聖書箇所 テサロニケ人への手紙3:13

 

3:13 しかしあなたがたは、たゆむことなく善を行ないなさい。兄弟たちよ。

 

「善をおこなうことに熱心になる」というテーマで、御言葉に沿ってみていきたいと思います。

 

上記御言葉は、その前後の節にかかっている御言葉です。

参考までに、その箇所も少し見てみたいと思います。

 

参照 Ⅱテサロニケ人への手紙3:11,12,14,15

3:11 ところが、あなたがたの中には、何も仕事をせず、おせっかいばかりして、締まりのない歩み方をしている人たちがあると聞いています。

3:12 こういう人たちには、主イエス・キリストによって、命じ、また勧めます。静かに仕事をし、自分で得たパンを食べなさい。

3:14 もし、この手紙に書いた私たちの指示に従わない者があれば、そのような人には、特に注意を払い、交際しないようにしなさい。彼が恥じ入るようになるためです。

3:15 しかし、その人を敵とはみなさず、兄弟として戒めなさい。

 

11節では、教会の中で何も仕事(奉仕)をしないで周囲の人の世話ばかりを焼いている人がいることについて言われています。ちなみに「締まりのない歩み方をしている」のところはKJV訳では「無秩序に歩んでいる」と訳されています。つまり教会の秩序や権威に従わずに歩んでいるクリスチャンのことについて言っています。そういう人たちに対してパウロは12節でおすすめをしています。「なすべき仕事(奉仕)をきちんとして御言葉のメッセージの教えに従って歩んでいきなさい」と。

そして14節ではそういう人たちが恥じ入るために、特に注意をして関わらないようにしなさいということを言っています。しかしそうではあっても、15節で言われているように敵と見なすのではなく兄弟として戒めなさいと書かれています。「戒めなさい」の部分はKJV訳では「さとしなさい」「忠告しなさい」と訳されています。つまりそういう人たちが悔い改めることができるように、寛容に接していきなさいということをパウロはおすすめしているのです。

 

そして、それらの御言葉のちょうど中間に本日の御言葉が書かれています。「しかしあなたがたは、たゆむことなく善を行ないなさい。兄弟たちよ。」と。

皆さんの教会もそうであるように、教会には色々な人がいらっしゃると思います。その中にはパウロのように心から真理を求めて神さまにお仕えしている方もいるでしょうし、反面、あまり真理には関心をお持ちでない方もおられます。そうなんです、要するに教会に来ている人が必ずしも御言葉に従う人ばかりとは限らないのです。また失礼な言い方で恐縮なのですが、そういう人が神さまの働きを妨害したり分裂分派をもたりしたりするのです。もちろんこのことを放ってよいかというとそうではないのですが、しかしこういうことも神さまの前に許されているという一面に関しては、よくよく理解されておいたほうが良いと思います。そうであるがゆえに、このようなことが聖書にわざわざ書いてあるからです。そして私たちはそういった中において正しく歩み、働きを担っていかなければいけないのです。そのためにはどうするのか?ということが、まさに本日の御言葉で言われていることです。「たゆむことなく善を行う」ことです。分かりやすく言うなら「ひたすら良いことだけを行う」ことなのです。また、教会のことにかぎらず、あらゆるところで不当だなぁとか不本意だなぁと、そんな風に思うことが許されるかもしれません。ではあっても、「善をおこなう」ことだけを実践していくことに御心があるということをご理解いただきたいと思います。たしかに14節に書かれているように無秩序に歩んでいる人たちにはあえて近づかないようにとは言われてはいますが、だからと言って、敵として扱うことにはまったく御心はないのだということに関しては正しくとらえなければいけません。交際はしないにしても、そういう人たちに対しても「善を行う」ことは奨励されているのだということは理解しておかなければいけません。なぜ、そのようなことが言われているのか?と、言うと、14節に「彼が恥じ入るようになるためです」と書かれているように、自分の行いに恥じて悔い改める可能性もあるからです。また、聖書には「善を行って愚かな人々の無知の口を封じることは、神のみこころだからです」とか「悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。」と書かれています。さらに、「もし、あなたがたが善に熱心であるなら、だれがあなたがたに害を加えるでしょう。」とも言われています。ですからどんな状況であれ、「善を行う」ことに御心があるのです。

 

そう、群れを荒らすような人たち、神さまの教えに背いているような人たちが正しく歩むことができるようにとりなしていくこと、ここで言われている「善を行う」とは、そのようなことを言われているのでは?と、思います。もちろんそれだけでなく、実際に御霊の実をもって接していくことも言われていると思います。こうしたことは世の中の常識とはまったく異なることではあります。そして、今の時代は多くの教会が背教化しているので、クリスチャン間でも、だんだんと消えつつあるようにも思います。そうではあっても、実践していくことに御心があります。しかも「たゆむことなく」おこなっていくことにポイントがあります。参考までにこの箇所はKJV訳では「疲れずに」とか「あきることなく」と訳されています。これらの御言葉で思い起こすことはないでしょうか?

 

「善を行うのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。」

(ガラテヤ人への手紙69)

 

そう、一度だけでなく、この地上に生きながらえている間、ずっとそのことをおこなっていきたいと思います。時には疲れたり、飽きたりするかも知れません。ではあっても、聖霊にあって忍耐を祈り求めておこなっていきたいと思います。こういったことをはじめ、聖書のあらゆる面においては逆説的なことが多く、ある意味このようなことも人間的な境地を遥かに超えているかも知れませんが、神さまはこういうことをとても喜んでくださいますし、実践していく人には必ず報いてくださいますので信じておこなっていきたいと思います。また、艱難時代においても、このようなことは非常に有意義なものとなっていきますので、祈りの中で絶えず実践していけるように心がけていきたいと思います。こういうポイントに関しても、ぜひ見ておいていただけたらと思います。

 

最近、自分にとって不利だなぁとか不当だなぁと思えるようなことがありました。そんな中、あるキリスト教の雑誌を通して教えられたことがありました。そこには「嫌いな人」や「自分を憎む人」へのとりなしについて書かれていました。そういう人たちのために祝福を祈っていくときに、神さまからの祝福が自分に返ってくるというものでした。たしかに御言葉にも、呪う者や迫害する者のために祈りなさいということが書いてあります。そして翌日から早速、祈りの中でそのことを実践してみることにしました。自分を悪く思う人や不当なこと、不本意なことに対して祝福や感謝の祈りを捧げました。すると心の内側が喜びや平安で満たされました。それと同時に色々な思惑からも解放されるのを実感しました。単純に祈っただけなのに心の中がとても軽くなりました。そのときに、「ああ、御言葉は真実だなぁ」と思い、神さまをほめたたえました。以前も、こういったことをまったく実践していなかったわけではなかったのですが、最近忘れていたことでしたので、そのことを思い起こさせていただき、本当に感謝でした。御言葉にも「たゆむことなく」と書かれていますので、これからも毎日、神さまから力をいただいて御言葉に書かれていることを実践していけたらなぁと思います。本日も大切なことを語ってくださった神さまに栄光と誉れがありますように。