聖書箇所 コリント人への手紙10:10,11

 

10:10 彼らは言います。「パウロの手紙は重みがあって力強いが、実際に会ったばあいの彼は弱々しく、その話しぶりは、なっていない。」

10:11 そういう人はよく承知しておきなさい。離れているときに書く手紙のことばがそうなら、いっしょにいるときの行動もそのとおりです

 

「働き人を人間的なことだけでみていくときに大切なことを見失う」というテーマで、御言葉に沿ってみていきたいと思います。

 

皆様もご存知のように、新約聖書のほとんどの書簡は、パウロによって書かれています。

今でこそ、パウロは大伝道者だと、多くの人に認められ、特に、献身の歩みをしている人にとっては、パウロのような歩みや働きは良い模範となり、また、そのようなことを目指している方が多いと思います。

 

ところが、10節を読むと、意外なことが書かれていることにびっくりです。

その当時、一番といってよいほど神様に用いられたパウロが、なんと、コリントの教会の人たちからは、「弱々しい」とか「話しぶりがなっていない」とか、そんな風に言われているのです。

手紙に関しては、多少なりとも誉められているようですが、メッセージに関しては、どちらかと言えば、人間的にはマイナスのイメージを受けますよね。

当時のコリントの教会の人たちのパウロの評価は、ざっと、そんなものでした。

でも、実際の、こと、神の前のパウロはどうだったかと言うと、11節に書かれているように、まさに、手紙に書いていることと、行動とが、ぴったり一致していたメッセンジャーだったのです。

また、当時、どの使徒にもまさって、パウロは神様に用いられた器でした。

そう、何を言いたいのか?と、言うと、人の評価と神様の評価は、まったく違うということ申し上げたいのです。

そして、どちらが正しいのか?と、言うと、それはもちろん、言うまでもなく、神様のほうなのです。

なぜ、そんな風に、違いが出てしまうのでしょうか?

コリントの教会の人々は、やれ、話しぶりだの弱々しいだとの、パウロの外観のことしか見ていなかったからです。

そして、こういったことは、今の時代を生きる、クリスチャンの間でも、繰り返されていることだということをとらえておいていただきたいと思います。

 

たしかに、働き人、こと、メッセンジャーに関しては、要吟味であることは事実です。

でも、問題は、どのような視点で、メッセンジャーを評価したり、判断したりするかです。

ある人は、「あの牧師は学歴もある」と言ったり、「有名な××神学校を卒業しているから素晴らしい」と言ったりするかもしれません。

あるいは、話が上手、ジョーク満載で面白いとか、はたまた、外見がハンサム、美人などです。

しかし、もし、そういったことのみに目を向けてしまうと、どういうことになるのか?と、言うと、真理に対して盲目になってしまう危険性があるのです。

極端な言い方をするなら、もし、私たちが働き人の判断基準に関して、一歩、間違えると、まったく別の方向へ行ってしまうという危険性があることを、正しくご理解いただきたいのです。

何を申し上げたいのかと言いますと、どのメッセンジャーからメッセージを受けるか?によって、クリスチャンであっても、天の御国を受け継げない可能性があるということです。

 

ですから、今の時代の働き人、特に、メッセンジャーに関しては、正しく見分けていかなければいけません。

 

では、具体的に、どのような基準で判断するのが良いのか?私なりに主から示されたことを話したいと思います。

大きく言ってしまうなら、「永遠の命」に関して本質的なことが語られているかどうかが、ひとつの判断基準になります。

話の上手、下手、そんなことは、あまり、と、言いますか、神の前にはまったく関係はありません。

もちろん、口下手よりかは、話し上手のほうがよいのかも知れません。

しかし、それよりも、何よりも、もっとも大切なことは、御言葉から正しくメッセージがなされているかどうかです。

いくら、話がうまくても、恵みから落ちてしまうような内容でしたら、聞いても、価値が無い、無駄ということになってしまうのです。

どんなに人受けは良くても、神から、拒絶されてしまうなら、何の意味も無いからです。

それどころか、そんな風にメッセージをするなら、語る側も、そういったことを平気で喜んで聞く人々も、共に神からの怒りを買います。

そして、死後、神からの怒りのさばきを受けることになります。

聖書には、こんな風に書かれています。

 

参照 Ⅱテサロニケ人への手紙2:12

2:12 それは、真理を信じないで、悪を喜んでいたすべての者が、さばかれるためです

 

「真理を信じないで悪を喜んでいた」とは、例を挙げるなら、「地獄は無い」「艱難前に挙げられるから備えは要らない」「しゃかりきになって歩みや働きをしなくてもクリスチャンは皆、天国へ行ける」など、聖書に書かれていないことが語られ、そのようなものを喜んで受け入れているということです。

 

どうでしょうか?いくら、外見が良くても、学歴があっても、立派な会堂を持っていたとしても、あるいは、世の中で成功を挙げているとしても、話がうまかったとしても、人を恵みから落とすようなメッセンジャーには、よくよく気をつけたり、警戒したり、離れていかなければいけません。

反対に、パウロは、そういった人間的なものは、何も、持っていなかったのかもしれません。

しかし、愚かにも、コリントの教会の人たちは、パウロが語るメッセージよりも、外見的なもの、いわば、話し方だとか、雄雄しくなくいとか、そのようなことにばかりにとらわれて、もっとも本質的な大事な部分を見落としてしまったのだと思います。

このことは、決して、他人事とは思わずに、私たちも謙遜になって、働き人に対して、今一度、誤った見方をしていないかどうか、確認する必要があると思います。

 

たとえば、こんな例が良いかどうかは分かりませんが・・・

ある人が、都心に、マイホームを購入しました。

見た目、それこそ、豪邸の言われる立派な家でした。

そして、あるとき、その人の友人がその家に招待されました。

ところが、一歩足を踏み入れてみると・・・

なんと、シロアリによって、壁も柱も、腐敗していて、ボロボロでした。

いくら、外見は良くても、人が住めなければ、どうしようも無いですよね。

そんなことと比較するのも恐縮ではありますが、いくら、話がうまくても、人間的には良いものをたくさん持っていたとしても、人を滅びに向かわせるメッセージや働きでは、神様を喜ばすことも、はたまた、人を天の御国に導くこともできません。

それこそ、当時イエス様がパリサイ人や律法学者におっしゃっていたように「白く塗られた墓」という風に見なされてしまいます。

彼らは、それこそ、学歴もあったでしょうし、人間的な地位や名誉も持っていたことでしょう。

しかし、その内側は、あらゆる貪欲な放縦にまみれていて、それこそ、墓の中に入っているような腐れたものと等しいと、言われていたのです。

 

ですので、繰り返すようですが、私たちは、人間的な事柄のみに目を留めるのではなく、霊の目によって、正しく働き人のことを見ていきたいと思います。

もしかすると、永遠の命に至るメッセージを語るメッセンジャーは、パウロのように話しぶりがなっていなかったり、頼りなく見えてしまったりするのかも知れません。

でも、そういった外面的なことではなく、本当に神様から召されている働き人なのか?もしくはメッセンジャーなのかどうかに着眼して、正しくメッセージを受けて、永遠の命に至る道を歩んでいきたいと思います。

 

洗礼を受けて間もないときのことです。

その日、属していた教会ではなく、ある別の教会への導きを感じて、そこで、礼拝を捧げることにしました。

礼拝後、そこの牧師から、普段、どんな教会に行っているの?と聞かれたので、これこれ、こういった教会に通っていますと話をしました。

そのときに、「その牧師さんは聖書の言葉からメッセージを語っていますか?教会を選ぶ基準はね、その牧師さんが聖書からきちんとメッセージしているかどうかなんですよ」と、アドバイスをくださいました。

それから、しばらくして、再び、その教会に行ったのですが、私がはじめてその教会を訪れてからまもなく、その牧師は、召されたということを聞きました。

もしかすると、私が、その教会に導かれたのは、偶然ではなく、神様の配慮だったのでは?と、今でも、そんな風に思うときがあります。

その当時は、その牧師がおっしゃったアドバイスに関して、いまひとつ分からなかったのですが、今では、とても大切なことを教えてくださったなぁと、思っていますし、のちになって私の信仰生活に大いに影響を及ぼすものとなりました。

本日のメッセージと関連する証かどうか分かりませんが、主の導きを感じましたので、話をさせていただきました。

今日も御言葉を通して、大切なことを語ってくださった主に栄光がありますように。