聖書箇所 Ⅱコリント人への手紙8:17

 

8:17 彼は私の勧めを受け入れ、非常な熱意をもって、自分から進んであなたがたのところに行こうとしています。

 

「お一人一人の熱意をご覧になる神」というテーマで、御言葉に沿ってみていきたいと思います。

 

 「彼」とはテトスのことです。テトスはパウロの同労者、すなわちキリストの働き人です。そのテトスについてパウロがこの節でこのように言われているのです。ここに書かれているように彼(テトス)は自らの意思でコリントの教会に向かおうとしています。何のために?とは、あえて書かれていませんが、パウロのように福音を宣べ伝えるために遣わされたのだと思います。また、この箇所を通して、彼の積極性や熱心さが強く伝わってきます。言うまでもありませんが、まさに神に従うがゆえの、あるいは御心をおこなうがゆえの熱心さとも言えるのではないでしょうか?ちなみに同章の12節では、このように書かれています。

 

参照 Ⅱコリント人への手紙8:12

8:12 もし熱意があるならば、持たない物によってではなく、持っている程度に応じて、それは受納されるのです。

 

 「熱意」という言葉ですが、KJV訳では“willing mind”とあります。「心から喜んで」という意味合いです。私個人としては「善意をもっておこなう」と、そんなニュアンスを感じます。そしてこれは17節の「熱意」という言葉と符号するのでは?とも思います。

 

 そう、神さまに熱心にお仕えしていくというのは、とても聖書的なのです。このことは神さまがとてもお喜びになることなんです。そして神さまは、個々のクリスチャンが熱心に仕えているかどうか?を、常に観察されておられるのです。と、言いますのは、黙示録にはこのように書かれているからです。

 

参照 黙示録20:12

20:12 また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれた

 

 私たちは日常においておこなっていることというのは、「これらの書物に書きしるされている」とありますように、すべて、記録されているのです。良いことも、そうでないことも、すべてです。そして、地上でのおこないに応じて、報いを受けるのです。「報い」に関して、「良い報い」と「悪い報い」がありますが、それぞれ、どんなことをしたか?によって、個々において受ける報いは異なります。話は少しそれてしまいましたが、それこそ、テトスのように、熱心に神さまに仕えていくのなら、良い報いを受けることになります。ゆえに、いつも神さまに熱心に仕えていくということが賞賛されることが理解できるのではないか?と思います。

 

 ところで、神さまにお仕えしていこう!と、この文章を読まれているあなたはそのように決断されておられるかもしれませんし、あるいは、もうすでにおられるかもしれません。また、こういう人もいらっしゃるかもしれません。「私は、親が仏教徒だから絶対に無理。教会に行くのもままならないのに。まして、神さまに仕えていくなんてとんでもない!」と。クリスチャンホームでない立場だから不利とか、そんな風に思う方もおられるかもしれません。そういうことを言う人の気持ちもわからなくはありません。なにせ、私自身の環境は、まさにそんな感じですから。もしくは、そこまでいかなくとも「持病があるから」とか「そんなに裕福ではないから」とか「生まれつき、特別能力がないから」と、そのようにおっしゃるかもしれません。そういう方のお気持ちも、よく分かります。私自身、これらのことすべてに該当しますので・・・そう、何を申し上げたいのかと言いますと、要は、本当に神さまに仕えていきたいのか、そうでないのか?が大事なのです。今、通っているレムナントキリスト教会もそうですし、それ以前に行っていた教会でもそうなのですが、クリスチャンホームの方が必ずしも神さまに仕えているか?というと、そうではありません。もちろん、そういう方もおられます。しかし、すべての人たちがそうかというと、私の気のせいでなければ、案外そうではない方のほうが多いのでは?と、思います。また、健常者が積極的にお仕えてしているか?何もハンディが無い人たちだけが仕えているのか?と、言うと、それもまた、違います。もちろん、体に病が無い方でお仕えしている方もおられますけど、たとえば、星野富弘さんや故三浦綾子さんとかはどうでしょうか?彼らは、場合によっては健常者以上に熱心に神さまにお仕えしているのではないでしょうか?あるいは、お仕えしていたのではないでしょうか?ふと、パウロが言われた御言葉を思わず思い出しましたので、紹介させていただきます。

 

参照 Ⅱコリント12:9

12:9 しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。

 

 いかがでしょうか?どの人であっても、本当に神さまにお仕えしていこう!と、そのように決断されるのでしたら、どんなハンディがあろうとも生まれつき何も能力がなくとも、あるいは主に仕えるに適した環境でなくとも、神さまが仕えていくことができるように助けてくださるのです。そう、要は、「やる気」なのです。たとえば、会社とかでも、どうでしょうか?もし、あなたが経営者の立場だとして・・・熱心に仕事をする人に高い評価が与えられないでしょうか?そればかりか、賞与の時期には、そういう人にたくさんボーナスを付与したいと思わないでしょうか?そういうことと比較して良いかどうかはわかりませんが、神さまもおなじなのでは?と思います。たとえ、何も持っていなくても、しかし、ただ、ひたすら神さまに熱心に仕えていきたいという人に、どこまでも力や知恵や助けを与えたい!とそんな風に思うのではないでしょうか?みなさまはどのように思われるかわかりませんが、少なくとも私自身は、そうなのでは?と思います。それから、こんな言葉を聞いたことはないでしょうか?

すると彼は、私に答えてこう言った。「これは、ゼルバベルへの主のことばだ。『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって。』と万軍の主は仰せられる。

 この言葉はゼカリヤ書からの引用です。そう、神さまにお仕えしていくのに権力も能力も不要なのです。「わたしの霊によって」と主が言われているように、神さまの霊が宿っているかどうか?それだけのことなのです。ですから、神さまのために働こう!あるいは真剣に仕えていこう!とそんな風に表明する人には、ことさら主は憐れみをかけてくださり、すべて必要な助けや導きを備えていてくださるのです。そして結果として、テトスのように熱意をもって神さまの働きを担うようになっていくのです。いかがでしょうか?神さまに意志表示をして、神さまから力をいただいてお仕えして、その上、神さまから喜んでいただいたり誉れを受けることができるなんて、この上なくすばらしいことではありませんか?

 

 反対に、もし、熱心でなかったり神さまに対して中途半端だったりした場合にどうなるのか?と、言うと、働き人として神さまに用いられることはないでしょうし、場合によっては神さまから怒りを買ってしまうなんていう恐ろしい結末を迎えてしまうのです。まさに、以下の御言葉が、その人の上に成就してしまうのではないか?と思いますので、参考までに紹介しておきます。

 

参照 黙示録3:15,16

3:15 「わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい

3:16 このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう

 

 この御言葉が言おうとしているのは、要は、冷たくもなく、熱くもない人は吐き出されるということです。もっと言うなら、さっきの言葉ではありませんが、中途半端な歩みだと、神さまに受け入れられないということを言われているのです。神さまに受け入れられない場合に御国を継ぐのはどうでしょうか?とてもネガティブな考え方で恐縮なのですが、私個人の示しとしましては、御国を受け継ぐのは厳しい、いえ、無理なのでは?と思います。

 

 ですから、繰り返すようですが、神さまに仕えていくのなら、テトスのようにきちんとお仕えしていきたいと思います。また、同じ「熱意」であっても、勘違いの「熱意」もありますので、気をつけていきたいと思います。何を言っているのかと言うと、イエスさまの時代のパリサイ人や律法学者や群集のように、正しい人を迫害したり十字架に付けたりするような熱心さを持ってはいけません。彼らはイエスさまを救い主と認めることができずに、カルト扱いをして、何とか主を殺そうと懸命になっていました。今の時代も、そのようなことに準じるような働きをしている人が少なくありませんが、そういう人たちの行き着く先は滅びですので、まかり間違えてもおなじ間違えには決して入ってはいけません。そのあたりのことに関しましても、正しい知識と理解を得ていきたいと思います。そういう意味合いの熱心さではなく、ぜひ、テトスやパウロやペテロやヨハネのように信仰の勇士と言われる人たちに倣って、私たちも主に熱意をもってお仕えしていきたいと思います。

 

 メッセージの中でも書きましたが、私自身、人間的には主に仕えていくのには、多くの意味合いで、ほど遠い者でした。まして、こんな風にほんのわずかであっても、御言葉の奉仕に携わるなんてことは夢にも思っていませんでした。たしかに、今から4年ほど前から弟子の歩みに参加するようになったのですが、当初は訓練のみで、しかも、集会に参加することも、ままならない感じでした。それこそ、さっきの黙示録の御言葉ではありませんが、中途半端な歩みでした。でも、ある時にそのことを神さまから示されて、真剣に祈るようにしました。「イエスさまの弟子として、きちんと全うできますように。集会や働きに携わることができますように」と。そうすると、ふしぎなことに徐々にではありますが、神さまが色々と配慮してくださって、主にお仕えしていく環境が少しずつ整ってきました。こんな私ですら、神さまが憐れんでくださって、良くしてくださったのですから、私だけでなく、そんな風に神さまの前に表明する人には、神さまが同じように誠実を尽くしてくださると思います。以前は、クリスチャンホームの人は、私のようなハンディが無くて羨ましいなぁなんてこともチラッと考えたりしなくもなかったのですが、今は、まったくそのようには思いません。周りにクリスチャンがいないから無理なんて二の足を踏んでいる方も多いと思いますが、神さまの前には、そういうことはまったく関係はないようです。なぜ、そこまできっぱりと言えるのかと言いますと、自分自身を通して体験して理解したことですので、申し上げることができるのです。そうは言っても、まだまだ霊・肉共に弱い部分もありますが・・・でも、これからもイエスさまにしっかりと結びついていきたいなぁと思っています。本日も大切なことを語ってくださった神様に栄光と誉れがありますように。