうのです。

わかりやすくいうと、真理に覆いがかけられてしまって霊的に見えなくなってしまったり、聞こえなくなってしまったりして、御言葉につまずいてしまうのです。

そうすると、天の御国が危なくなってしまうのです。

ですから、もし、誰かを赦していなかったり、苦い思いを持っていたりしたら、赦していくことができるように、すぐに、悔い改めていく必要があるのです。

たとえ、理不尽なことであったり、損になったりしてもです。

もし、何も非が無かったとしても、あまりにも、相手の人のことを責めすぎてしまうと、神の義がしだいに消えてしまい、単なるその人の義にすりかわってしまっているなんてことが往々にしてあるので、そんなことも踏まえて賢く対応していきたいと思います。

もちろん、自分の力でやりなさいとは、言いません。

でも、どうでしょうか。

全能なる天の父にお願いしてみたら、いかがでしょうか。

 

わたし自身の証で恐縮ではありますが・・・

前にも、話したかも知れませんが、わたしは、過去、ある人に対して、しばらくの間、その人に対して、苦い思いを持ち続けたことがありました。

それは、わたしに対して、理不尽なことをその人がしたからです。

もちろん、周囲の人たちも、そのことを知っていて、どちらが良いか悪いか?に、ついては、一目瞭然でした。

ところが・・・あるとき、礼拝のお祈りの時間に、「その人を赦すことができるように祈ってみたら?」と、いう語りかけを、かすかに心に受けたような気がしました。

はじめは、自分は悪くないのにどうして?と、思いました。

すると、しばらくして、こんな思いが心に浮かびました。

「そういえば、イエス様って、何ひとつ悪いことをしていないのに、十字架にかかったよね」と。

しかも、イエス様を嘲弄したり、十字架につけたりした人に対して、「父よ、彼らをおゆるしください」と、そんな風に祈っていたよなぁと。

そのことと、比較して、自分はなんて心が狭いんだろう、まして、たくさん罪もあるのに・・・もちろん、イエス様は神様なので、比較すること自体、とてもおこがましいのですが・・・

そう、自分は、こんなにも罪がある、でも、今までの罪も、また、今、持っている罪も、そして、これから犯すであろう罪も、主は赦してくださるのだから、わたしも、赦そう!と、決意しました。

そして、その人を赦せますように、わたしにしたことに対する神様の御怒りがその人に下されることがありませんようにと、ただただ、そのことだけを祈りました。

しばらくして、涙があふれてきました。

聖霊さまが、わたしを悔い改めに導いておられるんだなぁということを、痛切に感じました。

自分が祈っていると思っていましたが・・・たしかに祈っているのは、わたし自身なのですが、聖霊さまがわたしのために、とりなしてくださっている、わたしの心の奥底にまで触れていてくださっていると思い、すべて、神様に委ねることができました。

ひとたび、祈りを終えると、わたしの心の奥底にあった、その人への苦い思いは、一切、消えていました。

 

このことは、ほんの一例ではありますが、その後、そして、今現在も、そういったことにたびたび直面しますが、そのたびに、イエス様に「心の内側にある苦い思いや人をさばいたり、罪にさだめようとしたりする思いを取り去ってください」と、お祈りしています。

すぐに、聞いていただけるときもありますし、時間が、かかる場合もあります。

でも、しつこく何度も祈り続けていくうちに、主の不思議な方法によって、解決していきます。

「うそーっ、そんなはずない!」と、おっしゃる方もいるかも知れませんが、もし、そんなことにとらわれていましたら、ぜひ、実践されることをおすすめいたします。

絶対に無理、これは、ダメかも?!と、思うことでも、神様に祈っていくときに、形勢が変えられたり、根底がひっくり返されたりしていきますので、本当におすすめです。

そうでないと、先にも申し上げましたように・・・もし、人を赦さなかったり、苦い思いを持ち続けたりしたまま世を去った場合に、さばかれてしまいますので、くれぐれも気をつけていきたいと思います。

そして、そういった思いから解放されていくときに、主からの喜びや平安を取り戻すことができます。

それだけでなく、感謝の思いも、ますます与えられていきます。

そういったことを何度もくりかえし体験していくなかで(もちろん、人に対して、そういった思いをはじめからまったく抱かないことがベストなんでしょうけど、やむを得ず、そのような思いに陥ってしまった場合に)以前にも増して、主を信頼したり、主に仕えていこう!と、そんな思いにもなっていきます。

「人を赦す」というのは、一見、些細で、クリスチャンの間では、常識のことかも知れませんが、とても、大切なことだと思います。

そして、パウロが、わざわざ、こんな風に手紙に書いたということには、意味があって・・・

もちろん、わたしも、その一人ですので、偉そうなことは言えませんが、おそらく、多くのクリスチャンが、案外、人を赦していなかったり、平気でさばいてしまったりしていて・・・にも、かかわらず、そのことにすら気がついていなかったり悔い改めていなかったりすることが多いから、そんな風に言われているのではないかなぁと思います。

そして、わたしたちが、もし、そんな風にしていくなら、21節のことが成就してしまうのです。

 

2:11 これは、私たちがサタンに欺かれないためです。私たちはサタンの策略を知らないわけではありません

 

「欺かれない」のところは、KJV訳では、「有利な立場を得る」と書いてあります。

つまり、わたしたちが、人を赦さないなら、いいえ、それだけでなく、良くない思いで心が満ちているのなら、サタンにとって、じつに、好都合だということなのです。

ここに、サタンの策略と書かれていることに注目していただきたいのです。

みなさまもご存知のように、サタンはクリスチャンにとって、敵の存在です。

ですので、わたしたちは、敵に対して無防備であってはならないのです。

何を申し上げたいのかというと、サタンの策略をわたしたちは多少なりとも知らなければ、ダメなのです。

そうでないと、簡単に、敵に打ち負かされてしまうからです。

さて、サタンの策略、いわば、わたしたちの魂を荒廃にいたらせるための効果的な攻撃のひとつに、「感情思索」に働く方法があります。

感情思索を刺激して、何とか、滅びへと持ち込もうとするということに関しては、よくよく、とらえておいたほうがよいと思います。

そして、サタンは、人よりも知能が高いので、お一人一人の弱点をよく知っています。

ゆえに、その人の感情的にもっとも弱い部分に、グーッと、働きかけてきます。

そして、良くない方向へとひっぱっていきます。

たとえば、怒りっぽい人には、その人を何とか怒らせて、怒りの感情で満たし、真理から目を背かせるように仕向けてきます。

だからといって、怒りの感情にまかせて、行動を起こすべきではありません。

もし、そこで、感情のおもむくままに、怒りをあらわにしてしまうなら、サタンの思うツボです。

さきほど、好都合と申し上げましたが、サタンの立場が圧倒的に優位になり、さらなる攻撃を受けることになってしまいます。

そうすると、事態は、ますます、混乱へと陥っていきます。

ですから、そこで、いったん、心を冷静にして、すぐに、神様に助けを祈り求めていくようにしていきたいと思います。

もちろん、聖霊によって、感情をコントロールできるようになるには、ある程度の時間が、かかりますので、当然、忍耐を要します。

また、そのようなことは、わたしたちの信仰を試すために、ある意味、神様にゆるされていることでもあります。

そのときに、自分の感情を優先して、肉の思いのまま、行動に移すのか?あるいは、神様に思いを委ねていくのか?と、いう選択が問われます。

どちらかを選ぶかによって、結果は、大きく変わってきます。

言うまでもなく、賢いあなたなら、後者を迷いなく、選ぶのではないでしょうか。

わたしも、それが、正しいと思います。

ですので、キリストにある忍耐を祈り求めながらも、そういった良くない思いに対して、勝利できるように、ひたすら祈っていくことが大切です。

そうしていくときに、はじめは、不利であったり、何ら状況が変わらなかったりしても、敵が少しずつ、退いていくようになります。

敵はしつこいので、そうそう簡単には、手を引きませんが、わたしたちの側でも、しつこく神様に祈っていくのなら・・・いくら、敵がわたしたちよりも強いと言っても、神様の力には、到底、叶いませんので、あきらめて、去っていきます。

そうなれば、キリストの力によって勝利を得たことになります。

 

いろいろと、くどくどと、書き連ねてしまいましたが、クリスチャン生活は、こういったことの繰り返しであるということについて、そのことを念頭に置きながら、歩んだり、働きを担っていったりする必要があります。

 

繰り返しますが、わたしたちの肉の弱い部分、特に、感情や思いに敵は働きかけて、信仰をくつがえし、はたまた、滅びへと向かわせますので、そのことについては、祈りによって正しく正しく、対応していきたいと思います。

 

パウロの書簡のところどころに、「節制」とか「自制」ということばが出てきますが、聖霊の力によって、感情や思いを常にコントロールしていくことにポイントがありますし、正しく、対応していくかどうかによって、死後の結末を大きく左右してしまいすので、きちんと向き合っていきたいと思います。

そういった点に関しても、ぜひ、とらえておいていただけたらと思います。