聖書箇所 Ⅱコリント人への手紙7:1

 

7:1 愛する者たち。私たちはこのような約束を与えられているのですから、いっさいの霊肉の汚れから自分をきよめ、神を恐れかしこんで聖きを全うしようではありませんか。

 

「神の前に完全を目指して天の御国に入る」というテーマで、御言葉に沿ってみていきたいと思います。

 

この御言葉は、前章の14-18節のことばを受け継いでいます。

 

参照 Ⅱコリント人への手紙6:14-18

6:14 不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。正義と不法とに、どんなつながりがあるでしょう。光と暗やみとに、どんな交わりがあるでしょう。

6:15 キリストとベリアルとに、何の調和があるでしょう。信者と不信者とに、何のかかわりがあるでしょう。

6:16 神の宮と偶像とに、何の一致があるでしょう。私たちは生ける神の宮なのです。神はこう言われました。「わたしは彼らの間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。

6:17 それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。汚れたものに触れないようにせよ。そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、

6:18 わたしはあなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる、と全能の主が言われる。」

 

上記御言葉は、71節の「このような約束」について説明しています。

つまり、「このような約束」とは、私たちが汚れたものに触れないなら、神様に受け入れられ、天の父の息子や娘と見なされるということです。

ゆえに、71節において、「いっさいの霊肉の汚れから自分をきよめ、神を恐れかしこんで聖きを全うしようではありませんか」と、言われているのです。

ちなみに、「聖き」は、英語訳では、「perfecting(完全な、欠点の無い)と訳されています。

そう言えば、「聖なる」とか「完全」ということばで、思い当たることがあります。

旧約聖書や新約聖書で、このような御言葉があります。

その一部を紹介させていただきます。

 

参照 レビ記11:44,45

11:44 わたしはあなたがたの神、主であるからだ。あなたがたは自分の身を聖別し、聖なる者となりなさい。わたしが聖であるから。地をはういかなる群生するものによっても、自分自身を汚してはならない。

11:45 わたしは、あなたがたの神となるために、あなたがたをエジプトの地から導き出した主であるから。あなたがたは聖なる者となりなさい。わたしが聖であるから。

 

参照 レビ記19:2

19:2 「イスラエル人の全会衆に告げて言え。あなたがたの神、主であるわたしが聖であるから、あなたがたも聖なる者とならなければならない。

 

参照 マタイ5:48

5:48 だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。

 

これらの御言葉が何を語っているか、お分かりでしょうか。

教会のメッセージであまり言われないと思いますが、私たちは、神様の前に完全になっていかなければいけないのです。

 

ある方が、このような証をしていました。

その人は、あることで、神様から悔い改めを示されたそうです。

でも、しばらくの間、そのことと向き合うのを拒んでいたそうです。

けれども、そのままでは、先に進まないし、祝福に入らないということを悟り、思い切って、悔い改めたそうです。

すると、主がそのことをとても喜んでくださり、なおかつ、その人自身の心の内側には、喜びと平安で満ち溢れたとのことです。

そして、証の最後に、その方はこのようにおっしゃっていました。

「自分は神様の前に完全になるのを拒んでいた」と。

「でも、悔い改めてみて分かったことは、神様は私たちに完全をのぞんでおられる方だ」と。

 

その証を聞いたときには、ピンと来ませんでしたが、それから、数年を経て、今に至り、その意味合いが少しずつ理解できるようになりました。

また、その頃は、聖書を真剣に読んでいなかったので、そういったことが、聖書に書かれていることすら、知りませんでした。

でも、その方の証や御言葉を通して、今は、はっきりと分かるようになりました。

また、自分自身も、同じようなことを体験させていただく中で、単に頭で理解するだけでなく、あるいは、知識として知るだけでなく、霊的な面において、悟りを得ていくようにもなりました。

 

そして、本日の御言葉や他の参照箇所は、まさしく、そのようなことをはっきりと語っているのではないかと思います。

人間的に考えると、「完全」とか「欠点が無い」なんて、絶対に無理!なんていう風に、多少なりとも思わなくもないのですが、聖書に書かれている以上、私たちは、こういったことにもきちんと向き合っていく必要があるのではないかと思います。

もちろん、生まれながらの罪というのを私たちは常に背負っている存在ではありますが・・・

しかし、そうではあっても、その都度、示される罪とか神様からの助言に、どのように対応するのか?に、ついて、ここでは問われているように思います。

また、あるクリスチャンが執筆された本で読んだことですが、その中で、「欠点は罪です」と、そのようなことがはっきりと書かれていました。

世の中もそうですが、キリスト教会においても、「欠点」を直すということについて、あまり言われていませんが、しかし、英語訳では、「聖き」の部分を「欠点の無い」と訳されているくらいですから、やはり、欠点は悔い改めていかなければいけないことが理解できます。

 

きちんと、悔い改めをしていくときに、Ⅱペテロの手紙に書かれているように、しみも傷もない者として、神の御前に出て行くことができますし、主イエスの日、すなわち、キリストの再臨のときに、何ら、責められるところのない者として、堅く立たせていただけるのではないかと思います。

ですから、私たちは、この地上の残されている間、常に神様の前に全力を尽くしてなすべき歩みや働きに励んでいきたいと思います。

また、神様から示されている罪は、その都度、悔い改めて、地上にいる間、すべて清算していくように心がけていきたいと思います。

そうしていくときに、自ずと神の前に喜ばれること、受け入れられることだけを行っていくようになっていきます。

そして、そのことは、聖さを全うする歩みと言えるのではないでしょうか。

ぜひ、そういったことを目指していきたいと思います。

 

「悔い改め」ということに関しては、地上で生かされているかぎり、私の中では、この先もずっと、課題になっていくと思います。

礼拝のメッセージの中でも、キリストの再臨のときに栄化されるには、「罪」に勝利していかなければならないということを、たびたび教えていただいています。

そうでないと、地球や太陽が破壊するときに、一緒に滅んでしまう可能性があるという恐ろしいことを聞いていますので・・・

また、最近、エステル記を通して、悔い改めていくことの大切さについて教えていただきました。

バプテスマのヨハネも悔い改めを語っていたので、私たちも、そのことに準じて歩んでいきましょうということをです。

きよめられるためには、やはり、悔い改めをしていかなければいけません。

そして、その都度、神様は、個々の人に合った方法で悔い改めを促してくださいます。

教理の解釈について捕らえ違いをしていたり、霊的な勘違いをしていたり、そして、実際に過ちを犯してしまったりしたときに、方向を正しくしていくよう、示してくださいます。

以前は、すぐでなくてもいいのでは?と、思うことが多かったのですが、最近は、すぐに悔い改めないとマズイッ!という焦燥感が内側から湧き上がるようになりました。

なぜかというと、聖書には、「あなたがたには、あすのことはわからないのです。あなたがたのいのちは、いったいどのようなものですか。あなたがたは、しばらくの間現れて、それから消えてしまう霧にすぎません」と書かれているので、もし、悔い改めるタイミングをずらしてしまって、永遠のいのちを失ってしまったら元も子もないと思ったからです。

たしかに、いくら神様に示されているといっても、方向を変えるというのは、口で言うほど、容易いものではなく、実際には、かなりな自覚や決意を要しますし、厳しいことではあります。

でも、このことはいえるのですが、悔い改めて、後悔したということは一度も無く、それどころか、心の内側は益々、神様のくださる平安で満たされていきますので、これからも、聖霊さまから憐れみや助けや力をいただいて、そのように歩ませていただけたらなぁと思います。

本日も大切なことを教えてくださった神様に栄光がありますように。