聖書箇所 Ⅱコリント人への手紙5:9,10

 

5:9 そういうわけで、肉体の中にあろうと、肉体を離れていようと、私たちの念願とするところは、主に喜ばれることです。

5:10 なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現われて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。

 

「キリストのさばきの座に備える」というテーマで、御言葉に沿ってみていきたいと思います。

 

「さばきの座」とは、この世において聞きなれないことばかもしれません。

クリスチャンであっても、普段、あまり使わないのではないかと思います。

ただ、そうではあっても、私たちが、信仰の歩みをしていくときに、常に、「さばきの座」のことを念頭においていかなければいけません。

その理由が、10節に書かれていまして、死後、お一人一人は例外なく、キリストのさばき座に立つからです。

なので、生きている間、そのための備えをしていかなければいけないのです。

と、言いますか、この地上にいるときだけが、チャンスなのです。

死後、さばきの座の前に立ちますので、死んだあとでは、遅いということをどうか、ご理解ください。

この世においても、色々と備えなければならないことはあると思います。

たとえば、受験のための備えや結婚前の準備などがあります。

これらのものはその人にとって、今後の運命を左右するために、とても大事なことかもしれません。

でも、クリスチャンにとって、いえいえ、全世界の人々にとりましても、もっとも大切な備えは、「死後」のことなのです。

たしかに、良い大学に入学したり、高収入の人や美人の人と結婚して幸せな生活を送ったり、素敵なマイホームを手に入れて快適に過ごす、それも良いかもしれませんが、どこまでいっても、この世のことであります。

そう、縁起でも無いといわれてしまうかもしれませんが、肉体のいのちを離脱したと同時に、終わるものであります。

そうなんです、当たり前のことでありますが、この世においては、寿命がありますので、どんなに健康に気を遣って病気ひとつしなくても、また、たとえ長寿といわれていても、所詮、いつかは死にます。

聖書にも、「私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。」と、書かれています。

ところが、死後の世界は、「永遠」に続くものなのです。

この世のことは、どんなことも有限ですので、「永遠」とは、未知の世界であり、想像もつきませんが、永遠において、私たちは、いったいどこにいるのか?が、とても、大事なのです。

何を言われているか、鋭く賢いあなたなら、もう、お分かりだと思います。

死後の行き先、居場所というのは、「天の御国」あるいは、「火の池」かの、いずれか2つに1つだけです。

クリスチャンでしたら、「いまさら、あえて言われなくたって、分かっているよ!」と、おっしゃるでしょう。

以前の私も、そんな風に思っていましたし、自動的に天国に入れるくらいに思っていましたので、そんなことを改めて考えたこともありませんでした。

ただ、少し考えていただきたいのです。

クリスチャンは、死後のことについて、十分、分かっているかもしれません。

でも、どうでしょうか。

パウロがこんな風にわざわざ、キリストのさばきの座に現われて善であれ、悪であれ、さばかれることについて書かれているということは、案外、私たちは、分かっているようでいて、分かっていないのではないでしょうか。

しかも、ヘブル人への手紙にも、同じようなことが書かれています。

 

参照 へブル人への手紙9:27

9:27 そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように

 

パウロがコリントの教会の人にも、ヘブルの人々にも、このように重ねて書かれているということは、終末を生きている私たちクリスチャンにも、このことを強調されたかったのではないかということが伺えます。

私たちが考えている以上に、このことは、とても、大事だということなのではないでしょうか。

そして、案外、この、「キリストのさばき」に向けて、クリスチャン生活を送っている人が少ないということも言われているように思います。

最近、礼拝のメッセージから教えていただいたことですが、神の怒りやさばきに対する恐れを抱いていないクリスチャンが多いということです。

その理由として、キリスト教会では、神があまりにも愛であることが強調されているがゆえに、神の怒りやさばきに関して、話半分ということになってしまっているのです。

でも、聖書では、お一人一人にさばきがなされることや、神の怒りのゆえに地球や太陽が焼き尽くされるということに関して、はっきりと書かれています。

ゆえに、レムナントキリスト教会では、御言葉からそのことをまじめに語っているのですが、相手にしてくれるクリスチャンは、ほとんどいないのが現状です。

しかし、受け入れようと受け入れまいと、「キリストのさばきの座」に、間違いなく立ちますので、そのことに恐れもって備えていくことに御心があります。

世の中は、大きな家に住んでいる人がいたり、その日食べるのにも困っている人がいたりと、不平等なことが多々ありますが、この、「キリストのさばきの座」に立つときは、お一人一人に、平等にきます。

言い方を変えるなら、誰も、このことに、抵抗もできないし、免れようのない事柄なのです。

なので、そのことを決して甘く見てはいけませんし、見過ごして済まされるようなものではないということを、くれぐれもご理解いただきたいと思います。

重ねて申し上げるようで恐縮ではありますが、「キリストのさばきの座」に関して、真剣に向き合っていく必要があるのです。

 

では、具体的にどういった備えていくのか?について、その答えが9節に書かれています。

「主に喜ばれること」とありますように、主に喜んでいただけるような歩みや働きをしていくことです。

このことは、10節の「各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受ける」の言葉に、かかっています。

このことを、さらに、分かりやすく言うなら、どんな風に行動したか?によって、報いを受けるのです。

また、黙示録には、このように書かれています。

 

参照 黙示録20:12

20:12 また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれた。

 

ここに「数々の書物」とありますが、このことは、おそらく、良いことも悪いことも、すべてお一人一人が行ったことについて記されているものではないかと思います。

と、いうのは、そのあとすぐに「別の一つの書物が開かれた」とあって、それがいのちの書であり、これらの書物に書き記されたところに従って、自分の行いに応じてさばかれたと書かれているからです。

つまり、私たちの行ったことは、すべて、神の前に記されているということなのです。

そして、主の目に叶う行いをしたかどうか?によって、死後の行き先が確定するのです。

ですから、私たちは、死ぬときまで、神様に喜ばれることだけを、ひたすら行っていきたいと思います。

もし、神様に喜ばれないことばかりを行っていくなら、その先に待つのは、滅びの場所ですので、まかり間違えても、そんなところに入らないように、残されている日々を、恐れかしこんで、主に喜ばれることのみに徹していきたいと思います。

このようなことは、一見、人間的にはデメリットのように思われますが、実践していく人に御心がありますし、なんと言っても、後の世において天と地との結果をもたらすものとなりますので、実行されていくことをぜひ、おすすめいたします。

 

メッセージの中にも書きましたように、以前は、死後のことに関して、ぼんやりとしか理解していませんでした。

クリスチャンはエスカレーター式に天国へ行けるものだと思っていましたので、こんな風に書かれていることが不思議なくらいでした。

でも、御言葉と真剣に向き合っていくうちに、「これは、何が何でも、いのちの書に名前が載らないと大変だ!!」ということに、いつしか、目が開かれていくようになりました。

それからというもの、日々、このことについて、備えるようになりました。

実践できているかどうかは別として、「神様の喜ばれることだけを行っていこう!」と決意をし、そのために、日々、神様に憐れみを求めて、そのようにできるように祈っています。

そして、これからも、ずっと、そのようなスタンスで歩みや働きをしていきたいと思っています。

本日も、主が大切なことを語ってくださり、感謝でした。

主に栄光がありますように。