聖書箇所 コリント人への手紙12:7

 

12:7 また、その啓示があまりにもすばらしいからです。そのために私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです。

 

「試練・困難を経て御国を受け継ぐ」というテーマで、御言葉に沿ってみていきたいと思います。

 

この節から、パウロが、神様からすばらしい啓示が与えられていたことが理解できます。

しかし、それと同時に、彼が、そのために心が高ぶることがないように、肉体において、苦痛が与えられたということについても、書かれています。

本日は、そのことから、私たちへの教訓や学びを受けていきたいと思います。

 

神様の働きをしていく上で、また、天の御国を目指すのなら・・・じつは、こういうことがゆるされるということをぜひ、知っていただきたいのです。

パウロのように、肉体の苦しみや痛みがあるということです。

「ええっ?そんなこと聞いていない!」と、おっしゃるかも知れません。

以前の私も、そういった認識はゼロでしたので、そのようにおっしゃる方の気持ちは、よーく分かります。

でも、それは、聖書を真剣に読んでいなかったときのことですので、いえいえ、これを読まれているあなたがそうだということを言っているのではなく、私に関してです。

 

もちろん、肉体だけでなく、感情思索に関する事柄、すなわち、霊的な攻撃というのも大いにゆるされます。

このことは、試練、困難、苦しみと言えます。

そう、御国を受け継ぐことと、試練・困難は切っても切り離せないのです。

いわば、このことは、セットとも言えるのです。

もちろん、人間的には、喜ばしいことではありませんよね。

しかし、聖書では、こういったことについて、ところどころに書かれています。

 

参照 使徒の働き14:22

14:22 弟子たちの心を強め、この信仰にしっかりとどまるように勧め、「私たちが神の国にはいるには、多くの苦しみを経なければならない。」と言った。

 

このことは、パウロがルステラとイコニオムとアンテオケに引き返したときに弟子たちに語った言葉でした。

そして、このことは、本日の箇所において、パウロの上に成就しました。

サタンの使いによって、肉体に一つのとげが与えられたのです。

パウロは高ぶることのないようにこういった苦痛が与えられたわけですが、もし、私たちも、パウロのように神様の働きを担っていくのなら、大なり小なり、こういったことはゆるされてしまうのです。

でも、単なる苦痛が与えられて、それで、終わるのではなく、そのことを通して、祝福に入るということをぜひ、ご理解いただきたいのです。

たしかに、肉体のとげは、当座はもちろん、悲しいことなのですが、後に、必ず、その人に益をもたらすものとなっていくのです。

もちろん、とげが与えられて、それで、信仰や働きを投げ出してしまったらダメですが、そうではあっても、耐え忍んで主の言われていることに、きちんと従っていくのなら最終的には勝利を得て、恵みや祝福に入っていきます。

 

さらに、同章、10節では、こんな風に書かれています。

とても、心強い御言葉です。

 

参照 Ⅱコリント人への手紙12:10

12:10 ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。

 

その前の8,9節では、「この肉体のとげを取ってください」と、パウロは神様に懇願したのですが、神様の回答は、なんと、「わたしの恵みはあなたに十分である。というのはわたしの力は弱さの内に完全に現れるからである」というものでした。

神様は当然、どんな病であっても癒すことのできるお方なのですが、このとき、パウロに対しては、そうはなさらなかったのです。

「癒してくれてもいいではないか?」と、そんな風に思わなくもないですよね、ゆえに、一見、冷たい神様のようにも見えるのですが、じつは、そうではなく、パウロの後々のために、もっと言えば、後の世において、パウロが栄光や誉れを受けられるように、このように、あえて接したのではないかと思います。

そして、パウロの偉いところは、すぐにそのことを受け入れて、そういったことに甘んじる!と、そのように決意されたことです。

どうでしょうか?

単に人の話を聞くだけなら、「ふんふん、すごいっ」と、そんな風に思うのですが、いざ、わが身に起きたら、そんな風に思えるでしょうか?

なかなか、厳しいですよね。

でも、もし、そういったことが起こったときには、ぜひ、そんな風に対応できるといいですよね。

 

私自身の証で恐縮ではありますが・・・

以前にも話したかも知れませんが、私は、長い間、患っている病気があります。

幸い、そのことで、命を落とすということは無いのですが、時として、痛みや苦痛を伴います。

もちろん、病院に行って治療をする、そんな選択もありだと思います。

一時期、主に祈って、3ヶ月ほど通院して薬物による治療をしたこともありました。

でも、主の導きは・・・これは、私に関してですが、パウロではありませんが、「甘んじて受け入れたら?」というものでした。

病院に行くことや治療を否定しているとか、そういうことではなく、人によっては、病気や痛みや苦痛を通して、神様の栄光を見るなんてことも、あるのです。

すべての人に該当するわけではありませんが、私の場合は、そのような示しでした。

また、そのことに限らず、やはり、神様の働きを担っていく中で、肉体にくる痛みというのは、定期的に来ます。

罪のための懲らしめや叱責というのも含まれますが、その場合は、悔い改めたら、すぐに痛みから解放されます。

でも、そうでない場合・・・御心を行っているゆえの痛みや攻撃は、神様がゆるしたものだということが、御霊によって、理解できます。

前者は、当然と言えば、当然なのですが、後者に関しては・・・何も悪いことをしてもいないのに、しかも、御心を行っているにもかかわらず、むしろ、良いことをしているのに、割に合わないなぁなんて、思わなくもないのですが、最近、礼拝のメッセージのヨブ記を通してヨブの苦難から教訓を受けていく中で、だんだんと納得するものがありました。

それこそ、「甘んじて受けるのもいいかも!」なんて、そんな境地へと近づきつつあります。

ここ最近も、肉体に、痛みが与えられているのですが、そういった状況の中で、こんな風にこの箇所をメッセージさせていただけることを幸いに感じますし、光栄に思っています。

 

何を申し上げたいのとか言いますと、肉体における苦痛に関しても、神様から与えられる試練であり、試みだということです。

イエス・キリストが、まさに「試みを経た石」と言われていますが、私たちも、そんな風に試みられても、それでも、主に従っていくのかどうか?ということが、常に、問われているということなのです。

いつだったか、やはり、ヨブ記を学んだときに、「最後まで試み」だという風に教えていただきましたが、きっとそうだろうなぁと、私も、そんな風に御霊に感じています。

何も、試練も困難も通らずに、永遠の命を得られるにこしたことはないと思いますが、しかし、こういった点に関しても、聖書で言われていることを尊重していきたいと思います。

本日も大切なことを語ってくださった主に栄光がありますように。