聖書箇所 Ⅱテモテへの手紙2:20,21

 

2:20 大きな家には、金や銀の器だけでなく、木や土の器もあります。また、ある物は尊いことに、ある物は卑しいことに用います。

2:21 ですから、だれでも自分自身をきよめて、これらのことを離れるなら、その人は尊いことに使われる器となります。すなわち、聖められたもの、主人にとって有益なもの、あらゆる良いわざに間に合うものとなるのです。

 

「義の器となって神の栄光をあらわす」というテーマで、御言葉に沿ってみていきたいと思います。

 

順にみます。

 

2:20 大きな家には、金や銀の器だけでなく、木や土の器もあります。また、ある物は尊いことに、ある物は卑しいことに用います。

 

「家」とは、教会のことです。「器」は、クリスチャンのたとえです。ですからここでは、あるクリスチャンは尊い働き人として用いられ、あるクリスチャンは卑しいことに用いられるということを言われているのです。

 

前にも言いましたが、「尊い」のところは英語では“名誉”とか“光栄”と訳されています。つまり、神の栄光があらわされているクリスチャンのことを指します。このことには大いにポイントがあります。

 

また、「卑しい」のところは、“不名誉”とか“恥辱”と英語では訳されています。クリスチャンと称していても、そういう類の人がいるということです。クリスチャンと名が付けば、皆、栄光をあらわしたり、栄誉を受けたりするのか?と、言うと、そうではないことが分かります。“恥辱”とあるように、反対に恥を受けてしまうクリスチャンもいるのです。このことには、まったくポイントがありませんので、私たちは、栄光をあらわすクリスチャンをいつも目指していきたいと思います。

 

次をみます。

 

2:21 ですから、だれでも自分自身をきよめて、これらのことを離れるなら、その人は尊いことに使われる器となります。すなわち、聖められたもの、主人にとって有益なもの、あらゆる良いわざに間に合うものとなるのです。

 

さて、ここでは私たちが尊い器、すなわち名誉ある器となっていくためには、どのようにしていったらよいのか?と、いうことについて書かれています。

 

さっきも言いましたが、せっかくクリスチャンとして新生したのなら、ぜひ、“名誉あるクリスチャン”という風に神さまに見なされたいですよね。そのためには、「だれでも自分自身をきよめて、これらのことを離れる」ことが、条件だと言われています。「これら」とは、何を言っているのか?と言うと、その前の19節に、そのことが書かれているので、参考までにみてみたいと思います。

 

参照 Ⅱテモテ2:19

2:19 それにもかかわらず、神の不動の礎は堅く置かれていて、それに次のような銘が刻まれています。「主はご自分に属する者を知っておられる。」また、「主の御名を呼ぶ者は、だれでも不義を離れよ。」

 

「だれでも不義を離れよ」とあるように、「不義から離れる」ことが大事なのです。「不義」とは、何を言われているかお分かりかと思いますが、英語では、ズバリ、“罪”と訳されています。また、“罪”とは、“的外れ”とも言われています。

 

世の中もそうですが、今は残念ながらキリスト教会やクリスチャンの間でも、的外れなことばかりです。教理にしてもしかり、歩みにおいてもしかりです。教理に関して言うなら、獣の国がヨーロッパだとか、クリスチャンは艱難を通らずに携挙されるとか、裁きは未信者だけだとか、地獄は無い等の教えです。

 

歩みに関しては、このことは、それぞれのクリスチャンと神様との個人的な関係ですので、細かいことは申し上げられないのですが、そうですねぇ、私がざっと感じたことですが、全体的の傾向としては、かなり頑なな人が多いということでしょうか?私も人様のことをとやかく言える立場ではありませんが、そうであるがゆえに、あるいはそうなりやすいので、主からなんらか叱責を受けたときには、すぐに対応するように心がけたり、頑なになることなく、打ち砕かれていけるように、日々、祈り求めるようにしています。

 

そう、主からの警告や叱責を多くの人は何かの機会を通して受けていると思います。けれどもそのことに対して、心を閉ざしている人が、かなり多いなぁという風に感じるのですが、いかがでしょうか?口に出して言わないまでも、耳に痛いことは聞きたくないと、そんな対応をしている人を目することがあるのですが、気のせいでしょうか?「そんなことない!あんたなんかにそんなこと、言われる筋合いなんか無い!」と思われていらっしゃるなら結構です。今後とも、ぜひ、そのような歩みを続けていただきたいと思います。

 

話は少しそれましたが、聖書的に根拠の無いおかしな教理を後生大事に握っていたり、神さまから罪を指摘されているにもかかわらず、そのことをいつまでも放置するなら、“名誉ある器”になるのは、難しいと思います。ではあっても、ひょっとすると、人前では認められるかも知れません。と、言うのは、たとえば、クリスチャンは艱難を通ることが聖書には書かれているのですが、そうではない、その前に携挙されるという風に言われたほうが、嬉しいからです。あるいは、罪からの解放を聖書は語っているのですが、「そのままの君が大事。何も変わる必要はないからね」なんて聞いて、悪い気はしません。ただ、こういったことに関して、いくら周囲の人が賞賛しようとも、神の前には、“不名誉の器”としか見てもらえないのです。いつも、申し上げているように、人前というのは、まったく関係が無いのです。もちろん、認められるか、そうでないかと言えば、人からも認められたほうが良いのかもしれませんが、まず、神さまの前にどうなのか?と、いうことに私たちは目を留めていかなければいけません。

 

ですから私たちは、ありとあらゆる“不義”、すなわち“罪”から離れる必要があるのです。それらのものから離れていくときに、“義の器”、つまり“名誉の器”として神さまに見なされ、用いていただけるようになるのです。歴代誌にも、「主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。」ということが書かれています。「その心がご自分と全く一つ」という言葉に注目していただきたいのですが、神さまは「義」なるお方ですので、当然、不義があったら、神さまと一つには、なれませんよね。でも、もし、不義から離れていくのなら、私たちは神さまと一体となり、栄光をあらわすことができるのです。

 

繰り返しますが、クリスチャンの歩みは二分します。栄誉を受けるクリスチャンと、そうでないクリスチャンがいます。もちろん栄誉を受けるクリスチャンにポイントがあります。また、栄誉を受けると言えば、イエスさまの歩みがそうでした。イエスさまの歩みとは、御言葉に徹しきった歩みだったと思います。私たちもそんな風に、ひたすら御言葉に仕えていく歩みをしていくのなら、イエスさまのように、後の世において主と共に栄光を受けます。しかし、反対に、そうでない場合に、天の御国は非常に危ないものとなると思います。「絶対に永遠の命はゲット!」なんて思っていて、大どんでん返しに会わないように、くれぐれも気をつけていきたいと思います。

 

たとえば、あなたが陶芸家で、何人かの生徒を抱えています。生徒の人たちは、年に一度、デパートの一角で開催される展示会を目指して、試行錯誤しながら、一生懸命、作品を仕上げています。でも、もし、その中に出来の悪いものがあったとしたら、先生であるあなたなら、どうしますか?その人には、申し訳ないと思っても、出品するのは遠慮していただきますよね。普通の人なら、そうすると思います。神さまも、同じだと思います。いくら、私たちが、「自分は、神さまを愛している」と、言っても、神さまの目から見て、あらゆる“罪”にまみれていたら、天の御国に入ることを、拒絶されるのではないかと思います。まして、この世において、“義の器”として用いられないのですから、後の世は、もっと厳しいのでは?と、思います。特に終末は、世の中だけでなく、キリスト教会やクリスチャンの間でも、ありとあらゆる罪が蔓延している時なので、聖霊にあって、ひとつひとつのことを正しく吟味にして、不義だなぁと思うことは、すぐに捨て去って、良いものだけを受けていきたいと思います。場合によっては、人間的には損だとなぁとか、不利だなぁと感じたとしても、です。ぜひ、神さまの前に義の器となって、神の栄光をあらわしていきたいと思います。この世においても、栄光をあらわし、後の世において、栄誉を受けていきたいと思います。

 

本日、教えていただいたことは、私にとって、生涯を通してのテーマになっていくと思います。人の判断はともかく、神さまにどのように思われているのか?御目に叶う働きや歩みをしているのか?と、いうことに絶えず視点を置きながら、歩みをしています。なぜかと言うと、メッセージの中で書いたように、的外れなことが多いからです。もちろん過剰になる必要はないにしても、ただ、終末の大きな特徴のひとつとして“惑わす力”が蔓延しているので、祈りの中で、何が良くて、そうでないのか?については、確認をしながら、歩みや働きをすすめるように心がけています。まだまだ、途上の段階ではありますが、神さまの前に“義の器”となることを目指していきたいと思います。本日も、大切な語りかけを与えてくださった神さまに栄光と誉れがありますように。