聖書箇所 Ⅱコリント人への手紙6:1,2

 

6:1 私たちは神とともに働く者として、あなたがたに懇願します。神の恵みをむだに受けないようにしてください。

6:2 神は言われます。「わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。」確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。

 

「神の恵みに応じていく」というテーマで、御言葉に沿ってみていきたいと思います。

 

まず、聖書で言われる「恵み」ということに関して話したいと思います。

以前の私は、神の恵みについて、少し、勘違いをしていました。

クリスチャンと言いながらも、この世の人の価値観と、さほど変わらない歩みをしていた頃は、目に見えるものばかりにとらわれていました。

ですから、マイホームが手に入ったとか良い仕事に就くことができたとか一流の大学に入学したなどという証を聞いて、そういったことが神の恵みだという風に思っていました。

たしかに、このことも恵みの一部かも知れませんが、聖書で言われていることとは大分違うということについて、のちのち理解しました。

聖書は、イエス・キリストを証する書であると同時に、私たちクリスチャンが永遠のいのちを得るための手引書でもあります。

そのようなことが一貫して書かれているという視点で聖書を読んでいくうちに、聖書で言われている本来の「恵み」の意味合いについて私なりに理解させていただいたことがあります。

本日は、そのことについて、ぜひ、ともに分かち合えたらと思います。

 

「意外!」と、思うかもしれませんが、聖書で言われている「恵み」とは、私たちへの訓戒、懲らしめ、戒め、要は、永遠のいのちをゲットすべくための警告のことを言われているのです。

なぜ、そのようなことを申し上げるのかと言うと、2節に、「救い」ということばが書かれているからです。

わざわざ、そのように書かれているということは、「恵み」と「救い」は、非常に密接な関係にあるという風に思います。

「救い」とは、まさに、永遠の刑罰(火の池)からの救いのことです。

私たちが、永遠の刑罰から逃れることができるように、恵み(警告)があるという風に考えていくなら、つじつまが合うのではないでしょうか。

そう、クリスチャンは、皆、最終ゴールの天の御国を目指して歩んだり働きを担ったりしていきます。

クリスチャンになったら、自動的に天国!という教えもあるかも知れませんが、聖書は、逆のことを書いています。

聖書をよく読むなら、クリスチャンであっても、失敗する人たちの例が数多く挙げられています。

詳細についてはのべませんが、クリスチャンと言っても、永遠のいのちを得る人は少ない、いえいえ、いのちに至る道を見出すのは「まれ」だと言われているように、永遠のいのちを得られるクリスチャンは非常に少ない、そのような視点で、話を聞いていただきたいと思います。

もちろん、クリスチャンとして歩みをしたり働きを担っていったりすることは非常に尊いことです。

そのことは否定しません。

でも、私たちは間違いやすかったり道を踏み外しやすかったりするので、しょっちゅう警告を与えてくださる、そのまま、間違えた方向に行くなら滅びる、そういったことを逐一教えてくださる、それこそが、「恵み」なのです。

いきなりそんなことを言われて、すぐに納得されるかどうかは別として・・・でも、聖書をはじめから終わりまで、何度もくり返し通読していく中で、「恵み」ということばについて、少なくとも、私は、そのようにしか理解できませんでした。

今までも、何度か話をさせていただいたと思いますが、あるときを契機に、永遠のいのちを得るということに関して真剣に向き合うようになってから、こういったことを神様が少しずつ教えてくださるようになりましたし、今も、そのことは進行形であります。

さて、聖書には、神の愛のことば、すなわち、私たちの益となるべく、なおかつ、永遠のいのちへと導くべく、数多くの訓戒、教訓、叱責、警告などが書かれています。

なおかつ、毎週の礼拝では、牧師や教師によって、そのことが解き明かされています。

しかし、それらのものが、無駄になっているということを1節でパウロは語っているのです。

具体的にはどういうことかと言いますと、レムナントキリスト教会では、礼拝をはじめ、2ヶ月に一度のセミナーや毎月のニュースレターやインターネットの働きを通して神様からの警告を伝えております。

もちろん、喜んで聞いてくださる方もおられます。

でも、残念ながら、中には拒絶されたり、反発したりする方もおられます。

そこまで両極端な反応はされなくても、それらの警告を真摯に受け止めて、歩みの方向を変える人は、残念ながら、ほとんどおられないのが現実です。

もちろん、こういったことは、個々における人たちの判断や選択ですので、やむを得ないことだと思いますし、そもそも、神様御自身はお一人一人の自由意志を尊重されるお方ですので、当然、強制するようなことでもありません。

ただ、1節でパウロが懇願しているように、せっかくの、永遠のいのちにいたるメッセージを無駄にしてしまうのは、非常に勿体ないということです。

しかも、単に、勿体ないだけで終わるのなら良いのですが、恵み、すなわち、救いから外れてしまうという結果を招いてしまうのです。

聖書に書いてありますので、はっきり言いますが、もし、神様の恵み(警告)に応じていかないのなら、永遠のいのちは危ないということです。

そして、パウロが懇願して、このように言っているということは、案外、多くのクリスチャンが、救われているようで救われていない、もっと言うなら、永遠のいのちから外れた歩みをしているということを語っているのではないかと思います。

だからこそ、パウロは、このようなことを一生懸命語られたのではないでしょうか。

また、別の箇所でも、パウロが涙ながらに福音を語ったことについて書かれています。

パウロの足元にも及びませんが、私自身も、こういったことに関して多少なりとも体験していますので、彼が懇願したり嘆願したりして、福音を宣べ伝えたということに関して、何となく理解できます。

 

そのことに関連して少し証をさせていただきます。

もうすぐ4年の歳月が流れようとしていますが、私は、レムナントキリスト教会に行きはじめて約3ヵ月後に、以前行っていた教会の牧師をはじめ、献身者や伝道者や教会員の方々に警告のことを文面でお知らせしました。

十数人の方に送らせていただきましたが、反応は、ほとんどありませんでした。

皆無ではありませんでしたが、おおむね、良くは思われませんでした。

そして、又聞きではありますが、私が教会を出てから、その後、何人かの兄弟姉妹も出られたということでしたが、私がその方たちのことをレムナントキリスト教会に引っ張って行ったという根も葉もない噂話が、飛び交っているということでした。

噂話をされたことについて、頭にきたとか腹が立ったとか、そのようなことは無かったのですが、ただ、ひとつだけ残念に思うことがありました。

誰が教会を出ただとか、どこの教会に行っただとか、そんなことにしか関心が無いのだなぁということに正直、落胆しました。

偉そうな言い方で恐縮ではありますが、もっと、神様のことについて熱心になって欲しい!永遠のいのちに至る警告を聞いて神の前に悔い改めることに一生懸命になって欲しい!と、思いました。

たしかに、私には、人間的な文才も知恵も能力もありませんが、以前行っていた教会の人々が真の意味合いで救われて欲しいという思いから、涙をもって、警告を伝えさせていただきました。

その時から大分時間を経ていますので、状況は随分変わってきているのかもしれませんが、警告に対する反応は、えてして、このようなものなのかなぁ?と、残念ではありますが、反面、聖書的であるかなぁ?とも、思いました。

だからと言って、その人たちの救いをあきらめたわけではなくて、今でも、お祈りさせていただいています。

聖書にも、どんなときでも、失望せずに祈りなさいということについて書かれていますので・・・

そして、これからも、機会があるごとに、主の導きの中で、主の恵みである警告について、語っていかれたらなぁと思います。

 

本日、学びをしましたように、私たちの思っている「恵み」と、聖書で言われている「恵み」は、だいぶ違うかもしれませんが、聖書は、神様が書かれたものですので、そのような視点で理解して、受け入れていきたいと思います。

もちろん、私たちが祈ったことに対して答えてくださり、御わざをあらわしてくださることも恵みの一部です。

ただ、聖書は、大半は、たとえで書かれている書物ですし、隠された奥義という意味合いも含まれていまして、その部分には、まさに永遠のいのちを得るか否かに直結するような大事な記述が書かれていますので・・・

本日は、その裏の意味合いについて、神様が私たちに語ってくださり、教えてくださいましたので、そのことを中心に語らせていただきました。

そう、神様は、私たちをあまりにも愛するがゆえに、耳の痛いことを警告したり、時には、叱責をされたりします。

私たちが、恐ろしい永遠の刑罰から、何とか、逃れられるように、必死にそのことを語っておられるということをぜひ、ご理解いただきたいと思います。

ゆえに、神様からの警告を聞きましたら、ぜひ、御声に応答していきたいと思います。

その都度、応答していくなら、恵み(警告)は、決してむだにならず、その人にとって、どこまでも益や喜びを与えるものとなり、ひいては周囲の人たちをも助け、なおかつ、その延長線上においては、永遠のいのちが約束されているのです。

ぜひ、そのような点においても、とらえておいていただけたらと思います。