聖書箇所 コリント人への手紙11:30

 

11:30 もしどうしても誇る必要があるなら、私は自分の弱さを誇ります。

 

「弱さの中に栄光をあらわす神」というテーマで、御言葉に沿ってみていきたいと思います。

 

「誇る」の部分は、英語訳では「glory(栄光、光栄)と書かれています。

パウロは「私は自分の弱さを誇ります」と言っているのですが、自分の弱点こそが、栄光や光栄だと、そんなことを言っているのです。

 

さて、この世の中では、どうでしょう?

「弱肉強食」という四字熟語がありますように、弱い者が強い者のえじきとなることが常識とされていますよね。

スポーツの世界でも、そうかも知れませんが、体力のある人が勝利を得たり、あるいは、体力が無くても、頭脳明晰であったり能力のある人が地位や名誉を獲得する、一般的に、そのようなことが常とされていますよね。

 

しかし、聖書で言われている常識とは、まさに、この世の考えとは、まったく逆です。

ちなみに、「弱い」ということにおいて、どんなイメージがありますか?

こどもとか、女性とか、あるいは、自分では何もできない人とか、そんなことを私個人は連想します。

そして、体力や能力においても、人よりも劣るイメージがあります。

でも、そうだとしても・・・そんなことで、失望する必要はないのです。

むしろ、そのことを「光栄に思いなさい!」と、神様は、そのように語っているのです。

前章でも申し上げましたが、新約聖書のほとんどの書簡はパウロによって書かれました。

「自分のことを弱い」と、そのように言っているパウロですが、彼は神様から任じられ、他のどの使徒にもまさって神様の働き人として用いられた器でした。

でも、そんな彼の栄光と言えば、御言葉にはっきりと書かれているように「弱さ」でした。

神様からは、至るところへ伝道者として遣わされ、多くの書簡も書いているのだから、さぞかしや、強くてあらゆる能力にも長けている人だと、人間的には、一見、そんな見方もしてしまいそうです。

でも、ひょっとしたら、パウロは人間的な能力や良い資質があったのかも知れません。

そのようなニュアンスを感じさせる御言葉があります。

 

参照 ピリピ人への手紙3:8,9

3:8 それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。それは、私には、キリストを得、また、

3:9 キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。

 

「私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています」とありますように、パウロには、人間的に良いもの、たとえば、能力や学力などを結構、持っていたように思います。

でも、もし、パウロがそのようなものを誇っていたり、そういったものを頼みとしていたら、おそらく、このような働きには召されなかったのでは?という風に思います。

それらの、人間的には良いと思われるものをすべて捨て去ったパウロに残されたものは「弱さ」だけだったのかも知れません。

だから、はっきりと、「弱さを誇ります」と言っていて、しかも、「誇る必要があるなら」と、あえて言われているように、「本当は、何も誇るものなんて無いよ。でも、もし、どうしても、誇らざるを得ないのなら、弱さを誇りましょう」と、そのようなことを言われているのだと思います。

そう、パウロが弱かったから、もっと言うなら、自分自身が弱いことを誰よりも理解し、素直に認めていて、それゆえに神様だけを頼っていたからこそ、神様は、彼を憐れんでくださって、福音を語る器として、大いに用いてくださったのだと思います。

「何で弱い人に・・・世の中、強いに越したことないじゃない!能力が無いよりあったほうがいいじゃない!!」と言われる人のことも分からなくはないのですが、神様の方法とか選びというのは、この世の認識や基準とは異なるという点に関して、こういったことを機に、正しくご理解いただけたらと思います。

 

たとえば、こんな例が分かりやすいでしょうか。

ある会社の上司が二人の部下に同じ仕事を依頼しました。

二人にとって、まったくはじめての業務なので、右も左も分からない状態でした。

なかなか思うように仕事が進まず途方に暮れている二人の姿を見た上司は、何とか、力になれればと思い、二人に話しかけます。

「何か、困ったことはないかね?」と。

すると、一人は、すかさず、「大丈夫です、自分で何とかします」と答えました。

けれども、もう一人は、「どんな風に進めていったらよいか、まったく分かりません、にっちもさっちも立ち行かない状態です。何か助言をいただけると、助かります」と言いました。

すると、しばらくしてから後者の人に、「君が困っているだろうと思って、色々と考えてみたんだけど、こんな風に進めていったらどうかなぁ。それから、このマニュアルを参考にするといい。他にも、何か、困ったことがあったら、私に言ってくれ」と、その上司はアドバイスをしました。

しかし、前者の人には、そういった対応はしませんでした。

 

何を申し上げたいのかと言いますと、「お手上げ」「降参」と言う風に、そのことをあっさり表明する人には、案外、助けが来るものなのです。

人と人との間でも、そうなのですから、まして、全能者である神様と私たちの関係は、もっと、そうだということを申し上げたいのです。

私たちが、もし、生まれつきの良い資質とか能力だとか、いいえ、それだけでなく、弱さ意外のものに固執したり誇ろうとするのなら、神様が介入なさる余地は無いのです。

人間的なものと神様の栄光というのは、相反するものだということをご理解いただきたいのです。

それらのものを手放さないかぎり、いつになっても、神様の栄光を反映することはできないのです。

反対に、もともとの能力とか人間的に良いものを持っていたとしても、そういったものを、すべて、神様に捧げていくときに、神様の御わざや栄光があらわされていくのです。

つまり、「弱さ」と「神様の栄光」とは、切っても切り離せない関係にあるということを、どうか、ご理解ください。

弱くなるとは、この世では、受け入れられないでしょうし、推奨されることも無いかも知れませんが、聖書は実に逆説なことを語っていて、人間的には弱くなればなるほど、弱いことを認めれば認めるほど、神様に助けを求めれば求めるほど、そこには、神様の力が注がれ、霊的な面において、強められたり、助けを受けたりするのです。

他の箇所においても、そういったことが語られているので、いくつか、御言葉を紹介させていただきます。

 

参照 Ⅰコリント人への手紙1:25、Ⅱコリント人への手紙12:10,13:3,4

1:25 なぜなら、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。

12:10 ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。

13:3 こう言うのは、あなたがたはキリストが私によって語っておられるという証拠を求めているからです。キリストはあなたがたに対して弱くはなく、あなたがたの間にあって強い方です。

13:4 確かに、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力のゆえに生きておられます。私たちもキリストにあって弱い者ですが、あなたがたに対する神の力のゆえに、キリストとともに生きているのです。

 

ぜひ、「弱さ」の中に働かれ、御自身をあらわされる神であるということについて、正しく理解し、神様の前にそのように歩んでいくようにしていきたいと思います。

そして、単に、「弱い」だけで終わるのではなく、12:10「なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。」とパウロが言われているように、神にあっては、そのことが用いられ、強められていくという点についても、正しくみておいていただけたらと思います。

 

私も、自慢するわけではありませんが、「弱い者」です。

人前では、多少なりとも、強がってしまう部分はあるかも知れませんが、神の前には、本当に「弱いなぁ」と感じることばかりです。

でも、いつしか、「自分は弱くてもいいんだ。全部、神様に頼っていこう。そうしたら力をいただけるかも知れない!」と、そのように決意してから、弱いことに関して、自己卑下することもだんだんと減っていき、今では、そのことが自分にとって、とても益になっているなぁと、そんなことを感じるようになっています。

そして、メッセージでも話しましたように、「弱い」とか「力が無い」と素直に認めたときに、神様の介入や助けをいただけるようになりました。

ただ、そうは言いながらも、まだまだ、人間的な思いが抜け切れなかったり、自分の感情や思いにより頼んでしまう習慣から離れていない面もありますので、そういったことに関しても、もっともっと、神様により頼んだり、委ねていったりしていきたいなぁ、そして、神様の栄光をもっと見ていきたいなぁと思います。

今日も御言葉を通して、大切なことを語ってくださった神様に栄光と誉れがありますように。