聖書箇所 コリント人への手紙5:15

 

5:15 また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。

 

「キリストのために生きる」というテーマで、御言葉に沿ってみていきたいと思います。

 

 以前から申し上げていますように、クリスチャンには、2通りの歩み方があります。そして、上記、御言葉を通して、クリスチャンの本来のあるべき姿について、私たちは学ぶことができます。

 

ここでは、キリストがすべての人のために十字架にかかって死なれて復活されたこと、そして、生きている人々は、自分のためではなく、キリストのために生きることについて奨励しています。ちなみに「生きている人々」とは、この世の人のことではなく、キリストにあって生きている人々、すなわち、クリスチャンのことを言われています。なぜなら、創世記に、このような御言葉があるからです。

 

参照 創世記2:7

2:7 その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。

 

 「その鼻にいのちの息を吹き込まれた」と、書かれていますが、このことは、神様がアダムを造られたときになさったことです。「いのちの息」とは、皆さんもご存知のように、「聖霊」のことです。そう、この世の人は、神様のことも、キリストのことも、聖霊のことも知りません。ゆえに、クリスチャンのことを言われていることがお分かりになるでしょう。

 

 再び、コリント人への手紙のほうに戻りますが、先に申し上げましたように、同じクリスチャンであっても、必ずしも、一様の歩みをするわけではなく、個々の人の選択によってそれぞれ異なります。本日の箇所で言われていますように、キリストのために生きるクリスチャンと、そうでないクリスチャンとに二分します。そして、どちらが良いか?と、それは言うまでもなく、「キリストのために生きるクリスチャン」です。

 

 では、具体的に、「キリストのために生きるクリスチャン」とは、どんなクリスチャンなのか?と、言うと、一口で説明するなら、絶えず霊的な事柄に目を向けていくクリスチャン、あるいは、霊的なことに目を注いでいこうとするクリスチャンのことです。一方、キリストのためではなく、「自分のために生きるクリスチャン」とは、霊的な事柄よりも、肉的なことばかりに支配されているクリスチャンのことです。もちろん、本人が意識して、自覚して、そうしようと心がけているわけではないと思います。でも、霊的な事柄に目が向かなくなったときに、自動的に、肉、すなわち、罪の中に、あっという間に入ってしまうというのは、聖書で言われている原則のひとつであるという点に関しては、正しくとらえておいていただきたいと思います。

 

 つまり、キリストのために生きていこうとするのなら、ある程度の努力を要するのです。信仰さえ持っていれば、今更努力なんて必要ないでしょ!!と、おっしゃるかも知れません。もちろん、すべてのことは聖霊の力によってなされていきます。しかし、聖霊に働いていただくためには、いつも、申し上げていますように、私たちのほうで、祈って、求めていかなければいけないのです。

 

 ちなみに、「努力」という言葉が使われている御言葉がありますので、参考までに、見ておいてください。

 

参照 ルカ13:24,ピリピ2:16,Ⅱペテロ1:5-7,ユダ1:3

13:24 努力して狭い門からはいりなさい。なぜなら、あなたがたに言いますが、はいろうとしても、はいれなくなる人が多いのですから。

 

2:16 いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです。そうすれば、私は、自分の努力したことがむだではなく、苦労したこともむだでなかったことを、キリストの日に誇ることができます。

 

1:5 こういうわけですから、あなたがたは、あらゆる努力をして、信仰には徳を、徳には知識を、

1:6 知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、

1:7 敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。

 

1:3 愛する人々。私はあなたがたに、私たちがともに受けている救いについて手紙を書こうとして、あらゆる努力をしていましたが、聖徒にひとたび伝えられた信仰のために戦うよう、あなたがたに勧める手紙を書く必要が生じました。

 

 また、「努力」という言葉に関連して、「熱心に」とか「労苦」とか「奮闘」という言葉も使われています。

 

参照 エペソ4:3,Ⅰテモテ6:11,Ⅰペテロ1:10,Ⅱペテロ1:10,黙示録3:19,ピリピ1:27,コロサイ1:29

4:3 平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。

 

6:11 しかし、神の人よ。あなたは、これらのことを避け、正しさ、敬虔、信仰、愛、忍耐、柔和を熱心に求めなさい。

 

1:10 この救いについては、あなたがたに対する恵みについて預言した預言者たちも、熱心に尋ね、細かく調べました。

 

1:10 ですから、兄弟たちよ。ますます熱心に、あなたがたの召されたことと選ばれたこととを確かなものとしなさい。これらのことを行なっていれば、つまずくことなど決してありません。

 

3:19 わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。

 

1:27 ただ、キリストの福音にふさわしく生活しなさい。そうすれば、私が行ってあなたがたに会うにしても、また離れているにしても、私はあなたがたについて、こう聞くことができるでしょう。あなたがたは霊を一つにしてしっかりと立ち、心を一つにして福音の信仰のために、ともに奮闘しており

 

1:29 このために、私もまた、自分のうちに力強く働くキリストの力によって、労苦しながら奮闘しています。

 

 私たちが、神様の前にきちんと信仰を保つ、すなわち、キリストのために生きるというのは、こういったことを、ことさら意識して行っていかなければいけないということが、これらの数々の御言葉を通して理解できるのではないでしょうか。このことは、すべて、「霊的な事柄」に通じるという風に言えると思います。ただし、このようなことを単に知っているだけではNGです。熱心に祈り求めていくことにポイントがあります。さっき申し上げましたように、聖霊の力というのは、残念ながら、ただ単に、私たちが待っているだけでは働かないからです。しかし、きちんと祈り求めていく人には、すべてのことが実現していきます。そして、結果として、キリストのために生きるということになっていくのです。

 

 以前の私もその一人でしたので、何も偉そうなことは申し上げられないのですが、「昨今、キリストのために生きていこう!」という志をもって歩んでいる方が、ほとんど見られなくなったように思います。もちろん、こういった点に関しても、神様はどこまでも、それぞれの人の自由意志を尊重される方ですので、私などが、とやかく言うことではないのですが、でも、聖書では明らかに、クリスチャンはキリストのために生きるということを奨励しています。それは、単に、日曜日の礼拝に参加すれば、それでいい!と、いうのではなく、毎日の歩みに通じるということをご理解いただきたいと思います。

 

さて、キリストのために生きるというのは、世の中的には、一見、敗北だったり、損ばかりしているかのように思われてしまうかも知れませんが、しかし、そのように歩んでいく人が、最終的には勝利者となり、御国を受けるにふさわしい者と、神様の前には判断されるように思います。反対に、自分のためばかりに生きている人、つまり、ろくに祈らず聖書も読まない、奉仕もほとんどしないという人は、いくらクリスチャンと称していても、御国を受け継ぐのは、厳しいのではないか?と、思います。なぜかと言うと、聖書は、イエス・キリストを証する書とも言われていますし、それと同時に永遠のいのちを獲得する手段についての記述だからです。イエス様がこのように言われているのを思い出しませんか?「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。」(ヨハネ5:39)とあります。まさに、本日の箇所でも、どんな風に歩んでいったら、永遠のいのちをゲットできるか?について言われているのではないでしょうか?「自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです」などと、あえて、書いてあるということは、キリストのために生きる人は永遠のいのちを得るけれども、そうでない人は危ないということを言われているのではないでしょうか?すくなくとも、私には、この箇所は、そのようにしか理解できません。

 

たしかに、神様の前に、二通りの歩みはある、しかし、御言葉に書かれていることを選んでいく人に御心があると思います。また、はじめに申し上げましたように、祈りや御言葉に触れていかなくなったときに、キリストのために生きることから外れてしまいますので、ぜひ、このことを毎日の生活の中で、習慣としておこなってていきたいと思います。

 

くり返して言うようですが、キリストから外れていくのは簡単で、とどまり続けていくほうが困難であり、そのためには、努力、労苦、奮闘、熱心が必要であるという点に関しては、再度、申し上げておきます。しかし、あえて、そういったことを自らの意志で選んでいく人に御心がありますし、実際におこなっていく人には、神様からの守りや助けや知恵や力が与えられていきます。そして、最後まで、きちんと全うするのなら、その延長線上においては、永遠のいのちが約束されているのです。ぜひ、こういう点に関しても、見ておいていただけたらと思います。

 

 メッセージの中でも書きましたように、以前は自分で特に自覚したわけではなかったのですが、私も、「自分のために生きる者」の一人でした。毎週の礼拝にはきちんと行っていましたし、多少の奉仕もしていましたし、お祈りや御言葉にも、ある程度の時間は割いていました。でも、本日語りましたように、「熱心におこなっていたか?」と、問われると、そうではありませんでした。まあまあ、そこそこ、おこなって、あとは、自分のしたいことにも時間を費やしていましたので、「キリストオンリーの生活」とは、とても、言えませんでした。

 

 でも、神様の一方的な憐れみと愛によって、「キリストのために生きる」という風に、少しずつではありますが、方向を転換させていただけるようになり、日々の歩みや働きや訓練の中で少しずつ体得させていただくようになりました。もちろん、完璧か?と、言うと、そうではありませんが、すくなくとも、日々、そのような志で、神様の前に歩ませていただいています。そうしていくときに、不思議と、是正すべき点に関しても、さらに教えていただけるようになりました。また、人知を超えた喜びや平安にもさらに恵まれるようになりました。反対に、少しでも、キリストから離れてしまうと、変な不安や焦燥感が内側を襲うようになりました。このことも、神様からいただいた恵みだと思います。感謝です。

 

最後に・・・本日の御言葉について、今日も神様から教えていただいた一部をメッセージとして紹介させていただきましたが、このことに関する奥義はとても深いものがありますし、クリスチャンとして歩んでいく中での基本中の基本なのだなぁということを改めて痛感するものがありました。本日も大切なポイントについて語ってくださった神様に栄光と誉れがありますように。